海が太陽のきらり

野森ちえこ

陽子

約束の石

 おだやかな波に背中をあずけて、陽子ようこはゆらゆらと海に揺られていた。青い空。白い雲。夏のお手本のような空だ。海水まで沸騰しそうな太陽の熱は、ジリジリと痛いくらいに肌を刺す。ひらいた右手をぐーんと空にのばした。暴力的に輝く太陽は、手のひらからあふれ出して、その欠片すら直視できない。


 待っている。いつからか、ずっと待っているような気がする。なにを。誰を。自分でもわからない。


 ただ毎年、夏になるとこの海にいなければいけないような気持ちになる。毎年。毎年。わからないまま待ちつづけて、それを苦にも感じない。そんな自分を不思議に思わないことが不思議で。だけど、それも今年で最後だ。


 そう、最後なのだ。

 陽子がこの海で過ごせるのは。


 なのに――


 ぷかぷかゆらゆら、浮かんだり泳いだり潜ったりしながらふと視線を投げた先。みつけてしまった。海に突き出した、岬の先端に立ちつくす彼を。最後の夏に。最後の最後で。


 この人だ――と。なにか、直感的ななにかが、心臓のあたりでパチンとはじけた。



 +++



 はじけた。と思った。いや、たぶん、実際にはじけたのだと思う。けど。


「いつまでメソメソ泣いてんのよ」

「な、泣いてねえよ!」


 なかったことにしたい。というのが陽子の正直な気持ちである。


「目、赤いけど」

「ご、ゴミが入っただけだから!」

「あっそ」


 高校生くらいだろうか。見た感じスラッとしているし、顔もそこそこイケメン……といえなくもないのに。さっきっからメソメソぐじぐじ、しょぼくれている。


「だいたい! あんたのせいじゃねぇか!」


 陽子は海の中から『ねえ!』と、声をかけただけだ。べつに驚かそうとしたわけじゃない。


「いきなり海の中からあらわれたら誰だって驚くわ!」


 その拍子に、手に持っていたなにかを海に落としたらしい。そういえば、ぽちゃんと音がしたような気もする。


「なに。人魚かと思った?」

「なん……な、わけ、ねーだろ!」


 陽子としては百パーセント冗談だったのだけど。まさかの図星だったようだ。


 いちいち着替えるのも面倒なので、陽子はいつも自宅からパーカーとサーフパンツのラッシュガードを着用してきて、海に入るときもそのままだ。おなじデザインの色ちがいを日替わりで、今日はブルーのラッシュガードである。が、特に人魚っぽくはない。


「陽子」

「は?」

「あたしは、あんたでも人魚でもなくて、陽子」

「ヨーコ……?」

「いきなり呼び捨て?」

「あ、いや、そうじゃなくて……」


 驚いたような、戸惑ったような顔のしょぼくれくん。もうほうって帰りたいのだけど、自分が声をかけたせいで大切なものを落としてしまったといわれると、陽子としても若干の責任を感じてしまうわけで。


「はぁ。まぁいいや。で、なにを落としたのさ」

「なんでもねーよ」

「なんでもなくないでしょー。泣くくらいだし」

「だから! 泣いてねー!」

「わかったわかった。で、なにを落としたの?」

「あーもう! うっせーな! ただの石だよ! 白くてツルツルしてて、青い線が入っててきれいだけど! ただの石!」


 こいつは天然なんだろうか。いや、アホなのか。あきれる陽子だったけれど、ちょっとおもしろいとも思ってしまった。


 しかし、落とし物は石。石か。もちろん、なにを大切に思うかは人それぞれである。ほかの人間にはガラクタにしか見えなくても、本人にとっては宝物だということだってあるのだから。陽子だってそこをバカにするつもりはない。けど。


「なんで捜そうとしないの?」

「え」


 泣くほど大切なら、さっさと捜しに行けばいいのに。今日は海もおだやかだし。落とした直後の今ならみつかる可能性が高い。


「いや、だって……海……」


 モジモジしている。とても、モジモジしている。


「なによもう、イライラするな! はっきりいいなさいよ!」

「泳げねえんだよ……っ!」



 +++



 モジモジくんは海斗かいとと名乗った。陽子より二つ下の十七歳。東京に住む高校二年生だという。


 東京からだと、新幹線と在来線とバスを乗り継いで約四時間かかるこちらには父親の実家があって、海斗も小学一年生までは、その実家近くのアパートに住んでいたらしい。けれど両親の離婚がきまって、海斗は母親と東京で暮らすことになった。それ以来、こちらにはきていなかったのだとか。しかし今年は、体調をくずして入院している祖母が海斗に会いたがっているということで、夏休みを利用してお見舞いにきたのだという。夏風邪が長びいていたようだが、きのう元気に退院したらしい。


「名前、海斗なのに。泳げないんだね」

「う、うっせーな! おれがつけたんじゃねぇし! そのあわれむような目をやめろ!」


 確かに。名前は本人の責任ではない。しかたなく石は陽子が捜しに行った。白くて、ツルツルしていて、中央にあざやかなブルーの線が入っているそれは、さいわいすぐにみつかった。十二、三センチほどの、ひらべったい、とてもきれいな石だ。


 海斗の説明どおりだった。だからすぐにわかったのだと思ったのだけど、それを手にした瞬間、陽子の中で記憶の蓋がぱかりとひらいた。



 +++



 十年前。


 ――りこん、するの。ぼく、ママとくらすことになって、とうきょうにいくから。ヨーコちゃんともバイバイしなきゃ、いけないの。


 しゃくりあげながら、つっかえつっかえお別れをいいにきた男の子がいた。泣き虫で、気のやさしい、ご近所のカイトくん。


 ――泣かないで。これ、あげる。海でみつけたの。あたしの、たからものだよ。おおきくなったら、これもって会いにきて。これがあれば、おおきくなってもすぐにわかるから。夏は海で。冬ならおうちで。まってるから。ね。


 ――はるとあきは?


 ――うーん、おうち。


 ――なつだけ、うみ?


 ――うん。


 弟のように思っていた。だから、海岸でみつけたとてもきれいな石を、忘れないでという気持ちをこめて。またいつか会えますようにという願いをこめて。悲しいと泣く彼に渡したのだ。


 陽子はお姉さんぶって、最後まで笑顔で海斗を励ました。けれど、ほんとうはさみしくて、悲しくて、日々の暮らしの中で遠くに、遠くに追いやろうとして、いつしかほんとうに遠くなっていって。そして『夏は海で待つ』という意識だけが、陽子の中に残った。忘れないで――と願っていたくせに。まさか自分が忘れていたなんて。まったく、冗談みたいだ。



 +++



 岬であぐらをかいている海斗に石を返して、陽子はそのとなりでゆるく膝を抱える。


「なんで、泳げなくなったの?」

「え」

「むかしは、泳げたよね」


 こちらにいたころの海斗は、確かに泳げたはずだ。むしろ陽子より達者だったくらいだ。


「え、え? なん……ええ?」


 もったいぶる必要もないので、混乱したようすの海斗に思い出したことをそのまま伝えた。


「やっぱり……」

「わかってたの?」

「いや、さっき、名前聞いたとき、なんか記憶にひっかかって。これ、もらったときのことはおぼえてるんだけど」


 手のひらにのせた石を見る海斗の眼差しが驚くほどやわらかい。


「ずっと、名前だけが思い出せなかったから」

「もしかして、あんたがここにきたのって」

「うん。約束の女の子に会えるかな……と思って」


 またモジモジしている。とても、モジモジしている。このモジモジ。なんとかならないだろうか。なんか、約束ごとなかったことにしたくなる。まぁ、それはあとにしよう。このままではいつまでも話が進まない。陽子はひとつ息を吸いこんで姿勢をただした。


「ねぇ、どうして泳げなくなったの?」



     (つづく)


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