記憶の恋の物語

冷門 風之助 

その1

  割と日当たりのいいその部屋で、俺は彼女と向かい合って座っていた。


 彼女の名前は・・・・いや、ちょっとした事情のため、本名は控えよう。


 仮に『安田はつえ』としておこうか。


 勿論若い女性じゃない。老婆、老婦人・・・・そんな表現がぴったりくる年齢だ。


 しかし見た目には歳より若く見える。俺の憧れである日活青春映画のマドンナ、芦川いづみが今目の前に現れたら、凡そこんなイメージだろうな。といったところだろうか?


 クリーム色のニットのプルオーバー。

 

 手編みだというこれもニットの巻きスカート。


 ほぼ真っ白な髪を、首の後ろで束ねている。


 彼女は白く細い指で、黄色のプラスチック製のマグカップをつまみ、ゆっくりそれを傾けて飲んだ。


 俺の前にも同じ色のマグカップが置かれ、中には琥珀色の湯気の立てた液体が

入っている。


 俺はカップを持って、ゆっくりとそれをすすった。


うむ、美味い。


 インスタントにしちゃあ、なかなかのコーヒーだ。


 今いる場所は東京郊外、国分寺にある特別養護老人ホーム。『東雲荘しののめそう』。

 


 もうそろそろ11月にかかろうとした頃、ある人物が俺の事務所オフィスに直接やってきたのだ。


 『ある人物』・・・勿体つけて言う必要もなかったかな。

『切れ者マリー』こと、警視庁外事課特殊捜査班主任、五十嵐真理警視・・・年齢不詳、美人・・・・である。


『ほんとなら当のご本人が来るべきなんでしょうけどね・・・・』彼女はシガリロの灰がスリットから覗けた膝の上に落ちそうになっているのも構わず、大きくため息をついた。


『何しろもう、年齢とし年齢としでしょう?それに、ほら・・・・彼女”アルツ”なのよ』


 奥歯にモノの挟まったような表現だが、理解は出来た。


 その女性は御年八十歳。


 そして”アルツ”・・・・。

即ち、

『アルツハイマー型認知症』である。とはいっても今はまださほど重症というわけではない。


 日常の動作や受け答え等は一通りまともに出来る。


 医師の診察は受け、病気の進行を遅らせる薬の投与も受けている。しかし、遅かれ早かれ、悪くなっていくのは明白だ。


 独身、既婚歴ゼロ。


 当然ながら両親はとうの昔に亡くなっており、身内と言えばひと回り歳の離れた妹が一人いるきりで、その妹がマリーの元先輩なのだという。


 今回の依頼もその縁でということらしい。


『・・・・・』俺は黙って椅子から立ち上がり、窓際に立ち、外を見下ろした。


 事務所オフィスの窓から見える新宿の歩道は、完全に散ってしまった落ち葉に埋め尽くされ、その上の鉛色の空が、もう秋ではないことを宣言している。


 俺の苦手な冬が、また近づいてきたのだ。


『お願い、一応ご本人の話を聞いてあげて頂戴。それでどうしても引き受けられないなら降りてもいいわ。貴方しか他に頼める人がいないのよ。』


 珍しく彼女にしてはしおらしい口調だ。


『貴方しか他に』か・・・・俺はどうもこのフレーズにな。


 まあ、話を聞くだけなら構わんだろう。俺はそう思った。




 『すみません。お名前を聞かせて下さいませんかしら?』


  彼女は当たり前のような調子で、一分前と同じ調子で繰り返した。


『・・・・』


 俺はもう一度上着の内ポケットから認可証ライセンスとバッジのホルダーを出して、


『私立探偵の乾宗十郎いぬい・そうじゅうろうです』と名乗った。


『ごめんなさいね。最近特に忘れっぽくなって、もう年かしら』と、少女のような顔をして笑った。


『私・・・・実は十年ほど前まで、ある私立学校で教師をしていたんです。』


 また教師か、俺は思った。


 どうもこのところ教師せんこうに出会う率が高い。


 彼女は都内にあるミッション系の中高一貫の女子校で、本人曰く、


『何年勤めたか分からないくらいの長い間』、教育一筋に捧げてきたという。


 彼女はその学校が如何に素晴らしく、そして自分の教育理念がどんなものだったかを何度も話した。


 探偵の仕事の一つに、

『聞き上手になること』というのがあるのは俺も十分承知している。


 探偵社に入った時に一番最初に習ったのがそれだったからな。


 しかし、流石にわずか30分足らずの間に同じことを何度も繰り返されると、流石に俺の辛抱強さも限界に来る。


『貴方がご立派な教師であったことはもう十分拝聴致しました。そこで、私への

依頼内容なんですが、そろそろそちらをおうかがいしたいんですがね』


 彼女ははっとしたような表情をした。自分が何をしていたか、理解したのだろう。


『ごめんなさい・・・・』と小声で言うと、ひじ掛け椅子に体重を乗せてゆっくり立ち上がると、後ろにある、作り付けのライティングテーブルの引き出しから、一冊のアルバム・・・・恐らく彼女の勤務していた学校指定のものなのだろう。赤い布張りで、表面に大きく校章が金文字で描かれている・・・・を手に持って戻って来た。


『ちょっとお待ちくださいね』彼女はポケットから老眼鏡を出し、急いで頁をる。


 そして、あるところまで来ると、急に動きを止め、


『これ、ここを見てください』と、頁の片隅の大きな集合写真を指差した。


(昭和〇〇年度三年A組卒業写真)

 とあり、制服姿の女生徒が三段くらいに並んでいた。


 真ん中に、黒っぽいスーツ姿のがいた。


『私が初めて三年の担任をした時の・・・・高等部ですわ・・・・その記念すべき写真なんです』


 彼女は指先でゆっくりと生徒の一人一人を追ってゆき、やがてその中の一人を指した。


『彼女・・・・彼女を探して欲しいんですの。』


『理由を伺いましょう』


 彼女はまたはっとしたようにしばらく動きを停止した。


 考え込んでいるような、そうでないような・・・・指先が細かく震えている。


『私のなんです。』







 

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