第20話 気付いた想い。
リリアは夢を見ていた。
六歳のリリアが近所に住むマーサおばさんの家でおじいさんの帰りを待っていた日の事だ。
おじいさんはいつでもどんな時でもリリアの側にいて片時も離れる事はなかった。
だが、この日だけはリリアを近所に住むマーサおばさんに預け、どこかへ出かけてしまった。薬草を取りに行く時でさえどんな山奥へでもリリアを連れて行っていたおじいさんが初めてリリアを置いて行ったのだ。おばさんは優しい人だったし、『おじいさんはすぐに戻って来るよ』と言っていたが、寂しさと不安でいっぱいになっていた。夜に出かけたおじいさんは次の日の朝になっても戻って来なかった。窓辺を陣取り、リリアはおじいさんの帰りを待った。日はとっくに沈み、窓の外が真っ暗な暗闇に包まれた頃、やっとおじいさんは帰って来た。一人の少年を連れて。
『先生、おかえりなさい。リリアは、とてもお利口に待っていましたよ』
マーサおばさんを含め、村の人達はおじいさんを『先生』と呼んでいた。
『マーサ、ありがとう。遅くなってすまなかったね。リリア、ただいま。おや? 泣いているのかい?』
帰って来たばかりのおじいさんにしがみ付き、リリアは声を出して泣き出した。そんなリリアをおじいさんはいとも簡単に抱き上げ、優しくあやしてくれる。
おじいさんは背が高く、白髪まじりの茶色い髪をいつも後ろで一つに束ねていた。この国では珍しくはない茶色の瞳は穏やかで、その優しい眼差しに見つめられただけで今までの不安や寂しさはすぐにどこかへ消え去っていく。
『先生が迎えに行っていたのは、その子なのね?』
マーサおばさんが戸口で立っている男の子に、優しい笑顔を向けた。
その男の子は緩いくせのある赤味の強い金髪で、顔だけを見れば少女だと言われれば信じてしまうほど綺麗な顔立ちをしていた。
だが、リリアをじっと見つめていた瞳は、温かみの無い薄い青味を帯びた灰色で、子供独特の生き生きとした光がまったくなく、暗い眼差しをしていた。なんだか空っぽに見えて、リリアまで悲しい気持ちになってしまった。この男の子の顔をリリアは覚えていた。
昨日、街でおじいさんに声をかけてきた男の子だ。会った時は、彼の目はもっと違う印象的を与えていた。
『ねえ! 俺を買ってよ』
突然駆け寄って来た男の子がおじいさんの腕を掴んだ。珍しくおじいさんが険しい表情を向ける。
その男の子が彼だった。彼はその時笑っていたが、その目は以前森で遭遇した、自分よりも大きな熊に挑む狼のそれに似ていた。
『あの狼はお腹を空かせた子供の為に必死で獲物を狩っているのだよ』
おじいさんはそう説明していた。
『他を当たってくれ。悪いが、わしにはそんな趣味はない』
『あんた、よく効く薬を持っているんだろ? ねえ、頼むよ。俺を買ってくれよ。それで、あんたの薬を分けてほしいんだ』
『……店からつけて来たんだな。誰か、病気なのか?』
『母さんだよ』
男の子の顔が痛みを堪えるように歪んだ。おじいさんはすぐに彼の母親の所へ案内をさせた。彼が向かったのは、街の外だった。薄い板で建てられた家がいくつもあって、その中でも今にも倒れそうな家が彼の家だった。
戸口でリリアは口に布をあてがわれると、その場でぴたりと足を止めた。病人がいる家ではいつもそうするのが決まりだったからだ。
戸口と言っても一部屋しかなく、部屋の奥に酷く痩せた女の人が横たわる姿が見えた。その女の人が男の子のお母さんだった。彼はおじいさんが母親の症状を調べている間、側で立ったままずっと不安そうに見つめていた。
『今、薬を飲ませたから、しばらくは痛みも落ち着くだろう。また痛み始めたら、この薬を飲ませなさい』
『これ、薬? くれるの? 母さんは元気になるよね?』
『……今夜が峠だ。意味が分かるか? わしに出来る事は、おまえの母親をずっと苦しめている痛を少しの間だけ和らげてやれるだけだ。今日はこのままずっと傍にいてあげなさい』
彼は小さく頷いた。その姿が急に頼りなげでとても小さく見えた。家に戻る道中だけでなく、家に帰ってからもおじいさんとリリアはあまりしゃべらなかった。
そしてその夜、おじいさんはリリアを置いて出かけて行った。
『この子の名前はシャイルだ。年齢は十四歳だそうだ。今日からリリア共々よろしく頼むよ』
おじいさんがシャイルの背中に手を添えマーサおばさんへ紹介すると、彼はゆっくりと深いお辞儀をした。
『シャイルです。よろしくお願いします』
リリアに新しい家族が増えた瞬間だった。
次の日から、シャイルはおじいさんに付従い、色んな事を教わり始めた。
薬草の事、文字や計算、剣術まであらゆる事をおじいさんから学んでいった。彼は乾いた大地が水を吸い込んでいくように知識と経験を身につけていく。空いた時間に村の子供達に読み書きなどを教えるようにもなっていた。
リリアが九歳になる頃には村ではシャイルの事を『若先生』と呼んでいた。そして一番変わったことは、おじいさんがリリアをシャイルに任せ、一人で遠くまで薬草を取りに行ったり、病人の所へ行くようになった事だ。
シャイルの深くて暗い穴のようだった目はいつからか澄んだ湧き水のように光が溢れていた。
『シャイルばかり狡いわ。私も薬草の事を教えてほしいのに……』
いつものようにおじいさんが一人で出かけてしまった後、シャイルと二人で留守番をしていたリリアは、薬草を煎じているシャイルの側で頬を膨らませた。リリアも薬草の事を学びたかったのだ。おじいさんやシャイルのように人の役に立ちたかった。なのに、おじいさんには言葉使いや行儀については厳しいほど教えられたが、剣術や薬草については『危ないから』と触れることさえ許してくれなかった。
『そうねぇ~。リリアの気持ちはよく分かるわ。でもね、剣術を習うより、あなたの場合は危険だと思ったらとにかくすぐに走って逃げることが大切なの。それに薬草と言っても毒があったり、毒草と酷似していたり、軽い気持ちで扱えないものなのよ』
シャイルは右手の人差し指を自分の唇に当て、考えるような仕草をした。彼はいつのまにかおねえさんのようなしゃべり方をするようになっていた。理由は『男言葉をリリアが真似ると困るから』と言っていたが、髪も長く伸ばし、男だと知らなければ背の高い女の人にしか見えなかった。おじいさんは笑っていたが、その事については何も言わなかった。
『軽い気持ちなんかではないわ。知らない事のほうが危ないと思うの。そう思うでしょう?』
シャイルは少し首を傾け、リリアのペンダントに指先で触れる。この中には毒を中和する薬が常に入っている。
『先生は、どんな些細な事からもリリアを守りたいのよ。確かに時々神経質すぎると思う事もあるけれど……。まあ、毒消しの薬を持たせるくらいなら、きちんとした薬草の知識を身に付けて、上手く扱えるようになった方がいいという考え方もあるわね。でもね、あなたは彼にとっていつまでも小さくて、何ものにも代えがたいとても大切なお姫様なのよ』
『私にとってもね』とリリアに向け片目を閉じて見せた。なぜかその仕草にリリアはいつもどぎまぎとさせられてしまう。
そしてリリアが十四歳になった時、シャイルがおじいさんに掛け合ってくれたおかげで、リリアも薬草について教えてもらえるようになった。リリアは念願が叶って、一生懸命に教わった。リリアには才能があるらしく、彼女が作った薬は本当に良く効くと噂になるほどだった。
だがその翌年、年が明けるとすぐに流行り病で村人がバタバタと倒れていった。リリアとおじいさんは一度かかった経験があるので大丈夫だったのだが、シャイルも感染してしまい、おじいさん一人で対応に追われることになってしまった。リリアも手伝ったのだが、たった一年の知識では特殊な病気に対し足手まといにならないだけで、おじいさんを助けるまでには至らなかった。
みんなが元気になった頃、おじいさんは疲労から風邪を拗らせ、そのまま帰らぬ人となってしまった。
『おじいさん! おじいさん! 目を開けて! 私を置いて行かないで!』
どんなに泣き叫んでも、おじいさんは再び目を開ける事は無かった。あの優しい眼差して見つめてくれることももうない。
「……ア、……リリ……ア、リリア」
誰かが名前を呼んでいる。リリアを気遣う優しい声だ。
頭を撫でる大きな手がとても心地いい。
「──シャイル?」
リリアはゆっくりと瞼を上げた。
目の前に心配そうに覗き込む精悍な顔があった。その澄んだ黒い瞳をとても長い間見ていなかったように感じる。
「クロウ……」
「……大丈夫か? かなりうなされていた」
額の上に濡れた布を置いた後、彼はリリアの目もとを拭う。どうやら夢を見ながら泣いていたらしい。
またクロウに心配をかけさせてしまったようだ。
「だ、大丈夫。心配かけて、ごめんなさい」
「……」
かすれている上に小さな声しか出せなかったので聞こえなかったのかもしれない。クロウは無言のままリリアをじっと見下ろしている。
「……シャ」
「え?」
「あ、いや……何でもない」
クロウは何か言おうとしたようだが、途中でやめてしまった。
「クロウ?」
彼の何か思いつめた様子が心配になりリリアが声をかけると、突然クロウが立ち上がった。
そして、そのまま部屋から出て行こうとする。
「クロウ……」
リリアは思わず呼び止めてしまった。
「……熱は下がったようだが今は無理をするな。何かおまえが食べられそうな物をもらってくる。もう少し眠ったほうがいい」
背を向けたままのクロウの姿は、まるでリリアの事を避けているように感じた。去って行く後ろ姿を見つめ、リリアの心臓がぎゅっと掴まれたように苦しくなる。
迷惑ばかりかけてしまったせいで、とうとうクロウに嫌われてしまったに違いない。
そして、今頃になって気付いた事がある。
(私は、クロウの事が好き)
だが、その思いを告げる前に、疎まれてしまったのかもしれない。後ろ手に閉められた扉を見つめ、リリアの瞳から一滴涙が流れ落ちた。
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