海斗

たからもの

 ――人魚かと思った?


 からかうような彼女の口調はあきらかに冗談だといっていたけれど、海斗かいとは激しく動揺した。そんなわけないと思いながらも、あの瞬間、ほんとうに見えてしまったのだ。人魚とか、妖精とか、なにかそういう、とてつもなく美しいものに。



 +++



 海斗が岬の先端から十年ぶりに見た海は、大地がひからびてしまいそうなほど強烈な太陽光をあびても、余裕たっぷりに、いや、むしろうれしそうにキラキラと輝いていた。


 彼女はとうとつに、その輝く海面をざばんと割ってあらわれた。


 光る海と太陽に包まれて――どうたとえたらいいのだろう。光そのもののように見えたというのが一番しっくりくるかもしれない。そして、そのキラキラとまぶしい『光』が、自分に声をかけてきた。


 あまりにも驚いて、手がすべって、『あ』と思ったときには、大切なそれは海に沈んでいた。


 世界から、音が消えた。


 あれをなくしたら、もうあの子に会えない。



 +++



 海斗はこの町で生まれた。だが十年前、小学一年生のときに両親の離婚がきまり、海斗は母親と東京で暮らすことになった。だから、お別れをいいに行ったのだ。当時いつも一緒に遊んでいた、一歳か二歳か、少し年上の女の子に。


 ――これ、あげる。海でみつけたの。あたしの、たからものだよ。おおきくなったら、これもって会いにきて。


 それは、石だった。白くて中央にあざやかなブルーの線が入っている。十二、三センチほどの、ひらべったくてツルツルした、ちょっときれいなだけの、ただの石。だけど、海斗が受けとったのは、まぎれもなく『たからもの』だった。


 顔もおぼえていないし、もう名前も思い出せない。相手だってとっくに忘れているかもしれない。それでも、海斗にとっては、とても大切な約束だった。


 あの約束があったから、新しい学校になじめなくても、イジメられても、どうにか頑張ってこれた。ふんばろうと思えた。


「いつまでメソメソ泣いてんのよ」


 パッキリと板を割ったようなドライな声に、打ちひしがれていた心が現実に引き戻された。


 泣いていない。断じて泣いていない。目が赤いのはゴミが入っただけだ。だいたい、いきなり海の中からあらわれたら誰だって驚く。そう主張する海斗に、彼女はからかうようにいったのだ。


「なに。人魚かと思った?」と。



 +++



 陸にあがった彼女は、なんというか――とても、ふつうだった。


 とびっきり美人というわけでもないし、スタイルも凹凸おうとつがないというか、起伏がないというか、ストンとしている。それは、パーカーとサーフパンツというラッシュガードのせいだけではないと思う。ショートカットがよく似合っていて健康的ではあるけれど、どう見たって人魚とまちがえることなんてなさそうだ。いったいなぜ、あんなに輝いて見えたのだろう。海が見せた幻だろうか。


 あんまりにも動揺して、落ちつこうとして、ついそんな失礼なことを考えていた海斗に、彼女は『陽子ようこ』と名のった。


 その名前を聞いたとき、爪かなにかで、記憶の底をちいさくひっかかれたような気がした。



 +++



 そんなに大切ならさっさと捜しに行けばいいのにと、陽子はごもっともなことをいった。海斗だって、できることならそうしている。


 だけど、海だ。水だ。そこに入ると思うだけで、身体が動かなくなった。


 泳げないと白状すると、陽子は少しあきれたような顔をしながらも、あがったばかりの海にとぽんともぐっていった。



 +++



 転校した翌年だったか、そのつぎの年だったか。記憶はあやふやだが、小学二年生か三年生くらいだったはずだ。

 遊ぶ場所が海と川と、公園という名の空き地くらいしかないような田舎町で育ったおかげだろう。まだ二十五メートル泳げる生徒のほうが少ない中で、海斗の泳ぎは飛びぬけて達者だった。


 会話も行動も、都会のスピード感についていけなくて、友だちのひとりもできないままだった海斗にとって、プールの授業は自分をアピールできる最大のチャンスのように思えた。クラスメイトたちも認めてくれるのではないかという期待もあった。


 あさはかだった。と、今なら思う。


 クラスになじめない海斗が、水泳でクラスのトップになったところで逆効果にしかならない。そう気がついたときにはもう遅かった。

 それまでノロマだなんだと笑われたり軽く小突かれたりする程度だったのが、プールの授業をきっかけに、はっきりと『暴力』に変わっていった。


 そして、ある日の放課後。


 イジメグループにつかまって、学校近くにあったおおきな池に、手を縛られて突き落とされた。泳ぎが得意なら手がつかえなくても平気だろうと笑っていた。



 +++



 陽子は五分もかけずに戻ってきた。そっけなく返された石を、海斗は大切に受けとる。


「なんで、泳げなくなったの? むかしは、泳げたよね」


 さらっと投げられた質問と確認に仰天して、危うくまた『たからもの』を落とすところだった。


 慌てる海斗に、陽子はこの石を手にした瞬間よみがえったという『ご近所のカイトくん』の記憶を、たんたんと語った。


 ああ、やっぱり――と、思った。陽子の名前を聞いたときに感じたひっかかり。知り合いの中にはいない、少し古風なイメージの名前。


 約束の、女の子の名前。



 +++



 海斗が泳げなくなったきっかけを話したら、なぜか陽子は「見せたいものがある」といいだした。だがそれは、泳げないと見られないらしい。


 晴れていれば毎朝八時には海にいるから、そのころ泳げる格好でこいと、陽子はいうだけいって、海斗の返事を待つことなく走り去ってしまった。


 海斗にはひと晩考える時間があった。行かない選択もできた。でも、そうしなかった。


 あの日。池に突き落とされて、気がついたら病院にいた。数日入院して、自宅に帰ってからも、水が怖くてしばらくはお風呂にも入れなかった。


 悔しかった。

 変わりたかった。

 強くなりたかった。


 負けたく、なかった。


 悲しいと泣く海斗を笑顔で励ましてくれた、あの子に恥ずかしくないように。いつか、胸をはって会えるように。その気持ちだけが海斗を支えてきた。


 そして、あの子は。陽子は。海にいた。


 約束は忘れていたらしいが、それでも『夏は海で待つ』という意識だけが残っていて、なにを待っているのかもわからないまま、ずっと『待っていた』という。


 ここで逃げたら、男じゃない。

 そう、思った。



     (つづく)




 

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