***


 光の草むらの縁ぎりぎりに立って、大樹の答えを待った。

 光と陰の境界は、あの世とこの世の境界だと誰かが言っていた。向こうに行ってはいけないよと、そうカナギに教えてくれたのは誰だったか。

「駄目だ!」

 カナギは男の腕を掴みぐいとこちら側へ引き寄せた。大樹への期待からつい前のめりになってしまった男が境界を越えようとしていた。

 男は驚いた様子でこちらを見上げた。

「ウルハシに来る前に言われなかったか? 『境界』を越えちゃいけないって」

「あ、ああ、そういえば」

 しかし足もとにあるあやふやな境が『境界』であるとは、言われなければ気づかぬものだろう。あらためてその一線を確認すると、男はまた半歩後退った。

「決が出たぞ」

 幹の具合を見守っていたウキヨトが言った。口もとは優しく笑んでいる。

「良かったな。お出ましだ」

 そう言って幹から離れる。

 コトノハを飲み込んだ大樹の幹の一部分は、ぐらぐらと煮え立つ湯のように揺らいでいた。

 コトノハを差し出した男がしびれを切らしてしまうくらいの時間をかけて揺らぎは続いていたのだが、それがついに終わりに向かった。

 激しかった対流は次第におさまり、どろりとした液体の動きをしていた幹の表面は形を変えながら硬化していく。美しくなめらかな木肌に戻るのではなく、ゴツゴツとしたうろを形作ったところでついに安定した。

 今回の決は『可』だった。

 カナギもウキヨトもこの時点でそうと理解できたが、初めてこの場に立った参拝者は違う。半信半疑のまま、洞の奥を気にしている。

「来るぞ」

 とカナギは男の肩を叩いた。

「それはつまり……」

 男の目に光が宿る。

 深い闇が深く続く洞の縁に細い指の先が掛かった。

 それを見て男は確信したようだ。

 ああ、と声にならない声が漏れた。

 見開いた眼には涙が張り、体はわずかに震えているようだった。

「あれはまさしく、私の母です。三年前に亡くなった最愛の母です」

 顔の多くを隠していても、今彼がどんな表情でいるのか手に取るようにわかる。

 参拝者は歓びに満ちた顔つきで大樹の洞から抜け出た女を呼んだ。




 オンコトの森の男森の奥深く、大変な思いをして大樹を目指すのは死者に会うためだ。この森は、死者の住む世界と繋がっているという。

 女森に育つ木の葉っぱである『コトノハ』に会いたい人の名を刻み男森の大樹に捧げれば願いが叶えられるとされ、多くのものが季節を問わずに森を訪れた。

 いつからかそれは『御事参り』と呼ばれ、森に接するウルハシの村の人々が参拝者の世話をするようになった。

 しかし実際に願いを叶えられたものはそう多くはない。

「今日はまだいい方だ。大樹にたどり着いた分は二人とも『可』だったんだからな」

 その二人を無事に村まで連れて帰ったカナギは、今は宴の準備を手伝っている所だった。

 参拝者が滞在している間は村人の誰もが暇なく働いた。特に子どもたちは忙しい。

 女森に入りコトノハを採取できるのは女の子どもだけだし、男森では例の匂いのせいで大人は使い物にならなくなるから案内役は男の子どもに任される。

 安全を確保しながら参拝者たちに気を配り、体力的にも厳しい山道を往復するというのは、慣れていてもなかなかに大変な仕事だった。

 先に戻っていた案内役の子どもたちはすっかり疲れてしまったようで昼寝から戻ってこない。

 だというのに、大樹まで行ってついさっき戻ってきたばかりのカナギは、少し体を休めただけでまた手伝いに駆り出されてしまった。

「仕方ないわよ。今日の子たちはまだ経験が少ないから。それに道の状態が良くなかったんでしょう?」

 スガソが優しく笑う。スガソはカナギと同じ年の村の子だ。一年程前からコトノハを摘む巫女の役目を任されている。女の子どもであれば誰でも女森に入ることはできるが、コトノハを摘み取ることが許されているのは巫女一人だ。巫女の魂の清らかさによって御事参りが成功するかどうかが左右されるなどということを言うものがいるが、カナギはそれは誰かが作った迷信だと思っていた。何故ならそれが本当の話ならば、スガソが巫女になってからの御事参りの結果が全員『可』でなければおかしいからだ。

 スガソが運んできた敷物を受け取って村の広場に敷き並べた。

 大人や子どもが食器やら酒が入った瓶やらを運んできてはまた戻っていく。

 その列に加わろうとしたスガソの横にそっと並んだ。

 三つ上の姉などは都の人からもらったという香水などを全身に振りかけたりしているが、カナギはその匂いを良い匂いだと思ったことがなかった。それならば、スガソの隣を歩くときほのかに香る彼女の匂いの方がずっとずっといい匂いだと思う。

 もちろん、そんなことを口にしたらスガソにもみんなにも気持ち悪く思われるだろうから、誰にも言ったことがない。

「どうかした?」

「な、なんでもない。……今日はどんな宴になるかって、考えてただけだ」

 カナギは誤魔化してあさっての方を向いた。

「どんな話が聞けるかしらね」

「ああ。楽しみだなあ」

「カナギの場合、楽しみなのは話よりも料理でしょ。今日は都から運ばれた食材がたっぷりあったから」

「それも楽しみだけど、それより俺は……」

「なあに?」

 スガソが顔をのぞき込む。

 都の食べ物も、参拝者の話も、もちろん宴の楽しみではある。だがカナギにとっては、宴の夜は遅くまでスガソといられるのが何よりも嬉しいのだ。

 しかしそれを伝えるのは今ではない。

 隣を歩くスガソの肩の位置はまだカナギよりもこぶし一つ分高い。この差がなくなったら、追い越したなら、そのときには臆することなく想いを伝えようとカナギは思っていた。




 御事参りのあとに行われる『振る舞い』には参拝者全員が参加した。

 けっして豪華ではないが村人たちが心を込めて用意した料理や酒が参拝者たちに振る舞われた。

 故人に会えた者も、願いが叶わなかった者も、晴れやかな顔で宴を楽しんでいる。

 どうしてだろうかとカナギはいつも思っていた。

 会えた者は言うまでもない。だがここまで来て会えないまま帰ることになった十人はどうか。彼らは失意の底にあるのだと思っていた。しかし彼らは楽しげに他の参拝者や村人たちと語らっている。故人のことに触れるときにも悲壮感が漂うようなことはない。

「会えないことで、むしろ吹っ切れたんじゃないかな」

 宴の様子を不思議そうに眺めていたカナギの隣りに世話人の男が腰を下ろした。そこはスガソのために空けておいた席だと言いたかったが、当のスガソは配膳や何かの手伝いで忙しそうにしていた。

「会えるかもしれないと思うといつまでも未練がましく想い続けてしまうけれど、会えないとわかれば案外難なく決別できるものだからね」

「経験したみたいに言うなあ。あんた、御事参りしたことあったっけ?」

「『死者と生者』も『男と女』も似たようなものだよ」

「酔っ払ってるだろ。世話人がそんなんでいいのか?」

「いいのいいの。一緒に酔うことも仕事のうちだから」

 そう言って世話人の男は他の席へと移った。今度はあの大樹の目前で脱落した男の隣りに座ってケラケラと笑い声を響かせる。確かに世話人の言うとおり、男は憑き物が落ちたみたいな顔をしていた。

「そういうもんかね。あ、ついでに聞けばよかったな。それじゃあ会えた場合はどうなのかって」

 言いながらカナギは昼間森で見た景色を思い出した。

 ようやく故人と会った男たちが歓びのあとに見せた顔。あれはどう見ても『虚しい』というような感情だった。せっかくの再会のときをどうしてそんな顔で過ごすのか、その顔で見送るのか。

 何度も同じような光景を目にしながら、カナギはまだ答えらしい答えにたどり着けずにいた。都の人ならば――と期待はするが、千鳥足で参拝者のもとを渡り歩く彼の姿に希望は重ならなかった。


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