第42話

 ルーン鉱石の石板に書いた言葉。

 存在する神の名前。


 悪魔王バエル。


 石板が蛍光色に輝き、その光が小さな渦を巻いて消えた。

 自然は何も変わらず、唯、雨音だけが僕の耳に響く。

 そう、何も変わらない。

 異常も無く、唯雨だけがしとしと降っている。

 世界は何も変化せず、唯、僕と猪熊の距離だけを正確に保ち続けている。

 僕が猪熊の前でおこなった『魔』の発動の所作がこの距離の均衡を維持しいている。


(おかしい、何も起きない)


 僕の心の動きが均衡を破った。

 猪熊が一歩、足を出した。


「何でしょうね?こだま君、あなたがしたことの意味が私には一瞬分かりかねたのですが・・」

 また一歩歩み出す。

「あまり・・意味が無いことでしたね」

 言うや、手を前に突き出した。

 僕は目に見えぬ空気の塊を受けて後方へ吹き飛ぶ。

 泥土の中を転がり、頬が雨水につく。


(何故?何も起きないんだ。悪魔王は求めに応じて召喚されなかったのか?)

 もし・・それなら、完全に絶対絶命。

 猪熊に勝てっこない。

 ロープレで言えば、パーティ全滅だ。

(復活なんてできっこないよな。絶対。リアルだし)

 膝の痛みが自分に現実を認識させる。

 僕は膝を押さえながら立ち上がる。

「雨の中を寝ていれば良いものを!!」

 ぶぅん、という音が聞こえたかと思うと、僕の身体は浮き上がり、凄い速さで横殴りに飛ばされた。

「うわぁあああああ」

 言葉が終わるよりも早く、地面に叩きつけられる。


(こいつはマジヤバイ・・)


 僕は転がりながら、ルーン石板に文字を書く。


 かまいたち・・


 効くか?


 びゅぅうぅうううううううう


 びゆぅうううううううううううう


 ふたつの空気の渦が現れ、一気に猪熊に襲いかかる。


(いけっ!!)

  


 だが、発生したかまいたちは突然上からの圧力の為に深く地面に落ち込んだ。

 猪熊が手を上から下へと下げて行くのが見える。

 それがかまいたちを地面へと押し込んで言ったのだ。


 なっ、何ちゅう、パワーだ・・


 さ、さすが、ラスボス


 僕は再び、文字を書く。


 火の鳥・・


 石板が輝き、空間が激しく明るくなる。

 すると一羽の炎を纏った鳥が現れた。

 それも自分が前の戦いで発現させた火の鳥よりも大きい。


 いけっ!!


 僕は叫びながら火の鳥を猪熊に放つ。


 火の鳥は低い軌道を描きながら、猪熊へと向かっていく。


 だが、火の鳥は猪熊に届く前に見えない壁にぶつかり、激しい衝突音を残して一瞬にして消えた。

 そう、周辺に大地を焦がした臭いを残して。

 

 消えて行く紅蓮の炎の向こうで猪熊が両手の掌を重ねて僕を見ている。

 にやりと笑った。

「まさか、こうした伝説の存在まで操れるようになっていたとは・・驚きでしたが・・それも一瞬でしたね」


 

 どうしようもないな・・


 そう、思うしかなかった。


 ちらりと、僕は倒れている二人を見た。

 二人は動いていない。


 どうすればいいのか?


 そう思った時、僕は再び激しく転がった。それは猪熊の手の動きに合わせて動いている。

 まるで僕は猪熊の操り人形のようだ。

 パペットになっている。

 右に動けば、右に動き

 左に動けば、左に動く

 前に引かれれば、前に飛ばされ

 後ろに引かれれば、後ろに飛んだ


 ジェットコースターに乗っているようだ。身体に激しいGを感じて、唯ただパペットとして猪熊の気持ちが収まるまで動かされるだろう。


 猪熊の気持ちが収まる時、それは死の時。

 

 それまで僕が生きていれば・・だけどね


 ズドォおおおお


 激しく泥土の中に突き飛ばされた。水たまりが見えた。

 身体が激しいGを受けすぎて、反応できない。

 僕は思った。


 完敗


 猪熊がゆっくりと歩いて来て、立ち止まった。

「こだま君。残念ですが・・ここまでです。そうですね、あなたに負けた河童の気持ちを汲んで、あなたをそこの水たまりの中に沈ませて、溺死させてあげましょう」


 溺死?


 僕は顔を上げた。


「顔を上げてもらっては困りますよ」

 その瞬間、僕の顔は水たまりに引き込まれた。

 強く顔を地面に押し付ける力を感じた。


 ぶわっぷぶわぁあわっわわ


 声にならない叫びを発しながら僕は水たまりに顔を自分の意思に反して押し付けて行く。


(溺死・・するのか。こんな水たまりで)


「人間は少しの水だけで溺死するんですよ。君も湯船に浸かりながら気持ちよくなって沈んだ事無いですか?以外と家庭内事故では溺死が多いのですよ」


 ぬぉおおおおおおおお


 激しく意思が抵抗する。しかし肉体にかかる激しい強さに段々、負けてゆく。

 鼻に水が満ちて来る。閉じた口が空気を求めてひらこうとする。

 でも口を開けば、そこから水が入って来て


 ――溺死する。



 ぶわぁぁあああああああ



 我慢の限界だった。


 その時、声が聞こえた。


「こんちは。猪熊さん」


 誰だ??


 僕も恐らく猪熊も思っただろう。


 声の主は男だった。

 

「高田です。ちわっす」

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