***


「この街で彼女の幻影を見かけたのは、実は初めてなんですよー」

 甘ったるく語尾を漂わせる男だった。

 彼こそが彼女に身の回りの世話を依頼した男だった。

「彼女がいなくなってそれほど経っていないというのに、この有様です」

 そう苦々しく笑って視線を巡らせた室内は、たしかに誰かに世話をしてもらわなければ生活もままならないという具合に散らかっていた。

 男はメントルと名乗った。

 肩書きや仕事の内容や日々の暮らしぶりなどを語ってくれたが、僕にはどれもどうでもいいことだった。

 僕に必要な情報は、彼が彼女の知り合いであるということと、幻影を見るほどに彼女のことを想っているということだけだったから。

 僕は前の二人にそうしたように、彼にも彼女の思い出を譲って欲しいと申し出た。

 彼は困ったような顔をして、しばらくの間うーんとうなり声を上げていた。

 やがて彼は「譲ってもいいけれど」と前置きをして、それから妙なことを口にした。

「それは本当に彼女なのでしょうか」

 僕の背後を指差し言った。

 一瞬にして顔が熱くなった。

 蒸気が噴き出すようにたちまちのうちに顔が熱くなる。そのまま頭のてっぺんまで届いて、僕は少しの目眩を覚えた。

 それでも言わずにはいられなかった。

「これこそが彼女なんです」

 気がついたら僕は、その言葉をメントルにではなく、彼の後ろに控える彼女に叩きつけていた。メントルのための幻影が、淋しそうな表情を見せたような気がした。

 僕の顔色を通して、自分では見ることができない『彼の彼女』の機嫌を読み取って、メントルも同じような表情を見せた。

 そうして僕への問いを重ねるのだ。

「そうだとしたら、どうしてあなたはこちらの彼女を欲しがるのでしょう」

「『思い出巡り』という儀式をご存じでしょう。もう一度彼女と会うためには、そちらの彼女が必要なんです」

「でもあなたは言った。これは偽りの彼女で、そちらこそが正しき彼女なのだと」

「だから、言っているでしょう。儀式のためには――」

「ええ、わかります。ですがそれは……それで得られる『彼女』は本当にあなたの求めている彼女なのですか」

 僕は言い返そうとした。

 だけど、どんなに待っても言葉が出てこなかった。




 彼は言う。

 彼自身も、一度は『思い出巡り』に出ようかと思ったらしい。

 だけど彼は僕とは違って踏み出さなかった。

 しかしそれは、彼女への未練を克服できたからとか、そういう前向きな理由ではないと言う。

 怖かった、ただそれだけだと彼は語った。

「譲ってもいいけれど、覚悟はおありでしょうか。たとえば。彼女は毎夜娼婦のように私の相手をしていたかもしれない。街に染まり村に対しての不平を口にしていたかもしれない。それは村だけではなく、そこに住む誰かのことだったかもしれない。あなたのことだったかもしれない。私もあなたも知らないような悪事に荷担して、已むを得ず命を絶ったのかもしれない。たとえばそういうことがあったとして、あなたはそれを彼女として受けとめられるのですか」

 僕の返答を待たずに、彼は「自分にはできなかった」と言った。『彼の彼女』がいるはずだと、そう願いながら自分の周囲に視線を巡らせて、彼は優しく微笑んだ。そして真っ直ぐに僕を見据えると、そっと胸に手を当て言った。

「私の彼女はここに居る。それだけで十分なのです。だからあなたが欲しいと言うのなら、どうぞ連れて行きなさいと答えるでしょう。しかし代わりにあなたの覚悟をうかがいたい。『他の誰かの彼女』が混じった彼女でも、受け入れることができますか」

 そう言われた瞬間に、司祭様から彼女の幻影を譲り受けた時の感情が僕の中いっぱいに広がった。

 その感情の意味を、あらためて言葉にされたことに僕は戸惑って、しばらくの間考え込んだ。

 彼はたたみ掛けるようにさらに言葉を重ねる。

「彼女を求めれば求めるほど、知りたくもない彼女に出会うこともあるでしょう。万が一、真実に幻滅して途中で投げ出したとして、そこまでの旅で出来上がった彼女の幻影は、あなたの望まない形のままで寄りそい続けるのですよ。たとえ自分では見えないとしても、死の床まで寄りそい続けるのです。『思い出巡り』とはそういうものです。それでもあなたは旅を続け、彼女との再会を望むのですか?」

 心の中に揺るぎない答えがあるものだと思っていた。

 それだけが僕を突き動かしているのだと想っていた。

 だけど、彼に言葉を投げかけられた途端に、僕は怖くて仕方がなくなった。

 一歩を踏み出すのに、とてつもない勇気が必要になった。

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