第26話 やりたいこともやれない人生より太く短い人生を……3
次の日の朝。
ノックスとルーナは、新たに運ばれてきた患者たちを治療してから、フロンスの病室を訪ねた。
彼のキャンバスが目に飛び込んで来るや否や、ルーナが素っ頓狂な声を上げた。
「え、どうしたのそれ!? 全部真っ赤じゃない。絵の具こぼしたの!?」
「あれは下地っていうんだ」
意外にも、答えたのはノックスだった。
「油絵の具は下の色が表面の色に影響を与えるんだ。だから重ね塗りをすればするほど味わい深く、奥行きのある絵になるんだよ」
「へぇ」
「ノックスさんも絵に興味が?」
「いや、そういうわけじゃない。ただの雑学さ。絵描きでもない私が知っていても、何の役にも立ちやしない」
ノックスが自嘲気味に笑うと、ルーナが腕に抱き着いてくる。
「あたしは疑問が解けてスッキリしたよ♪」
「おいおい、人前でくっつくなよ」
「つまり! 人前でなければ無制限にくっついてもいいと!?」
鼻息を荒くしながら、ルーナは両目を光らせた。光魔法で、物理的に。
「二人は仲がいいんですね。羨ましいです」
筆を進めながら、フロンスは微笑を浮かべた。
「貴族なら婚約者とかいるんじゃないの?」
ルーナは小首を傾げた。
「まだいませんよ。でも、戦争から生きて帰ったら、将来的には親の決めた相手と結婚することになるでしょうね。僕に、自由意志なんてありませんから……絵を描くことも、親は許してくれませんでした……」
「そうなの?」
ルーナに問われて、フロンスは筆を進めながら静かに語った。
「オース子爵家は騎士の家系なんです。だから、両親は僕に騎士になることを強要しました。でも僕は、剣よりを絵のほうが好きだった。でも両親は、画家を目指すどころか、趣味で絵を描くことも許してくれませんでした……っ」
一瞬、顔を歪めるフロンス。
筆を走らせる腕の動きが、傷口に響いたのだろう。
ルーナが心配そうに手を伸ばして、躊躇うようにすぐ引いた。
絵が完成するまで、怪我は治さない約束だ。
痛みを意志力で抑え込むようにして、フロンスは一度息を止めてから、腕を動かした。
「それでも僕は、こっそりと絵を描き続けました。すると父は、絵を描くのは剣術の訓練が終わってからと条件を付けてきました。だから僕は死に物狂いで訓練を終わらせて、毎日絵を描きました。それが面白くなかったのか、父は毎日僕に達成不可能なノルマを課してきました。それでも僕は絵を描きたくて、夜には大手を振って絵を描いていました」
それが本当なら、並の努力ではない。
剣の腕も、さぞ上達したことだろう。
「なのにこのザマですよ」
自嘲ではなく、まるで、親への皮肉のようにして、フロンスは口元を歪めた。
「両親の指示通り、誰よりも過酷な訓練を続けてきたのに、戦場じゃ何の役にも立ちませんでした。剣の届かない遠くから矢を射られて、転んだところを襲われて、訓練なんて無意味ですよ……」
かと思えば、
「もっとも、絵の方もさっぱりでしたけどね」
今度は紛れもなく、自嘲の声音だった。
「さっぱりって、そうは思えないけど?」
ノックスも、ルーナと同じ意見だった。
昨日の下書きと、今、下地の上に走らせているタッチを見る限り、とてもではないが素人には見えない。
「上手いだけじゃダメなんですよ。描いた絵を、画商の人に何度か見てもらいましたけど、みんな同じことを言うんです。『君はただそこにある風景を写し取っているだけだ』てね」
その説明だけで、ノックスはなるほどと思った。
その手の話は、聞いたことがある。
「絵は、見る人に訴えるモノがないとだめなんです」
フロンスの声に、力が宿る。
「実物にはない、目には見えないモノを反映させる。目で見たものを残すのではなく、人の喜びを、悲しみを、温かさを、希望を具現化させた絵が人の心を動かす、真の芸術なんです」
そこで、ふっと声から力が抜けた。
「けれど僕の絵には、それがない……僕には人に訴えたいモノがない。ただ絵を描くのが好きなだけの子供。それが僕です。自分には絵の道は無理だ。そう諦めかけていた頃に、この戦場に駆り出されました……」
フロンスの話を聞いて、ノックスは残念な気持ちになった。
創作の世界は、才能があっても、努力をしていても、大成しない人が多い。
その理由を一言で説明することはできないけれど、フロンスも、その一人であることには間違いない。
「でもね、僕は描くべきものに出会ったんですよ。この戦場で」
溜息をついていたフロンスの声にあらためて力が、そして目には野心が宿る。
「僕は、この戦争の悲惨さを描きます。あの地獄を、名誉も誇りも通じない現実を、死にたがりの騎士たちがどんなものなのか、みんなに教えてやるんです……」
フロンスの真摯な横顔に、ノックスは共感せずにはいられなかった。
フロンスの言う通りだ。
人々が知る英雄譚において、戦場はいつも美化されてきた。
流れ矢に当たって無抵抗に死んだ人や、乱戦で敵味方に踏みつけられ、泥まみれの肉塊に成り果てた人々は描写されない。
いつだって、綺麗な鎧と剣を身に着けた英雄様が華麗に悪を倒し、人々から賞賛されて大団円を迎える。
小説の挿絵はメルヘンチックにデフォルメされている。
舞台の役者は整髪された美形で、ステージ上で舞い踊る。
だから若い騎士は戦場に憧れ、戦いに憧れ、戦争賛歌を唄い戦場で死ぬ。
フロンスの絵は、美化された騎士の世界に、一石を投じるかもしれない。
「…………」
ノックスの瞳に、魔力の光を見咎めると、フロンスは顔をしかめた。
「治療はしない約束ですよね?」
「ああ、だから回復魔法は使わない。鑑定眼によるただの診察だ」
「そうですか。なら、うっ」
息を詰まらせたフロンスの口から、赤い筋が溢れた。
回復魔法を発動させながら、咄嗟にルーナが手を差し出そうとするも、フロンスは彼女の手首をつかんだ。
もう一方の手で口元を押さえる。口の中の血を強引に飲み干して、フロンスは息を吐き出した。
「……これでいいんです。この痛みが記憶を鮮明に、戦場のインスピレーションを与えてくれるんです……」
青ざめた顔色で、けれど声だけは熱意に滾るアンバランスな体で、フロンスは筆を握る。
誰がどう見ても、今すぐ筆を置くべきだろう。
けれど、彼の横顔からは、筆を手放す姿など想像できない。
それほど、彼には鬼気迫る情熱があった。
「そうか……では、私たちは他の患者を治療してくる。絵が完成するのを待っているよ」
そう言って、ノックスはルーナの手を引いて、フロンスから引き離した。
ルーナの足取りは重く、表情は暗かった。
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