最後の夏

 視線は海に向けたまま、陽子はそっと口をひらいた。


海斗かいと

「呼び捨て……」

「くん、つけたほうがいい?」

「いや、いい」

「あたしも陽子ようこでいい」

「うん」

「ではあらためて。海斗」

「やりなおすのかよ! なんだよ!」

「海斗に見せたいものがあるの。だけど、それは泳げないと見られない」


 どこかおっとりしていた幼い日の海斗は、なかなか都会の空気になじむことができなかったという。転校先の小学校でも、ひとりの友だちもできなかった。


 ――池に突き落とされて。死にかけた。


 イジメにたいした理由なんてない。吊るしあげることができるなら誰でもいい。趣味の悪い娯楽だ。新しい学校になじめなかった海斗は、都合のいいターゲットだったのだろう。


 学校近くにある、かなりおおきな池に、手を縛られて突き落とされたのだという。泳ぎが得意なら手がつかえなくても平気だろうなんて、そんなめちゃくちゃな理屈でだ。もしそのとき、大人が通りかからなかったら。海斗は今日ここにいなかったかもしれない。


「でもおれ、あと五日くらいしかこっちにいられないんだけど」

「十分でしょ。もともと泳げたんだもん。カンさえとり戻せばすぐだよ。でも、そっかぁ。おれ、かぁ」

「は?」

「あぁ、いや、むかしは『ぼく』だったなーと思って」

「……ぼくをおれに変えるだけでも強くなれたような気がしたんだよ。悪いかよ」

「ぜーんぜん。悪くないよ」


 海斗は海斗なりにいろいろ乗り越えてきて、今ではイジメられるようなこともないという。けれど、水泳だけはダメなままで。水に入るだけで身体が固まってしまうらしい。


 逆にいえば、恐怖心さえ乗り越えることができれば、海斗はすぐにでも泳げるはずだ。それに、海斗はこの海を『知って』いる。それさえ思い出せれば、きっと大丈夫になる。だから。


「あたしは、晴れてれば毎朝八時くらいには海にいるから」


 陽子はパッと立ちあがった。


「それ以降なるべく早く。泳げる格好できて」


 海斗に断るすきをあたえないように、陽子はくるりと踵を返してその場をあとにした。



 +++



 翌朝。


 いかにも不承不承といった仏頂面であらわれた海斗だったが、陽子の読みはあたった。


 最初はおっかなびっくり顔をひきつらせていたものの、海斗はほんの数時間で補助がなくても海に浮かべるようになった。当時よく一緒に泳いでいた陽子がそばにいることで、記憶もよみがえってきたのだろう。二日目にはもう、海に入ることをためらわなくなっていた。ついでに、なにかとモジモジするようなこともなくなっていて、そして三日目には、適当な高さの岩礁から飛びこめるまでになった。自信がついたせいだろうか。ずいぶんと力強い笑顔を見せることも増えた。おかげで陽子はごくまれに。ほんとうに、ごくまれに、うっかり見惚れてしまうことがあって。もう、出会いも再会も『なかったことにしたい』とは思わなくなっていた。


「あした、秘密の場所につれてく」


 そう告げたとき、海斗がどんな顔をしていたのか、陽子は見ることができなかった。笑顔でいられる自信が、なかったから。


 あさって、海斗は東京に帰る。そして、陽子も――



 +++



 翌日の正午近く。


「こっち」


 海斗が追いつくのを待って、陽子はなにもいわずにそこから身を踊らせた。彼があっけにとられているのを背中に感じたつぎの瞬間には、ずぶんと全身が海水に包まれる。すぐさま海面を突き破るように顔を出した。


「海斗ー! 飛んでー!」


 その表情はよくわからないけれど、陽子がおおきく手をふると、ひと呼吸ぶん間をおいて、海斗が勢いよく踏み切るのが見えた。



 +++



 陽子がこのポイントをみつけたのは、中学生の夏だった。誰とも会いたくなくて、ひとりになりたくて。人目を避けるように岩場から岩場へともくもくと移動しているうちに、天然の飛びこみ台のような、海に突き出している岩をみつけたのだ。ここから飛びこんだら気持ちよさそう――と思ったときにはもう飛びこんでいて。ゴボゴボと沈みながら身体を仰向けにすると、キラキラと輝く水面が視界いっぱいにあふれた。そのとき、なぜだろう。



 生きてる――


 そう、思った。



 いびつに揺らめく太陽の光をまともに見ているのが、なんとも不思議で。地上から直接見ようものなら、文字通り目をつぶされてしまうような強烈な輝きが、海の中から見ればこんなにもやさしい光になる。


 見る場所によって、見方によって、まったくちがう姿になることがあるのだということを、陽子はこの海に教わった。


 女同士の面倒な力関係にねじ伏せられた日。突然牙をむいた、きのうまでの友だちに愕然となった。だけど、陰口とかいやがらせとか。悪意を持っていわれたこと、されたことで自分の価値を縛る必要なんてないと、海の中から見た太陽に、そう励まされたような気がした。


 そのころから、いつか海の向こうに行ってみたいと思うようになった。向こうとこちら。立つ場所でどう見方が変わるのか、あるいは変わらないのか、知りたいと思った。


 来月、陽子はアメリカの大学生になる。


 渡米準備をどうにかととのえて、この一週間は、海にありがとうを伝えるためにつくった最後の時間だった。


 その二日目に、海斗と出会った。いや、再会したのだ。



 +++



 海斗が飛びこんだのを確認して、陽子もまた海中にもぐった。


 キラキラきらめく海面と、ゆらゆらとゆがんだ太陽を、ほうけたように見あげていた海斗が、ふっと陽子を見る。その瞳に浮かんでいるのは感動か。よろこびか。とりあえず、マイナスな感情でないことだけは確かなようで、陽子は心の中でホッと安堵する。


 手を差し出したのはどちらが先だったのだろう。どちらからともなく指先をからめて、引き寄せあって。きらめく太陽の下。海に包まれて。まるで、そうすることが最初からきまっていたみたいに、唇が重なった。


 海の中で交したキスは、冷たくてあたたかい、不思議な感触を残した。



 +++



 あした、海斗が東京に帰るころ、陽子は空の上だ。


 海斗には、留学のことはなにもいっていない。伝えてしまったら『待っていてほしい』と思ってしまいそうだったから。


 向こうで勉強して、その後の進路をどうするか。それによって帰国が何年先になるかもわからない。だから、伝えない。再会の約束もしない。きっともう、会うことはない。


「さよなら」


 陽子が口にした別れの言葉に、なにをいおうとしたのだろうか。海斗は口をひらきかけたまま固まってしまった。にっこりと笑って踵を返した陽子は、家にたどりつくまで一度もうしろを振り返らなかった。



     (つづく)



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