三

 

 雨音を数えているうちに眠ってしまったようだ。

 この馬車の揺れでよく寝られるなとエフネンが笑う。彼の声がよく届く。雨はすっかりあがっていた。

「夢を見ていたみたいだ」

「いい夢か? それとも悪い夢か?」

 何を思い浮かべているのか、エフネンはにやにやと笑う。

「さあ、どちらだろうね。わからないけど、とても懐かしい夢だった」

 言いながら窓の外を眺めた。

「そういえば、今夜はどこに泊まるんだ」

 いつもならば次の街まで一気に走ってしまうものだが、たしか今日はその手前で泊まることになっていると言っていたはずだ。

「最近こちらにライン候のご子息が館を持たれたとかで。挨拶に行ってこいとの上からのお達しだ」

「そんなに媚びを売りたければ自ら出向けばいいものを」

「是非鍵士ハイラート様を接待したいとのお申し出があったらしい」

 エフネンは懐にしまっていた招待状を取り出しひらひらと泳がせる。

「それはまた、物好きな。だけどそういうことは事前に説明しておいてくれよ。ボクにも心の準備というものが必要なんだから」

 トーテがぼやいているうちに馬車は館へと到着した。

 美しく整えられた並木道を抜けたところに広がる庭園と、控えめな――しかし人の住むところとしては充分に立派すぎる館がお目見えする。

 建物自体は古いが、人が生活している、新鮮な匂いが満ちていた。

 その中に甘くかぐわしい花の香りが混じっている。どこかで嗅いだことのある香りだなと、その匂いについて反応した自分に驚いた。草花に特別興味もなければ詳しいわけでもない。いちいち「これは何の花だったかしら」などと考えたことなど今までなかったというのに、その花の香りにはどうしてか心をくすぐられた。

「トーテ、何をしてるんだ。ちゃんとついてこないと迷子になるぞ」

 いつのまにか距離が開いてしまっていた。トーテは駆け足でエフネンのもとへ駆け寄った。




 挨拶もそこそこに。

 トーテたちは立派なゲストルームに案内され、そこに落ち着いた。窓の外から賑やかな声が聞こえてくる。

 子どもがはしゃいでいるようだ。

 それをたしなめる女の声は母親のものだろうか。何となくその姿を眺めたくなって、窓辺に近づいた。

 眼下には青い色が広がっていた。

「これはまた、見事な庭園だな」

 館の裏、ゲストルームの窓からその景色を楽しめるようにと、花で満たされた庭園が整備されていた。

 この花のものだったのかと、くんと鼻を上げ匂いを嗅いだ。青い色と、その花の甘い香り。その中に、子どもと笑い合う女の姿を見つけて、トーテははっと短い悲鳴のような声を上げた。

 その次の瞬間には走り出していた。

 何事かと隣の部屋からエフネンが顔を出していた。

 それに気づきはしたが、トーテは目を合わせることも声を掛けることもせずに、庭園を目指し駆けた。

 近づくにつれ、速度を落とし、一歩一歩と確かめるように、うかがうようにして彼女に歩み寄る。

 刺すような西日が穏やかになったころ。

 赤く色づく直前の強くて意志を持ったような光線が、花びらにくっついた水滴に当たり跳ね返る。

 星によく似た形の花びら。

 キラキラと輝いて。

 花の形と、色と、水滴のきらめきが、まるで満点の星空のようで、しかもそれが足下に広がっているということに、なんとも興奮してしまって、トーテは自分の頬が熱くなっていくのを感じた。

 興奮しながら、だけどどこか冷静で、死者のくせに紅潮するなんてとそんなことに気をとられていた。

 花を見つけ、そして子どもと笑い合う女性の姿を見つける。

 こういうときに限って、人はどうして無様に小石に躓いてしまうのだろう。

 やあと短くさりげなく声を掛けるよりも先に、くだらない物音で挨拶のタイミングを失って、戸惑うはめになるのだろう。

 トーテのつま先が蹴り上げた小石が転がり、彼女の足下にたどり着く。その前に、女はトーテを見つけた。

 我が子に向けていた優しい笑顔をそのままトーテに向けた。

 彼女だ。

 直感でそう思った。

 女は一瞬目を丸くして驚いた顔を見せた。

 だがすぐに嬉々とした表情でトーテとの距離をぐんと詰めた。

 トーテがそうだったように、彼女もすぐにわかったようだった。

 トーテの手をとった彼女は、しばしの間、母ではなく少女の顔を見せた。

「もういらしてたのですね」

「予定よりも早く村を出たから」

 かつてと変わらない、同じ高さの目線で、まっすぐにトーテを見つめる彼女。

 だけどトーテは、幾ばくかの居心地の悪さを感じている。

「あなたの部屋に飾ろうと思って」

 彼女は一面に広がる青い花を指差した。

「この花は――」

「ロイエ兄様が大切に育ててくれたあの温室から分けてもらいましたの」

 彼女は愛おしそうにその花を一輪摘んだ。

 それを見てトーテは不安になった。

 彼女はまだ、あのときの『恋』に縛られているのだろうかと。

 そんな不安を包み込むように、彼女は突然トーテを抱きしめた。

「ずっと、ありがとうを言いたかったのです」

「ありがとうを?」

 聞き間違いかと思って聞き返した。

「そうです。『ありがとう』です」

 彼女は――ヴンシュはそう言って顔いっぱいに笑った。

 初めての恋は、どうにもならない相手への恋だった。それも気づくのが遅かった、後悔だらけのものだった。

 そのことにヴンシュはしばらく苦しんだという。もっと早く気づいていれば、ロイエと幸せな日々を送っていたかもしれない。ロイエにもっと幸せを味わってもらえたかもしれない。

「後悔しかありませんでした。だけど――」

 ヴンシュは摘み取った青い花をトーテに手渡した。どんな意味合いでそうしたのかわからず反応に困っているトーテの前で我が子をしっかりと抱きしめて見せた。

「あの経験があったからこそ、今わたくしは幸せの中にいるのだとそう思っています」

 ヴンシュの腕の中で幼子がくすぐったそうにしている。その様子がとても幸せそうで、トーテは嬉しくなった。

「ヴンシュ、聞いてもいいかい」

 トーテの問いにヴンシュは「ええ」と答えた。

「彼の問いに、今の君はどう答える?」

 君が恋を知ることになったら教えてほしい。恋とはいいものなのかどうなのか。必要なのか、そうでないのか。

 あの手紙を頭の中で読みあげてみたのだろう。文字をなぞるように口が微かに動いて、ちょうど最後の一文にたどり着いた。

 ヴンシュはトーテの顔を真っ直ぐに見つめた。

「私に恋は必要でしたわ」

「そうか」

 満面の笑みで返されたその一言を、トーテは胸の内で噛みしめた。なんだか、自分の存在までもが肯定されたような、そんな気がした。


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