第3話 見えない雪空

そいつは晴れの日に傘をさし、雨の日には傘をささずに街を歩くような変なやつだった。

ひざしの強いイタリアでは日傘をさす人も少なくはないけれどそいつがさすのは決まって雨傘で、艶やかな黒髪を隠すようにして歩いていた。

全然知らない街で、知っている人間も頼れるような人間もおらず絶望に打ちひしがれていた俺に声をかけてきたのはそいつからだった。

「なんでそんなに悲しそうなの?君、日本人だよね」

傘の奥に見えた瞳が、一瞬死んだ知り合いに見えて思わず後ずさった。

「あ、ごめんね。顔見えちゃった?気をつけてはいるんだけど…」

得体の知れない恐怖の様なものを感じ、俯いて顔を逸らした。

それなのにそいつは空元気のような中身のない明るい声でけらけら笑っていた。

「あんた、何者だ。からかってるだけならもう帰ってくれ。」

そいつの笑い声は酷く沈んだ心には五月蝿すぎて無性に腹が立つ。

帰れと言ったのに一向に動け気配のないそいつに文句を言おうと俯いていた顔をあげたその時の事だった。

身体中の力が抜け落ち、そのまま地面に崩れ落ちてしまった。

そのうち意識も遠のき空っぽな笑い声を聞きながら意識を手放した。

この日ほど夢であって欲しかったことはないかもしれない。

道のど真ん中で倒れた所で記憶が止まっている俺は目の前に広がる景色に思考が追いつかず、ふかふかな布団に倒れ、目を瞑り夢でないことを確認したあと再び起き上がった。

俺の隣で寝ていたのは、死んだはずの知り合い。

俺の元恋人だった。

頬をつねってみても頭を殴ってみても目の前の人間は紛れもなく死んだ恋人と同じ顔をしている。

「おはよぉー。急に倒れるからびっくりしちゃったよ、ここは僕の家で君が倒れた道から徒歩5分の場所にある。」

あの場所に帰りたいならいつでも帰れるよ〜なんて、昨日のようにけらけらと笑う。

確かに声と顔や体格は恋人のものだが、しゃべり方は昨日のあいつにそっくりだった。

タチの悪い悪ふざけかと思ったが、それにしては昨日と体格も何もかもが違いすぎる。

「わざわざ泊めてくれてありがとう。助かった。いくつか質問をしてもいいか?」

そう問いかけたところけらけらと笑っていたのがぴたりと止んで驚いたような顔をした。

以外、なんで、とかそんな感じの表情をしていてますますこいつの思考がわからなくなっていく。

こいつは俺について何か知っているわけじゃないのか?

それにしては俺に対するパーソナルスペースは狭いし、まるで友人のように接してくる。

「お前は俺の知り合いと全く同じ顔をしている。それは、偶然なのか?」

昨日見えたのは瞳だけだったから違和感のみだったが今日は顔を隠す傘がないため顔が良く見える。

その顔立ちはあいつを知っている奴がみれば死人が生き返ったかと思う方が自然な程に似ている。

「僕に似てるその人、死んでるでしょ。」

貼り付けたような笑みも消え去り無表情で声も別人のように暗いものに変わった。

「僕はね、見る人によって顔が変わるんだ。もう1度会いたい死人がいる人にだけ僕が見えて、その顔は死んだはずの人間そっくりに見えるらしい。」

だから傘で顔を隠すんだと力なく笑った。

驚くことも無く冷静に質問をしてきた人間は俺だけだったらしくびっくりした事、俺に出会ってから何故か映らなかった鏡に映れるようになった事、自分の本当の顔は知らない事を教えてくれた。

「ずっと、知らない人間の顔で生きていたのか。」

もう既にこの時には死んだあいつと目の前のこいつを重ねる事はできなくなっていた。

すこし前まで蔓延っていた悲しみや絶望は殆ど消え失せ、あいつはいくら嘆いても戻っては来ないのだという事実を受け止める事が出来た。

自分は冷酷な人間なのかと思ってしまうほどに俺の興味は目の前のこいつに注がれている。

「ずっとこうだったわけじゃないと思う。昔は太陽を見ることが出来たはずだから。」

どういう事なのかと問いかけるとこいつの視界にはずっと雪が降っているらしい。

その雪が自分を別の人間に書き換えてしまう。

雨の日だけは皆が傘をさして視界を閉ざしてくれるから傘をささずに空を眺めることが出来るのだと。

「僕の目の前を落ちる雪は決して積もることは無いけれど、とても美しいんだよ。だから僕は自分の異常性を嫌ったりはしない。」

太陽をみれないのはちょっぴり残念だけど、と付け足していたずらに笑った。

その笑顔には先程とは違い色がついていた。

きっと、花のように綺麗に笑うこの顔が彼の本当の表情なのだろう。

「君の話も聞かせてよ。それとも初めて鏡に映った僕の感想聞く?君の恋人、すごいイケメンでびっくりして叫んじゃった。」

おどけたように見えるけれど彼は俺が答えたくない時の逃げ道を作ってくれたのだろう。

言葉の中に話したくなければ話さなくていいよ。という意思が汲み取れた。

変わったやつだけれどやさしい人間なのだろう。

「大して面白くないが、それでもいいなら話そう。」

彼は返事はせずにこくこくと頭を縦に動かした。

俺がイタリアに来たのは死んだ恋人と結婚するためだった。

事実婚で構わない、だけど親にだけは話しておきたい。

それがあいつの願いだった。

しかし、勇気をだして告げたマイノリティな関係は両者の親を激しくきずつけてしまったのだ。

2度と帰ってこないでくれと泣きながら叫ばれ、とぼとぼと歩きながらこれからを話し合った。

海外へ逃げよう。誰も俺達のことを知らない場所へ行きたい。

そう決めてまずはあいつのお気に入りだったイタリアへ行くことに決めた。

短い間の逃避行の旅のはずだったのに、あいつはその旅のさなか病気で死んだ。

死因はよく分からなかった。

俺の前では明るくいつもと何ら変わりない生活を送っていたのに、気づけなかった。

血縁関係でない俺はあいつの死因すら知ることが出来なかった。

あいつの親にはお前のせいだと強く罵られ蔑まれ軽蔑されていたから何も教えてもらえないのは当然だ。

心の支えがなくなり、なんのやる気も起きなくなってしまった俺はなんとなく旅の続きをして見ることにした。

いろんな観光地を見て回り、その度にあいつの面影を思い浮かべでは死にたくなった。

でも、昨日お前にあって変わった。

もういない人間の面影を追い求める事の虚しさと、愚かさを知った。

言い訳をこじつけて忘れようとしているのかもしれない、救われたいのかもしれない。

ただ、ひとつ言えるのは俺はあいつの事は死ぬまで忘れる事はないし、永遠に愛している。

それだけは絶対に覆らない事実なのだからそろそろ前を向かなければいけないと思えたのだ。

「これが俺があそこにいた理由だ。」

「ふーん。なんだか妬けてきちゃうなぁ」

ベッドに腰掛けながら足をぶらぶらと弄びつまらなそうに呟いた。

その言葉には俺と恋人への軽蔑とか侮辱は含まれておらず、ただ本当に嫉妬しているかのように頬を膨らませながらつまらないと言ったのだ。

「なんだよ、妬けるって。」

不思議と向けられたその感情が嫌ではなくてつい口角が上がる。

慣れ親しんだ顔というのもあるが生気の戻ったこいつの喋り方や仕草がどうにも憎めなくて可愛らしく思えてしまう。

「笑うと余計にかっこいいね。旅してたって言ってたけどここへ来てどれくらい経つの?旅行者って滞在期間限られてるでしょ?」

正確な日数は把握してないもののまだそんなに経っていないはずだ。

貯金だけは馬鹿みたいにしていたためホテル代などには困らなかったけれどここ2、3日は死んでも構わないと殆ど寝ずに歩き通していた。

「多分まだ1ヶ月くらいしか経ってない。でもまぁ、そろそろ日本に帰ると思う。お前はここに住んでるのか?」

寝室しか見ていないが、それだけでも十分広く、ホテルのスイートルームなのか、自宅なのかわからない。

僕の家と言っていたしこの広い家に一人で暮らしていると考えた方が妥当なのだろうか。

「ここは貰った家なんだ。死んだ息子の代わりに住まわせてもらってて、戸籍もその人のなんだ。」

イタリア人の息子だから事実そうでなくてもここに居られるらしい。

帰る場所なかったし、そもそも自分が何処から来たのかも分からなかったからラッキーだったよねー。

またあの空っぽな声を上げて笑った。

そんなのおかしいじゃないか、

帰る場所も分からず自分を自分として認められずに生きてきてこれからもそうして生きていかなければならないなんて。

「お前はお前だろ。顔とか関係ない、誰かのふりして生きることを甘んじてんじゃねーよ。」

酷く身勝手なセリフなのは分かっていた。

それでもこんな理不尽な状況を受け入れているのが信じられなくて、憤りを感じたのだ。

お節介なのは百も承知だが、こいつをなんとかしてやりたい。

「そんな事言われたの初めて…余計なお世話、って言いたいところだけどやっぱり嬉しいや。」

ふふ、ふふっと幼い子供のように隠しきれない喜びを溢れさせて抱きついてきた。

抱きつかれたその一瞬、顔が変化したように見えて肩を押し返した。

「お前、顔が…」

本当の顔と言っていのかは分からないが変化したその顔は、くりくりとした瞳に綺麗な形の鼻。

青みがかった綺麗な黒髪で、瞳の色は異国のものなのか透き通った緑色をしていた。

戸惑う俺を他所にこいつはぐっと距離を縮めて俺の瞳を覗き込んだ。

「僕、そういえばこんな目だった。」

嫌いだったんだ。

周りの大人も、僕もこの瞳が大嫌いだった。

いつも前髪を伸ばして目を隠して生きていた。

母をこっぴどく捨てて行った父とそっくりなその瞳は親戚中に疎まれた。

緑がちらりと見えるたびにくすくすと笑われ、黒髪には似合わない明るく澄んだ緑は周りの同級生からも気味悪がられた。

母ですら僕を見ては怯えて暴力を振るう。

ずっとどこかに逃げたくて寒い冬の日にもう2度と帰らないつもりで家を出た。

傘もささずに歩く雪の街は人の視線を気にしなければならない日常よりうんと素敵で、そんな雪にお願いしたんだった。

だれかに必要とされる顔にしてくださいって。

そうしたら横を通り過ぎたお婆さんが僕を見て言ったんだ。

亡くなった夫が帰ってきてくれた…ってないていた。

そのお婆さんには亡くなった夫が若い姿で目の前に現れたらしく、戸惑う僕をいいから家に来てくれと引っ張ってお婆さんの家まで連れていかれた。

変な話だけど、僕は嬉しかったんだ。

僕の顔を見て泣くほど喜んでくれる人がいて、僕の事を否定せず何も聞かずにそばにいてくれる人がいる事が嬉しくて堪らなかった。

でもね、お婆さんは最後まで僕を夫だと信じて止まなかった。

死ぬ間際にもう1度あなたに会えてよかったって死んでいくのを見て、僕はなんて最低な嘘をついてしまったんだろうって絶望した。

僕は自分の欲を満たすためにお婆さんと夫さんの思い出を傷つけたんだ。

その時から、僕はまた顔を隠して生きてきた。

自分の犯した罪に心を蝕まれながら、ふらふらとさまよって生きていた。

暫くするともう頭がおかしくなってきていたのかな、また人を騙しながら人に寄生して生活するようになって、そうこうしてるうちにイタリアまで流れ着いてたんだ。

晴れの日は僕を嘲笑うように綺麗な雪が降るから、顔を隠して過ごして雨の日はみんなが自分の顔を隠すから今度は僕が自分を隠さずにあるいた。

雨の日に僕に気づいて声をかけてくれた人に甘えるように、傷口にずぶずぶと漬け込んだ。

君に声をかけたのは視界の端っこに映った髪の色が久しぶりに黒髪になったから気になったんだ。

ほんの気まぐれで自分の中の雨の日ルールを破って君に声をかけた。

それは間違いだったのかもしれない。

お父さんに重ねられることが嫌だったから、誰かに重ねてもらうことで罰を受けているつもりだったのに。

君は、僕は僕だと誰も教えてくれなかった当たり前の事を会って2日で教えてくれちゃうんだもの。

永遠に知らないまま頭のネジが外れたまま生きていられた方がずっと楽だったのに。

誰かの前で泣くのなんて初めての事でこの涙を止める方法を僕は知らないのに。

「お前は俺にどうして欲しい。」

ひくひくと涙を流すこいつは儚く、その涙ごと瞳まで溶けてしまいそうに思えるほどに大粒の涙を流して泣いた。

「助けて、欲しい。」

その声はまるで雪の降る音のように小さくすぐに空気に馴染んで消えてしまったけれど、しっかりと俺の耳には届いた。

「俺と一緒に生きないか。俺はお前の瞳を綺麗だと思うし、それを別の誰かのものと取り替えたいと思うほどに嫌いなら俺にくれ。」

俺は今、何も持っていない。

こいつを守る家も車もなにもないしましてやこいつの名前すらも知らない。

それもこれも全部、これから作っていけばいいのだ。

2人を守る家も車も新しく揃えて、自己紹介から始めよう。

お前の知らない愛も、温もりも、全部俺が教えてやろう。

それだけでは足りないだろうか。

「プロポーズみたいだね…」

涙の止め方はこの人が教えてくれた。

僕のこれからをこの人が教えてくれる。

こんなに幸せなことがあってもいいのかと疑ってしまうほどに、目の前に広がる広いだけのさみしい寝室がどんどん色付いていく。

ごめんね、元恋人さん。

これで最後にするから、最後まで死んだあなたの代わりにこの人の隣にいたいんだ。

「プロポーズだよ。あいつの代わりじゃなく、今度はお前と一緒にいたい。切り替えの早い男は嫌いか。」

ぶすっとむすくれてそっぽを向きつつも耳はほんのり赤く染まっていて、胸に膨らむ思いも甘く赤く染まっていく。

俺へのプロポーズよりいい感じ気がする!!!!

と聞こえた気がした叫び声につい笑い声が零れて2人で馬鹿みたいに大笑いした。

もう緑の瞳は怖くない。

「切り替えられないように頑張る、…不束者ですがよろしくお願いします。」

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