***


 一歩踏み込んで、カナギは眉をしかめた。

 今日の土はずいぶん水分を含んでいる。カナギたち村の人間が履くような履き物ならばまだしも、参拝者たちのものでは難儀するだろうなと思った。

 そういう『単なる山登り』だけでも脱落者が出る。

 登りはじめの急登で早くも脱落者が出た。腿を高く持ち上げなければどうにもならないような大きな段差もある登りの道だ。地上に張り出した木々の根のせいで歩きにくくもあり、膝から下を泥だらけにしただけで根を上げた者が四人いた。

 泥濘ぬかるみで転び腰を打った者が一人。

 体力不足でついていけなくなった者が二人いた。

「さすがは村の子だなあ。大人の足でも厳しい道なのに」

 息を切らしながら一人の男が言った四十くらいの年の男だ。本人は若いつもりのようだったが、進めば進むほど他の参拝者から遅れていった。

 カナギは彼のところまで戻って声をかける。

「この先はもっと厳しくなる。無理はしない方がいいぜ、おっさん」

「おっさんとは……まあ、君らからみたらおじさんか。君、いくつだ? とおくらいか」

「冬がくれば十二になる。背は案内役の中で一番低いけど、足はでかいから、あっとういう間におっさんくらいにはなるから」

 年よりも幼く見られたことにムッとして、カナギは吐き捨てるように言った。参拝者の男はその様子に気づくことなく「そうか十二か。しっかりしてるなあ」などと感心していた。

「しかしこの先はもっと厳しくなるって?」

 言いながら目の上に手のひらをかざし道の先を見遣る。うっそうとした森の先はかろうじて細く続く道が見えるだけだ。

「下から見ていた感じだと、もう厳しいところは上がりきったと思うんだが」

「地形的にはね。でもみんな、こっから先で苦しむんだ」

「苦しむ?」

「そ。俺たちにはわからないけどね」

 カナギは言ってツンと鼻を上げた。

 男もそれを真似る。

 木の匂い、緑の匂い。湿った土の匂いがして、そこにときどき鳥や獣の匂いが風に乗ってやってきて、うっすら人の匂いも混じってる。人里近くにある健康な森らしい匂いだ。

 カナギにはそう感じられた。しかし男には違ったようだ。

「うわっ! 何だこれは!」

 男が顔を歪めるより一足早く、前方で声が上がった。それも一つではなく、次々と。

「おっさん、鼻を覆うもの持って来てるだろ。早く巻いた方がいいぜ」

「あ、ああ!」

 カナギの指示に従って、男は荷物の中から厚手の布を引っ張り出した。冬に纏う防寒着の布地よりもまだ厚いようなものだ。それを顔の半分が隠れるように巻く。それでも防ぎきれなかったようで、何度か嘔吐えずいていた。

「何なんだ、この匂いは。君は平気なのか?」

 苦悶に満ちた顔でカナギを見る。

「大人だけみたいだよ、それ」

 都から参拝者を連れてくる世話人が言っていた『引き返す方が大半』ということの原因の一つがこれだ。

 カナギたち子どもには感じられない『匂い』が大人たちを苦しめるのだ。

 それは人によって表現が異なった。酷い腐敗臭。糞尿の匂い。薬草の匂い。ツンと鼻の奥まで突き抜けるような刺激臭。人が焼け焦げる匂いなどと言った者もいたが、いったいどこでそれを嗅いだことがあるのかと恐ろしくなったことを覚えている。

 大人たちはいろいろな例えで苦痛を訴えた。共通していたのは『耐えがたい悪臭』ということだった。

 今回の参拝者からも、匂いが原因で引き返す者が三人出た。

 結局残ったのは二人だった。

 森に入る前、カナギが目を付けた二人だ。カナギのことを「しっかりしているな」と言った男は残念ながら大樹にたどり着く少し前に脱落した。

 案内役として共に登ってきた他の五人の少年に脱落者たちの付き添いを頼み、カナギは残った二人を大樹のもとへ案内する。

「もうすぐだ。具合はどうだ」

 ときどき振り返りながら前へと進んだ。

 残った男たちも状態は良くない。今にも這いつくばりそうになりながら必死にカナギの後を追う。

「どっちかが倒れたら今回の御事おこと参りは中止するからな。俺は倒れた者を村に運ぶ方を優先する。そういう決まりだから」

 そう言いながらも何とか連れて行ってやりたいと思っていた。高い金を払いここまでやってきて、それで目的を果たせずに引き返す無念というものは、傍から見ていてもあまり気分の良いものではない。

 参拝者の不安と、カナギの不快感と。そういうものに擦り寄るように森の木々が作る影は濃く深くなっていく。

 陰鬱な山道の先、この場所の暗さとは対照的な光指す場所がようやく見えて、カナギはふうっと息を吐いた。

「あの光のもとに大樹がある」

「ああ、あれが――」

 喜びの声を上げた男がむせ返る。口を開けたせいで例の匂いを余計に吸い込んでしまったようだ。

「あそこに着いたら楽になるぞ。よく頑張ったな」

 カナギは言ってにいっと笑った。

 男たちも表情を明るくさせたようだったが、目のすぐ下まで隠した顔では、彼らの感情の機微を掴みきるのは難しかった。

 最後の最後まで気を抜かず、彼らの様子に注意を払いながら、カナギは泥濘んだ道を進んだ。

 カナギたちの目指す先は、陰の場所と明るみとがくっきりと分かれていて、まるでそこに境界線が引かれているように見えた。

 その境界線の向こう、わずかにひらけた場所に緑鮮やかな草むらと、大樹の太い幹が見えた。大きな大きな木だ。大人十数人で囲んでもまだ足りないほど幹は太く、地上に這い出した根の一部はその辺の木と変わらぬくらいの存在感がある。

 それほど大きな木だったから、足もとに立っていた子どもの体躯が余計に小さく幼く見えた。

「え? あんなところに…………子どもが?」

 実際はカナギと変わらぬ背丈の子どもだ。

 身に着けている衣服の袖も裾も、真っ黒な髪の毛も、森の下草を擦るほどにだらりと長い。しかしどこにも土の汚れや草の汁は滲んでいなかった。汚れのない白の装束に身を包んだ子どもが、大樹のずっとずっと高いところを見上げていた。

「あれがウキヨトだ」

 最後の一歩でよろめいた男の手を掬ってカナギは言った。「ありがとう」と弱々しく言った男の顔色が変わる。境界の間際にたどり着いた途端、あの匂いから解放されたのだろう。今までの大人たちも同じような反応を見せた。

 鼻の奥や体に匂いがこびりついていそうなものだがと男は首を傾げていたが、カナギの台詞を復唱すると、また慌ただしく顔を青ざめさせた。

「この森に住む神様のような方なんだろう。それを『あれ』だなんて言い方を」

 遅れてたどり着いた男も口を揃える。

 つまり彼らが言いたいのは、『お前が敬意を払わないせいで、私たちの願いが成就できなかったらどうしてくれる』ということらしい。

「問題無いよ。あれは男でも女でもないし、ましてや人でもないんだから、名前を呼ぶ以外にはみんなそう呼んでるんだ」

「その通りだ」

 ウキヨトがこちらを向いた。

「呼び方が何であっても、私に対するウルハシの者たちの敬意は変わらない。面倒だから、名で呼ぶか『あれ』で結構と言ったのは私自身だ」

 お前たちもそうすれば良いと言うが、参拝者は顔を見合わせ「いやあ……」と言葉を濁した。

「さて、早く済ませよう。お前たちは用があってここに来たのだろう」

 参拝者の困惑を置き去りにしてウキヨトが右手をそっと差し出した。

 男たちはその手の意味に気がついて、懐に大事にしまってあった一枚の葉を取り出した。

 森に入る間に手に入れた『コトノハ』だ。

 人の手のひらよりも大きな木の葉は、力強い緑色で肉厚で、裏返せば太く立派な主脈が浮き出ている。

 その脈の脇に、不格好に文字が書かれていた。尖った何かで引っ掻いた傷のようであったが、それは確かに文字だった。

 二人は顔を見合わせる。「俺からでいいか」と年上の男が言った。もう一人の男は自然な間合いで頷いた。

「これが、私が会いたいと願う者の名前です」

 男は葉を差し出した。

 しかしウキヨトは文字を読もうともせず、すぐに葉を表に戻した。「あ」と、嘆きとも驚きともつかぬ声が男の口から漏れる。

「私が知る必要はない。すべては大樹に」

 そう言ってウキヨトは男のコトノハを大樹の幹に押し当てた。

 固く締まった木肌に、ゆっくりと葉が埋もれていく。大樹の幹は泥か何かのような様相で、コトノハだけでなくウキヨトの手のひらまでを飲み込んだ。

 と、大樹の周囲に風が吹き抜けた。

 他の木々は一切揺らさず、大樹の枝や葉だけをユサユサと揺する。枝枝がしなる音、葉同士がこすれる音が不気味に響いて、参拝者を不安にさせた。

 ごくりと唾を飲み込む音が、大樹のざわめきの中にあってもはっきりと聞こえた。だというのに、どちらの男からだったかはわからなかった。カナギが目を向けたときには二人とも微動だにせずオンコトの大樹の動きを見張っていたからだ。

 カナギもそれに倣った。

 何度も目にした光景だったが、初めての彼らと同じように真っ直ぐ見つめることにした。

 風がやめば、彼らの願いが叶うかどうか、裁決が下される。可か否か。可であった場合に彼らはどんな表情を見せるだろう。今までの参拝者と同じように喜んで見せるだろう。しかし別れのときには何とも言えぬ顔つきで 愛しい者を見送るのだろう。その顔を思いかべると、他人事ひとごとだというのに何となくやるせなくなった。

 今日こそはそんな顔をしなければいいなと願いながら、カナギは彼の大切な誰かの登場を待った。


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