第5話 インザハート [2/3]
蜜蜂、目をあける。
お馴染み、ベージュ色の世界である。
けれどいつもと違うのは、この世界いっぱいに松任谷由実の歌声が響いていた。
蜜蜂はタカに呑まれる寸前に、CDで曲をかけたのを思い出した。
それが流れっぱなしになっているのだ。
せい子が浮かんでいる。目をとじて、首は少し下をむいて。教室で見せるのとはまた雰囲気の違う、安堵したような表情をしていた。蜜蜂は彼女に触れる。そして彼女の個人の世界に入った。
蜜蜂は小さな神社の、賽銭箱の上に立っていた。こりゃ罰が当たるわい、とすぐに飛び下りる。下りたところは砂利道で、蜜蜂はそのまま少し歩いてみた。
彼が目覚めたのは
小学生のころ蜜蜂もよくここで遊んだものだ。
当時のことを思い出しながら、蜜蜂は神社を出て公園のほうを見まわした。景色は変わらない。
その景色のなかに、せい子は見つからない。
蜜蜂は石の階段をおりて、公園に足をつけた。
すきまなく緑が覆う地面に、コバルトセージのむらさきが綺麗。
蜜蜂の靴は花を気にしない。
公園の中央には巨大な石のステージがあって、そこには藤で天井がつくってある。しだれる藤色の空は陽の光と陰できらきらしていた。
蜜蜂はそのステージにあがって座った。
そうやって思い出にふけっている蜜蜂のうしろで、エンジン音が二度鳴った。
振り返ると女の人がバイクに乗ってやってきていて、公園に到着した彼女はヘルメットをぬぎ、蜜蜂のほうを見ていた。
「こんにちは」
蜜蜂はおそるおそる挨拶する。するとその女性はフンと頷いて、
「後ろに乗れ」
と。蜜蜂は彼女のほうへ歩いて行きながら、
「あなたは……?」
「あたしか。まあ、何でもいい。呼び方が気になるんなら好きな名で呼んでもらっていい。土台あたしに名なんてない。即席で創られただけの女だからさ」
「じゃあ、明菜さんで」
「ん、何で明菜?」
「なんとなくです」
「まあ悪くない。さあ、乗って」
言われるままにバイクに乗る蜜蜂。
「どこに行くんですか」
「あの塔のところだ」
示されたほうを見てみると、そこには天まで貫く五重塔(何重あるかは分からない)があった。蜜蜂が喉を震わせ、
「あそ——」
と言ったとき、バイクは急発進した。蜜蜂は必死に彼女に抱きついて、振り落とされないようにするのに必死になる。バイクは車と車の隙間をびゅんびゅん進んでいった。公園からは木が邪魔でしっかりは見えなかったけれど、公園を出てから見ると、いっそう異様に見えた。その高すぎる五重塔は、天から落とされた一本の糸のようだった。てっぺんが見つからないのだ。
「あんたのさ、」と明菜は切り出した。
「あんたの人生哲学っていったら何?」
「え、人生哲学ですか?」
「大切だろ、生きてくうえで何か持つってのは」
蜜蜂は考える。信号で止まってる間たっぷり考えた彼は、バイクが動きだすと同時に言った。
「追っかけるってことですかね」
「追っかける。アイドルとかを?」
「いいえ、焼村寺男じゃないんですから。そうじゃないです。憧れを、です。僕は今までに常に何かになりたくて、それで何かしらの憧れを、憧れの人みたいのをもって、自分をそれに近づけるように生きるんです。でもだいたいは到達する前に目標が変わっちゃいますけど。けれど常にだれかになりたがってますね」
「ふーん。で、今は誰になりたいの」
「今は、誰でしょう……。若い頃の松本人志かな」
バイクは橋の上を通る。
「それ、早く渡してやんなよ」
蜜蜂は何の話かと頭をひねるが、ココロの世界で集めてきたせい子への思いのことだと閃いた。
「せい子のことですか」
「ああ、じゃないとあいつはもうすぐ死んじゃう」
「死ぬ?」
「うん。シビアな話だろ。シビアな話なんだよ」
明菜はそう言うと、バイクを一層とばした。
バイクは五重塔の真下に着く。蜜蜂は降りる。それに続いて明菜もおりて、彼のとなりに立つ。蜜蜂は上を見上げる。
見上げると塔のさきが流れる雲に穴をあけている。
「これのぼって行けばいいんですか」
「ああ、頼むぞ」
蜜蜂は頷く。彼は明菜に手を振って別れを言い、それからついに塔に足を踏み入れるのだった。
なかは螺旋状になった木製の階段だった。薄明るい。踏むたびに少し沈んで、ぎいいぎいいと音がする。壁は薄い。風の音がびょうびょうと聞こえた。蜜蜂は歩き続ける。
もう三時間くらいのぼり続けた。下を見ると永遠の穴のよう。けれど上にはそれより深い穴がある。蜜蜂は座って休むことにした。
いくらか休憩すると、また階段上りを再開した。
足が痛くなってくる。終わりの見えない試練は、蜜蜂の太ももを萎れた紐のように力ないものにした。けれどそれでも蜜蜂はすこしでも進もうと、上昇し続けた。
いよいよ足が上がらなくなって、蜜蜂はその場に倒れ込む。そしてが一番楽な姿勢になるよう調節して、その場に眠ることにした。まだ続きは延々ある。ひとまず今日は休むことにした。
次の朝、塔の中に朝日が染み込むのと同時に目が覚める。体は意外にもよく回復していた。蜜蜂は階段上りを今日も続けることにした。
蜜蜂は一日中階段をのぼった。その日いちにち、小さな休憩もはさみつつ上り続け、日が落ちた頃のことだった。
無理やり右足をあげて、次の階段に置いたとき。
「おにいちゃん、どこ行くの」
下から幼い声が聞こえた。
蜜蜂は下の景色に目をめぐらせた。けれどそこには虚空に落ちて行くような長い穴があるだけで、それをとりまく階段のほかに何も見えなかった。
「幻聴か」
蜜蜂は呟いて上り始める。午後になったあたりで、独り言が目立つようになってきていた。意味のない言葉を並べてみたり、六、七個しりとりを続けて飽きてやめたり、カニエウェストの「パワー」を歌ったり。
けれどそうやってようやくここまで来たのだ。
もう一度下を見る。奈落の穴。
「高い所だな」
と言う。すると、また下から声が聞こえた。
「そうだよ。ここはこの国で一番高い所なんだ」
舌足らずな子どもの声。男の子とも女の子ともとれる、幼い、空間によく通る声だった。
「おにいちゃんが来てくれるのをずっと待ったの。ずっと待ってたの」
「だれ」
その子は姿を現した。
髪を短く切りそろえた女の子は、着物を着ていた。蜜蜂と目が合うと花のように笑った。
「わたしは、名前はまだないの」
「君もか」
蜜蜂がそう言うと、その子はほほ笑みながら首をかしげた。
蜜蜂は問いかける。
「じゃあ、なんて呼んで欲しい?」
「わかんない」
「そうか」蜜蜂は考える。「そんじゃあ、ももちゃん」
「ももちゃん」
「どう」
聞くと、ももちゃんは笑顔になった。それから彼女は、
「じゃあ案内するね」
と言って階段をおり始めた。
慌てて蜜蜂も追いかける。三階分くらい下に降りると、もうそこに階段はなく、冷たい地面があるだけだった。
ももちゃんは扉を押し開けて、外に出る。蜜蜂も出る。視界は見事に明るくなった。
町には古い家並が続く。ももちゃん以外も、みな着物を着ていた。たまに古風ではあるが、洋装をした男性もいた。そんな景色を、蜜蜂だけでなく、ももちゃんも楽しそうに眺めていた。
「あの人きれいね」
そう言って指さしたのは、黄色いワンピースを着て髪をおろした、背のひくい女性だった。
「そうだね」
と蜜蜂も言う。それから彼が、「この町はさ、」と言いかけると、ももちゃんは丁度その時にその説明をしてくれた。
「この世界はおにいちゃんがくれたんだ」
「そのおにいちゃんって僕のこと?」
「そう。ずっと前にね、おにいちゃんがあの人に渡したとある小説、その小説と言うのが川端康成の「古都」だったんだけどね」
「そうだったね」
「その世界がこの町をつくったんだ」
「……落ちつくところだね」
ふたりは鴨川にむかって東へ東へ歩いた。
目的地へは、仲良く話しながら歩いていると、すぐに着いた。そこは京阪電車の駅、九条駅だった。ももちゃんが「とうちゃく!」と言った。
「電車に乗るの?」
「うん。これで
「恕土駅……」
二人が乗る電車には他に誰もいなかった。それと、蜜蜂の知ってる京阪電車と違って、この電車は地上に出ていた。出発した電車からはずっと、鴨川の景色を見ることができた。
ももちゃんは嬉しそうに座席で体を揺らす。
「ねえ」とももちゃんは蜜蜂のほうを見た。「自分が死んだ後の世界は考える?」
「存在するかしないかってこと?」
蜜蜂が言うと、ももちゃんは首をかしげる。蜜蜂は答えを変える
「みんなが悲しむかどうかみたいなこと?」
「そう」
「うーんそうだね。でも、はっきり考えるわけじゃないけど、死んだ俺をのことをみんなが思い出すとき『いい人だったねー』とか『いなくなっちゃって悲しいね』みたいに言われるのは面白くないかな」
「面白くないの?」
「うん。せっかくなら『つまんないやつだったな』とか『あんなひどい人ほかにいなかったな』みたいに言われた方が、なんかよくない」
ももちゃんはテヘヘと笑う。「ぜんぜん分かんない」
「せっかく生きたんだから、みたいな事だよ。『あの人とってもいい人だったねー』。俺の人生をまとめていいあらわすとそれ、ってさぁつまんない。生きてなかったみたいだから」
「せい子ちゃんの人生はどうだった?」
ももちゃんは聞く。突然の話の流れに蜜蜂は驚く。
「本当に死んでしまうのか、せい子」
「わからないけど。このままだとね、わからないけど」
「まあ、出来ることをするだけだよ。電車に乗ってしまえば、どれだけ急ごうと思っても速度は変えられないしね」
「ねえ、おにいちゃんのはなし聞かせて」
ももちゃんは体を跳ねさせながら言う。蜜蜂は頷いた。
そうこうしているうちに、恕土駅につく。
駅を出て歩くとすぐに恕土神社があって、そのとなりは恕土城跡の公園。
そう、ももちゃんが教えてくれた。
彼女は手を振る。見送られながら、蜜蜂は鳥居をくぐった。
神社には誰もいない。閑散としていた。
蜜蜂は、公園のほうへ行った。公園もやっぱりとても静かで、誰も見えな。蜜蜂はせい子を探して歩いた。この公園は浴槽のような構造をしている。もとは城のあったところだからだ。浴槽の底の部分に遊具やら、その中央に石のステージがあり、公園の端に行くと階段があって、それをのぼると浴槽のふちの部分、人ひとり通れるくらいの路がめぐってある。そして、その路の角にまた一つ小さな浴槽型に積まれた石垣があって、そこは過去、天守閣のあったところである。らしい。そこはこの公園で一番高い所にある。
蜜蜂はその天守閣を見に行った。そこは鉄の門がしてあって、立ち入り禁止の札がかかっている。蜜蜂はその門に足をかけて飛び越えた。
天守閣の浴槽のふち部分にあがる。そこにせい子はいた。
彼女は膝を抱えて座り、下のため池を見下ろしていた。蜜蜂はそんなせい子を、少しのあいだ何も言わず眺めた。
空は雲一つない水色の空。葉の音。そのまま正面の位置に空が見えることが、高い所にいる事を理解させる。それより高い空から、風が落ちてくる。蜜蜂のシャツを膨らませて、どこかへ去って行く。肌のあいだに空気が染みる。足の下には短い雑草ばかり。
蜜蜂はせい子のとなりに座った。それから、預かっていた思いを渡した。
「なに? これ」
蜜蜂に気づいたせい子は、それを両手で受け止めて、不思議そうにする。その光はいまだオレンジ色にぼやぼやしていた。
「君への思いだよ」
「私への? 思いってどういう」
全然わからない風のせい子。
「簡単に言うと、君の周りの人が君に伝えたい事さ。とてもやさしい何か」
「……こんなのがあったの」
光は白くなって消えていった。
「もちろん。それと、これは学から君にってさ」
せい子はそれを見て、手で顔を覆った。
☆☆☆
学校がなくてやることがない。
鶴子は部屋で動画を見ていたた。何の動画ということはない、インターネットサイト上の流れてくる動画を、だらだら見ていた。音楽を聴いたり、芸人の寝た動画を見たり。
休憩がてら椅子から立って、冷蔵庫にある牛乳を飲みに行こうとしたとき、彼女は自分の携帯電話にメールが届いているのに気がついた。ひらいてみると、それは柿崎学からだった。
《柿崎学です。久しぶり鶴子ちゃん。今まで心配させて悪かったよ。急だけれど、今助けてほしいことがあるんだ。学校まで来てくれないかな》
鶴子は跳びはねて驚く。これ以上に驚くことが現実にあるだろうか。鶴子はすぐさま準備をして、家をでるのだった。
☆☆☆
「わたしね、学くんに告白されたんだ。ずっと好きで、だから僕と一緒にいて欲しいって言われちゃった」
「いつくらい?」
「学くんがいなくなる、もうちょっと前。でもね、わたしごめんなさいって言っちゃった。別に好きな人がいるからって。だからね、実はわたしと学くんの最後の会話がそれなの」
「そうなんだ。それについては、今ではどう思うの? そうやって別れたことの後悔とか」
「後悔してると思う? ……ううん、でもしてるのかも、こんなところまで来ちゃってるわけだし。もしあそこで私が学くんの気持ちを受け取っていたら、学くんはいなくなったりしなかったんだ、とかはよく考える。でもね、何回おなじことがあっても、わたしはあの時断ってたと思う。だって、わたしにとってもっと大切な人が私にはいたから」
「せい子にとって」
「うん。けれど、学くんと付き合ってもよかったのかも」
「まあ、答えはないと思うけどね。学は無事そうだったよ。元気にしてた」
「そうなんだ。でもわたし、色んな人を傷つけちゃったから、学くんもそうだし、鶴子ちゃんや、学くんのお姉さんも」
「しょうがないよ」蜜蜂は立ち上がった。「それはしょうがない」
それからせい子も立ち上がる。彼女は蜜蜂の手を握った。
「ありがとう蜜蜂くん。もう帰れる。来てくれたから」
「そうか」
「この池に飛び込むと、もとの世界」
蜜蜂は眼下の石垣の下のため池に目をやる。三、四十メートルはありそうだ。
「ほんとう?」
「私を信じて」
蜜蜂は頷く。それからふたりは石が木の端に立ち、一緒に飛び降りた。
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