約束の海

 もともとは、体調をくずして入院した父方の祖母が会いたがっているということで、夏休みを利用してお見舞いにやってきた海斗かいとである。しかし、おととい――陽子ようこと海で会った前日には『いったいどこが具合悪かったんだ?』と、ツッコミたくなるくらい、ケロッとした顔で退院していた。

 どうやら、夏風邪が長びいての検査入院だったらしいが、特に異常はなかったということで、ひと安心である。だから、そういう意味では心おきなく朝から海に出かけられた。



 +++



 かつて、強くなりたい、強くなろうと心にきめて、まずは『ぼく』を『おれ』に変えるところからはじめた。そして、下を向かないとか、イヤなことはイヤだとはっきりいうとか、できるところから少しずつ変えていって、今ではもうイジメられるようなこともない。けれど、泳ぎだけはダメなままだった。


 事情が事情だったため、小中学校はプールの授業は免除されていたし、高校はプール自体がない。どうにか克服しようと、中学生のとき区民プールにかよったこともあるが、やはり身体がこわばってしまって、泳ぐどころではなかった。


 プールですらそうだったのだから、波も海流もある海のほうがずっと怖いだろうと思っていたし、正直、不安しかなかった。けれど、なぜだろう。陽子に手を引かれて、海に足を踏みいれたときに感じたのは、恐怖ではなく、懐かしさだった。ぬるくて、しょっぱくて、太陽に焼かれた肌にヒリヒリとしみて、そのくせ波の揺れが心地いい。


 よく一緒に泳いでいた陽子がそばにいてくれたのもおおきかったのだと思う。記憶というほど確かなものではないけれど、当時の『楽しかった』イメージがくっきりよみがえってきて、恐怖の出てくるすきがなかったのかもしれない。



 +++



 陽子はとても教え上手で褒め上手だった。が、非常にスパルタでもあった。海斗があと五日しかいられないというリミットがあったからかもしれない。

 おかげで、朝から夕方までみっちり海ですごして、祖父母の家で夕飯を食べたらもう、ほとんど気を失うようにぐっすり眠る。そんな二日間を経て三日目には、適当な高さの岩礁から飛びこめるまでになった。


 そして――


「あした、秘密の場所につれてく」


 青と橙がまじりあった空を吸いこんだように輝く海に目をやったまま、陽子はぶっきらぼうにそういって、じゃあねと、海斗の顔を見ることなく帰ってしまった。


 そういえば、最初に『見せたいものがある』といっていた。泳げないと見られない、とも。いったい、なんなのだろう。見せたいものというのも気になるけれど、どこか思いつめたような陽子の表情も気になった。



 +++



 翌日の正午近く。ゴツゴツしているのにツルツルすべるという、鬼畜仕様の岩場を、陽子は手と足をつかって身軽にすすんでいく。何度もきているのだろうというのがわかる迷いのなさだった。海斗はといえば、ついていくのがやっとで、どうにか追いついたときには息もたえだえだった。


 そこは、天然の飛びこみ台のような、海に突き出している岩だった――と、海斗が認識するかしないかのうちに、陽子はそこから空に飛び出していた。


「海斗ー! 飛んでー!」


 驚いているひまもない。怖がるすきもない。海の中でおおきく手を振っている陽子は、やっぱり光そのものみたいに輝いていた。なんだかその勢いにのまれて、海斗は考える前に思いっきり足を踏み出していた。



 +++



 ずぶんと沈んで上を見たら、視界に太陽があふれた。


 たえまなく動く海水を通して見る太陽は、ゆらゆらとやさしく揺れている。



 ――ああ、そうか。わかった。



 そう思って、言葉を探す。陽子が海斗に伝えたかったこと。それを確かに今、肌に、心に感じているのに、言葉がみつからない。もどかしくて、じれったくて、だけどそんなことどうでもよくなるくらいに、海面はキラキラと輝いている。


 ふと顔を横に向けると、いつからそこにいたのか、陽子がじっと海斗をみつめていた。真上から照らす太陽に包まれた彼女はたとえようもなくきれいで、吸い寄せられるように手を伸ばす。ほとんど同時に差し出された手に指先をからめて、引き寄せた華奢な身体に引き寄せられて。


 重なった唇から、こぽりと空気がこぼれる。ちいさな気泡が、海に溶けた。



 +++



 海からあがった陽子は、泣きそうな顔を笑顔で塗りつぶして別れの言葉を口にした。


 恋人でもないのに、いきなりキスしてしまったせいか。そんなにイヤだったのか。なんでそんな無理して笑っているの。言葉は声にならずのどにつっかえて、そうこうしているうちに彼女は踵を返した。


 ――さよなら。


 たった四文字の言葉を残して、彼女は海斗の前から姿を消した。



     (つづく)



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