8
***
ここはよく二人で過ごした場所。
ヴンシュが案内してくれたのは、ガラス張りの温室だ。
旅先で綺麗な花を見つけたのだとヴンシュが楽しそうに話すと、ロイエはすぐにその花の種を取り寄せてこの温室に植えた。
「土をいじる兄様の手、ゴツゴツしていてとても力強かったわ。でも小さな青い花に触れるときは、とっても優しくて繊細で」
今は花の季節ではなかったが、ヴンシュには温室の端まで咲き渡る青い花の姿が見えていた。その中に腰を下ろし、そっと花弁を撫でる指先。
幻だとわかっていても、ヴンシュはその指に触れたくなって、そっと自らの指を重ねた。
「…………そうよね」
指先はいつまでも宙を撫でるだけ。
寂しそうに手を引いて、次の場所へとトーテたちを誘う。
何でもないことを話しながらお茶を楽しんだ部屋。厨房に忍び込んでつまみ食いをしたベリーのパイはしっかり甘くて、「それはヴンシュのために作らせたんだよ」と嬉しそうに笑う。本を読み始めると集中しすぎることがあって、書斎に一緒に入った日には一日中その横顔を眺めることになる。だけど「ああ、ごめん」と、焦って謝る姿がかわいらしく見えて、ぷうっと頬を膨らませ怒ったフリをしてみても長くは続かない。
どの部屋に行っても、ヴンシュはロイエとの思い出を楽しそうに語った。何となく気持ちが昂ぶってくるのを感じながら、とある部屋の前で立ち止まった。
「ここにはどんな思い出が?」
トーテが隣りに立つ。
「ここには思い出はないわ。一度も入ったことがないから」
そこはロイエが絵を描くためのアトリエとして使っていた部屋だ。あちこちに付けた絵の具でヴンシュのドレスを汚してはいけないからと、ロイエから立ち入りを禁じられていた。
「今までは我慢できたのに、どうしても入ってみたくてウズウズしているのは、『恋慕の情』を開いたせいでしょうか」
ここでロイエが何をしていたのか見てみたい。そんな衝動が胸のうちに沸き起こる。
そっとドアに手をのばした。
恐る恐る開けてみる。
閉じ込められていた絵の具の匂いが溢れ出た。ああ、兄様の匂いだと、ヴンシュの胸は熱くなった。
ヴンシュは彼の胸に飛び込むかのように、その部屋へ足を踏み入れた。
入ってすぐ、何よりも先に一枚の絵が目に入った。部屋の片隅に置かれた、一枚の絵。それはこの部屋の主であるかのようにそこに鎮座して、ヴンシュを迎えた。
描きかけの絵だった。だが何を描いたものかは一目にしてわかった。
「わたくし、ですわね」
ヴンシュは厚く塗られた絵の具に触れた。美術鑑賞は得意な方ではない。友人たちとの鑑賞会でもひとりだけ的外れな感想を言って恥ずかしい思いをするくらいだ。
しかしこの絵に関しては、そこにどんな思いが込められているのか感じることができる。描いた者の思いを受け取ることができる。
この絵には、例えようのない歓びと、胸を掻きむしりたくなるほどの嘆きが塗り固められているように思えた。慈愛に満ちた少女の表情が自分に向けられたものであれと願う気持ち。この姿を独り占めできないことへの苛立ち。そういうものがひしひしと伝わってくる。
彼が少女に向けていた感情を、今初めて知った。そしてそれが自分の中にもあるということを、初めて知った。
絵の前に置かれた椅子に腰掛けてみればなおさら。彼がどんな思いでこの絵に向かっていたか、その顔が姿がありありと浮かぶ。
「どうしてこんなに心が動くのでしょう。ザワザワと騒がしくて、心許なくて……ロイエ兄様に会いたくて仕方なくなるなんて」
亡くなったと聞いたときとも、葬儀に参列したときとも違う。悲しいという感情よりも、愛おしいという気持ちが前へ前へと押し出される。
「これが、恋なのでしょうか?」
「得も言われぬ焦燥と苦しみと歓びを伴えば」
「だとしたら、間違いなく恋ですわね」
トーテの答えにヴンシュは満足そうに笑った。しかしどうしても寂しさが混じってしまう。
気づいたらほろりと涙がこぼれていた。
右の目からこぼれ落ちた涙は頬をつたい床へと落ちる。ああ、落ちたと思ったときにはもう片方の目にたまった涙が溢れてしまっていた。
「どうして恋なんてものをするのでしょう。こんなにも苦しくなって、切なくなって。こんな気持ちで最後を迎えた兄様が不憫でなりません。恋なんて……恋なんて……」
「不憫だなんて言ってやるなよ。……じゃなくて、そんなことは仰らないでくださいよ、か。ここには『恋をして、生きていることの幸せを感じた』って書かれてますよ」
唐突にエフネンがそんなことを言い出した。
「お前、その手に持っているのは何だ」
トーテが彼の手にある紙を指差す。
「いや、ロイエ様が書いたと思われる手紙がそこにあったもんで」
封筒に入れられることもなく、机の上に無造作に置かれていたのだという。
だからといって勝手に読み上げていいわけがないだろうとトーテがたしなめると、エフネンは悪びれもせずこう言った。
「バカだね。本当に隠しておきたい気持ちだったら、こうしてわざわざ文字にして書き残したりしないでしょうが。見ない方が野暮ってもんよ」
「それはお前の勝手な解釈だろう」
「読むべきでないというのも外野の意見でしかないんだから。そうだ。ここは多数決で決めようぜ」
結果は、『読むべき』が二票、『読むべきでない』が一票、そして判断できる状態にない者が一人という風になった。
意外なことに執事のグルントがエフネンの意見を味方した。
「私はこの部屋のことも絵のことも、手紙の存在も知っていましたから」
と言う。
「この部屋にヴンシュ様を入れてはいけないという、主の言いつけを守れなかった私は執事失格でしょう。ですがそんな汚名を被ってでも、主の気持ちをあなたに知って頂きたいと思っておりました」
グルントはヴンシュに向かって頭を垂れる。どうか聞いて下さいと希うようだった。
「それじゃあ、僭越ながら」
エフネンがコホンと咳払いをしてから読み始める。
『この手紙が君に届くことはないだろう。だけど、せめて僕の気持ちだけでもこの世界に残せればと思い、この手紙を書いている。ヴンシュ、僕は君に恋をして生きていることの幸せを感じました。ありがとう。
君は覚えていないかもしれないけれど、ある日君が口にした言葉が今も胸にこびりついています。
君もいつか恋をするのだろうか。
君は恋を知るべきなのだろうか。
この素晴らしい感情を君の心と体で感じて欲しいと思う反面、悲しさや苦しさを味わっては欲しくないとも思うし、なにより僕は、君が誰かと恋に落ちてしまうという情景を考えるとどうも胸がチクチクと苦しくなってしまうのです。
僕にとって――僕らにとって、恋は本当に必要なのかと考えてしまうのです。
それであの日僕は、君に答えられないままでいたのです。
僕は、恋を知って幸せだった。
だけど恋を知らなければ、穏やかな気持ちでひっそりと君を愛し、こんなものを残さずに空へ旅立てのかもしれないとも思ってしまいます。結局今もまだ僕は答えを見つけられずにいます。
ただ一つはっきりしているのは、ヴンシュ、最後のときに君とたくさん話ができて幸せだった。君の笑顔が見られて幸せだった。本当にありがとう。
そうだ。最後に。もしも、君が恋を知ることになったら教えてほしい。恋とはいいものなのかどうなのか。必要なのか、そうでないのか』
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