第5話 インザハート [1/3]

 蜜蜂は目を覚ました。

 自分の部屋にいる。起き上がって、いつものように顔を洗い、口を漱いで、けれど今日もまだ学校はないので自室に戻りゆっくりする。


 朝ごはんはいつ食べようか考える。

 蜜蜂は本棚の端にいつかせい子からもらった松任谷由実のアルバムがあるのを見つけた。それを手にとって眺める。父親の部屋から小さなCDプレイヤーをもってきて、プラグをコンセントに差し、蓋をあけるとそこにCDをセットした。


 そのとき、そんな落ち着いた平日の朝の、ゆったりとした空気が一瞬にして破壊された。

 窓ガラスの割れる音。急いでふりむいた蜜蜂の目に、影が通り過ぎた。


 窓ガラスの穴から、一直線に滑空し、そのまま木のドアにくちばしを刺して抜けなくなっているのは、タカだった。

 タカはその鋭いくちばしをドアにさしたまま、体をぴんと張ってダーツみたいになっていた。


 大乱闘スマッシュブラザーズXの亜空の使者に出てくる敵の鳥みたいだと、蜜蜂は思った。地面に突き刺さるその鳥は、そのまま持って敵に放る武器にすることができる。

 武器にするつもりはないけれど。蜜蜂はそのタカを掴んで、ドアから引き離した。


 自由にしてやると、タカはくちばしをひらいて、蜜蜂を呑み込んだ。



 蜜蜂は気がついた。

 そこはいつものベージュ色の世界ではなかった。


 蜜蜂が住む町と変わらない景色。もちろん、現実にはあり得ないようなところもいくつかあった。

 ひとつは、オレンジ色のやわらかくて丸い閃光が、飛び回っていること。

 壁も何もすり抜けて、地面から空まで縦横無尽に飛び交っている。それらは突然現れたり消えたりする。そして、あるところで停止したかと思うと、水色やら紫色など、そのときどきによって変わるが、色を変えてから空気に溶け込むかのように消えていった。


 そしてもうひとつが、色んな所に扉があった。道の真ん中にも。屋根の上にも。空中にも。地面に埋まっているのも。けれどそれらは、蜜蜂が近づくと、離れていった。いや、そう説明するのは正確ではない。正確には、近づいても近づけないのだった。そこにあるのは変わらない。けれど、彼が近づいて行っても、いっこうに距離が近づくように見えず、実際手を伸ばしても手が届くことはなかった。


 蜜蜂のほかに人はひとりもいない。この世界には、本当に誰もいないのだろう。

 蜜蜂は不思議に思いながらも、長く歩いた。


 閃光が蜜蜂の体を通り抜ける。扉がうしろ遠くに離れる。

 蜜蜂はいつか行ったあの公園に到着した。


 その真ん中にも扉があった。蜜蜂は歩く。扉は遠ざからなかった。そしてついには手の届く位置にまで近づく。蜜蜂は手を伸ばす。ドアノブに触れた。ゆっくりとドアノブを回してから、彼は扉をあける。



「こんにちはデルトロン君」

 声がする。


 まだ視界には何もない。アプリが開ききる前のパソコンの画面のようだ。

「君は?」

 暗闇に向って、蜜蜂は聞いた。彼の声は彼自身の頭のなかで、強く反響した。声が体の外に出たような心地はしなかった。けれど、相手の声は答える。

「僕こそが、ボヘミアン・キングさ」

 それから声はつづけた。

「久しぶりだね。蜜蜂」


 徐々に景色が現れる。

 そこは、広さ三畳しかないような、とても狭い部屋だった。床は木。隅に小さな机が寄せてある。ライトはどこにもないけれど、十分に明るい部屋だった。

部屋の中央に柿崎学が座っていた。


「ここは、牢獄みたいなところだね」

 と蜜蜂は言う。すると学は姿勢を崩した。

「牢獄に入ったことあるの?」

「一度ね」


 蜜蜂はほほ笑む。それから彼は、部屋に踏み入り、学の座る正面に座った。


「ここは何なの」

「ここに来る前に、タカに呑まれただろう。そのあとに訪れた町は何かわかった?」

「分からないよ。ペンギンの時も全く分からなかった。どこにいるのかも、なにが起こってるのかも。説明がなさすぎるし、推測して当てられるようなものでもない」


 学は笑う。


「君が見た町。ドアをあけてくる前の世界。あれはココロの世界さ」

「ココロ?」

「光がいっぱい飛んでただろ。あれだよ。あれがココロなんだ」

「そのココロっていうのが何かわからないんだよ、俺はまだ。まだなにも理解してない」


「たとえばね、君がバレンタインチョコを女の子に渡すとする。そうしたときそれは、ただのチョコレートの位置の移動か? チョコレートの座標が移動しただけか? そうではなく、そこには君の思いが乗っかっているわけだ。けれどその思いというのは見えない。なぜならああやって違う世界に存在しているから。単なる言葉だってそうなのさ。そしてそれらは、届いたときに受け取った相手の精神に少なからず影響して、その役割を終える。君からチョコレートをもらった女の子は、その心の中で嬉しいという感情が作られ、チョコレートに乗った思いはそれで達成される」


「人間の行動にはココロがつきまとう。なんだか、分かるような分からないような。意識したことなかったよ」

「いや、無意識的に意識していたはずだよ」

「それで、お前のいるこの部屋は何なんだ」

「蜜蜂は、人にやさしくあろうと意識しながら生きていたことはあるかな」

「……ない」

「人を出し抜いて、騙してまでも自分のために生きようと決意したことは」

「ないよ」

「この世界はそういう世界なんだ」

「意味が分からない」


「人間は優しいと思う? 優しいというのは、他人のために自己犠牲してまで行動できるものかどうか、それが本当に実現可能なのかどうかということだ。仏教的な」

「俺の周りにいる人は、優しい人もいるけれど。それと、俺だってたまには」

「けれど、君がせい子を気にかけるのは、自分が強くなりたいとか、頼りにされる存在になりたいとか。まおにお金を渡すのだって、彼女との関係を切り離さないためで。それがひとつの体を持ってしまったものの逃れられない性質だよ。ほんとうに自分の世界を見ようと思うと、そこには自分一人しかいない」


「この部屋がそれ?」

「そう、自己中心の世界。個人の世界は、僕たちはチャイルドと呼んでいるんだけど、そっちはただ存在してるだけなんだ。アイデンティティとしてね。けれどこっちは、自己愛から逃れることのできない枷として、僕たちを捕え続ける。生きてる限り。自分は、絶対的に自分のためにある。そういう世界だよ」


「いろんな世界があるんだね。……俺が今まで行っていたところは、チャイルドっていうのか。そういう名前なの?」

「あそこはそうだね。みんなそう呼んでる。別に蜜蜂があそこを個人の世界だと呼ぶのなら、僕だってそう呼んでいい」


「この部屋、自己中心の世界か、ここが自分のために存在してるとして、じゃあチャイルド……個人の世界は、自分のために存在してるんじゃないのか」

「あそこは社会の為さ。人間社会の中にいる自分の為、というべきかな。……いやあ、僕だって何でも知ってるわけじゃあないんだけどね。けれど個人の世界は、その世界の形成に他者が大きく関わるのが特徴だ。この自己中心の世界は、生まれたときにすでに持っている。存在している。作る作らないの話ではない、もっと根源的な価値としてある」


「上も下も精神で挟まれるんだね」

「見えてる世界なんて一部さ」

「そういったものの綜合で現実が成り立っているのかな」

「……個々人においてはね」


 蜜蜂は話を聞くあいだ、床の樹の模様を見ていた。その波形模様を記憶するのも時間の問題だ。

 学はつづけて言った。


「けれど、こんな部屋を実際目にする人なんてほとんどいない。誰もそのとこには気づかづに生きているからな。というより、普通の人間はペンギンに呑まれたり、ましてやタカに呑まれることなんて無い」

「そんなによくあるんだっらた、窓ガラスはもっと割れにくく作ってるよ」


 蜜蜂はそう言った。二度割られているのだ。それに彼は子猫の部屋の窓だって治

さないといけないことになっている。

 そのあと、今度は学が何か言おうとして、けれど口をつぐんだ。

 蜜蜂は彼を見る。学は少ししてから、口をひらいた。


「せい子を助けてあげて。彼女は、今苦しんでる」

「わかってるよ、けれど、いったい何をすれば」

「君をもう一度、心の世界へ戻す。それで、せい子に関連する心を集めるんだよ」

「集めるって……どうすればいいかさっぱりだよ」

「僕のもあるから、これも一緒に。これは特別大切だよ」


 そう言って学は恥かしそうに笑う。学の胸から、柔らかいオレンジ色の閃光が浮かび上がった。


「せい子に届けてほしい」

 閃光は蜜蜂の広げた手のひらの上にとどまると、さらさらとほどけて消えた。

「これでいいの?」

「君の所に光は集まると思う。じゃあね、蜜蜂」

「待ってよ、学は、お前はどうなるのさ。こんな所にいて、そのままか。あの夜何があったんだよ。男が君の所へ行ったろ」

「ああ、彼からは逃れたよ。僕は人を……眠らせることができるからね。けれど、それが罠だったんだ。僕は、僕の世界はめちゃくちゃにされた。たぶん僕はもう目を覚まさないだろうね」


「それと、もうひとつだけいいか」

「もう時間だよ。君は急がなくちゃ」

「いや、これはでも俺自身の話なんだ」

「なに?」

 学は少し聞く気になる。

 蜜蜂は話した。

「……その、……本当の現実はあるのか? 個人の世界にいたみんなは、それが自分のいる世界だと疑ってなかった。でも少し違う。現実にいる俺から見たら、あの世界は夢のなかみたいなものだった。それじゃあ、俺が現実に生きていると思っているいつもの場所って」

「思い通りに現れ出てくれないのが現実だよ。現実、というのは存在する。僕はそう信じている。君のこれから生きる世界は、君のつくりだす仮想の世界なんかじゃない。そんなことすぐにわかるはずだよ」

「……わかった」

「じゃあね、蜜蜂」

「うん」



 蜜蜂はまた人のいない町にいた。閃光が走る。


 蜜蜂の周りにたくさんの閃光が取り囲む。それらはゆっくり浮遊していたかとおもうと、さらさらとほどけて、消えていった。

 蜜蜂の視界は光でいっぱいになる。今は何も見えない。そんな状態が十秒近く続いた。

 光がなくなると、もとの景色に戻った。


 それから蜜蜂は、目のまえに、彼の愛すべき眼鏡をかけたペンギンがいるのを見た。

 ペンギンはパカッと口をひらくと、羽をパタパタさせて苦しそうに飛び、それから蜜蜂のところまで来て、そのまま彼を飲みこんだ。


☆☆☆


 あの夜、せい子は家を脱け出た。


 けれどこういうことは今までにもたびたびしていて、家族にばれずに家をでるその手順は見事だった。美しいほどとても静かに、自然に行われたのだ。

 彼女にとって日常は耐え忍ぶものだ。そして家でさえ、その中にいる家族も彼女にとって日常であり、心を溶かす非現実たりえない。そんな彼女が歩くことを好むのは明らかだった。


 彼女には耐え忍ぶ日常から逃れる時間が必要だった。そして歩いていると、そんな日常とはまた違う、どこか別の世界がその先にあるような気がした。だから、歩いているとその世界に足を踏み入れる前の、疑似体験ができたのだ。


 それともう一つに彼女の頭の中のことがある。彼女の頭の中では、うず潮のごとく無数の感情が暴れ、ひとところにとどまっているといつか破裂するように、彼女は感じたのである。体を動かす事と、変わる景色を脳に処理させることで、感情を隅に押しやる。そうすることで彼女は楽になった。


 星のいくつか輝く下を、彼女は早足で歩いた。

 そうやって二十分から三十分歩くと、折り返して、家に帰る。


 それがいつもだが、今夜は目的が違った。

 今夜せい子は、二時間ともう少し歩いてやっとたどり着く、彼女の祖母の家を目指して歩いていた。


 彼女は思い出す。山のなかにある、広い祖母の家。夕方になると、木々の音が濃くなるように感じるあの庭。古い台所。頑丈な屋根。そこは彼女にとって一番身近な、小さな幻想だった。

 そこに辿りつけば、そう考えて歩く。けれど予想の何倍も、歩いて向かうそこは遠かった。


 せい子は、川に辿りつく。二段に分かれる土手をおりて、川べりにしゃがむ。そこも整備された人口の岸で、強い風が吹くと落っこちそうになる。黒い水がちゃぷちゃぷ流れる。光の薄い月が空にあがっているが、川の波はその光を弱く反射する。空では灰色の雲が夜空を隠す。


 水の音をからだに通して、せい子は落ち着いた。

 体を乗り出して、水面を真上からのぞきこむ。せい子の影がゆらゆらと不安定に映る。その揺らぎは、せい子が見ているあいだどんどんと激しくなった。せい子は奇妙に思い眺めていた。

 そのときふっと視界が途切れた。



 目を覚ます。

 せい子はそこに立っていた。

 あたりは真っ白な光に満たされていて、暖かい空気の膨らむなかを涼し気な風が通る。その心地のよさに、せい子は伸びをした。指を組んでめいっぱい上に吊上げる。それから彼女は、自分がはだしで、浅い川の水の中に立っていることに気がついた。足もとを見てみる。そこに流れる光のような水は、さっきの川とは完全に違ったものに見えた。


 今自分は川の端の浅瀬にいると感じた。流れも強くないし、水も冷たくなかった。けれどうしろを見ても岸が見えるのではなく、そこにはただ真っ白いだけの景色が広がっていた。そのさきに何があるのかは全く分からなかったし、その光の奥に何かがあるとは思えなかった。


 そうやってせい子が佇んでいると、川のむこうから、ぎーこぎーこ、ぎーこぎーこと小舟がやってきた。

 小舟には男の子が乗っていた。せい子の見たことのない男の子。天使のように美しい男の子だ。


「乗って行きなよ。向こうまで連れて行ってあげるよ」


 男の子は言った。

 せい子は柔らかい気持ちになった。それからそうっと、今にもひっくり返りそうなその小さな舟に乗る。

 せい子が腰をおろすと、男の子は小舟をこぎ始めた。とても整った一定のリズムで、ぎーこぎーこ、ぎーこぎーこと漕いだ。まるで筋肉なんて一筋も使ってないかのように、男の子はなめらかに漕ぐのを、せい子は見とれるように眺める。

 そうして小舟は、光の中にずんずん溶け込んでいくのだった。

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