その2
彼女はマグカップを両手で持ち、それほど熱くもないコーヒーを二・三度吹いてから飲み、
『私が情熱的な恋というものを体験したのは、その時が初めてでしたの』と、まるで蚊の鳴くような声で言った。
彼女の話は一気に喋ったと思ったら、また元のところに戻り、それから一気にすっ飛ばして進んだと思ったら、また元へ戻るといったことの繰り返しであったが、それでも要約するとこんな風になる。
大学を卒業してすぐ、彼女はその学校に国語の教師として赴任をした。
最初は中等部で、二年目以降からは高等部で教えるようになった。
勿論彼女も高校や大学時代に、男性とそうした関係になったこともあるにはあったが、ほんの一時的なものでしかなく、決して燃え上がるような性質のものにはならず、そのまま20代も終わりを迎えようとしていた。
ある年、彼女は、教師になって以来、初めて担任、それも三年生と言う最上級生を受け持つことになった。
教師になった人なら分かるだろう。
三年生と言うのは、就職やら進学やらで、それこそ目が回るほど忙しい。
先輩からもそう聞かされ、或る程度の覚悟を持って臨んだ。
そこで『彼女』に出会ったのである。
彼女の名前は、
『
漆黒の闇に似た黒く艶やかな髪。
さながら日本人形のように真っ白な肌。切れ長の済んだ目。
紅も塗っていないのに、ピンク色の唇・・・・。
一目見て彼女は『恋に落ちた』という。
しかしかたや担任の女教師。
かたや一介の女子高生。
それでなくても規律の厳しいお嬢様学校のことだ。
しかし毎日顔を見ていると、彼女への思いは募ることはあっても、減ることはなかった。
『
成績も常に首席とまではいかなくても、10番より下に落ちたことがない。
運動もなぎなた部に属し、二年の時は既に主将になっていたくらい。
つまりは『才色兼備』というやつだ。
これだけ揃い過ぎるほど揃っていると、えてして周囲からの
そのため友人も多く、彼女はいつも同級生に留まらず、後輩たちからもある種の憧れの的だったという。
だが、教師である『彼女』は、その光景をいつも遠くから眺めているだけだった。
『まるで吉屋信子の世界ですな』
(注:吉屋信子・・・・大正時代から昭和にかけて活躍した女流作家。少女小説の世界で、当時の女学生たちに熱狂的に受け入れられた。代表作『花物語』。同性愛者としても知られる)
『え?』
『いや、何でも』
俺の答えに、彼女はその意味が分かったのだろう。頬を染めて口元を綻ばせた。
しかしどっちみち一年間だけである。
何とかその間に彼女に告白せねばならない。
そう思って、眠れぬ日々を過ごし、時には『恥ずかしい話ですけど』涼子の事を思って、夜、寝床の中で下着を濡らしてしまったこともあったという。
『でも、結局そこまででした。』
今まで目をきらきらと輝かせて、同じ話を行きつ戻りつしていた彼女は、そこで初めて寂しげに目を伏せた。
『そこまででした・・・・とは?』
すりきれたSPレコードのシャンソンに、いい加減うんざりしていた俺だが、急に針が止まったのに
『それ以上のことは何も起こらなかったのです。私は担任教師、彼女は受け持ちの生徒、それ以上でも、それ以下でもない関係でした。唯一の宝物といえば、これ』
彼女はそう言って、またアルバムの頁を繰り、一枚の写真を出した。
大事そうに小さなピンク色の封筒にしまわれていたそのキャビネ版の写真は、どうやら卒業式の時に撮ったものだろう。 紺色の制服を着た涼子と、地味な、やはり紺色のスーツ姿の『彼女』が、校舎の前のオブジェの下で並んでいるところであった。
『涼子さんのお友達に「記念だから」といって撮って貰ったんです。それだけ頼むのに一年もかかったんですのよ・・・・』
『・・・・それで、私への依頼というのは?』
俺の言葉に、彼女ははっとしたように我に返る。
それでも暫くの間、口に出そうかどうしようかと
『涼子さん・・・・いえ、五条院涼子さんを探し出してください。そして、出来ればこれを・・・・・』そう言って、彼女は別の封筒を取り出した。
『私の思いを綴った手紙です。これを渡して欲しいんです』
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