乾燥注意報
父は本当にあれからテキストでちょくちょく連絡してくるようになった。内容としては今日食べたものや景色など。気を使っているのか分からないが、どれも返信を誘発するような内容のものではないため、メッセージは返してはいない。
返信をしたくない自分と、返信しないことへのもどかしさが私の中で共存していて、父から来たメッセージに目を通す度に、あの日の晩の光景が脳裏をよぎり、イライラが募る。
ふと返信ボタンに目をやるが、返信をしてしまえば負けだ。私はまだ父を許すことができていない。ここで安易な選択はしたくない。
学校で誰かと過ごしている時間だけが癒しだった。
「未来、食べないのー?」
みっちーは私の顔を覗き込んだ。
「あぁ、そうだね。じゃあちょっと食べようかな」
私の机の上にはたくさんのお菓子があった。グミやチョコ、スナック菓子。これらは誕生日プレゼントである。
本当は明日が誕生日なのだが土曜日で学校が休みのため、こうして今日お祝いとしてたくさんのお菓子をもらった。明日は個別に家でお祝いしてくれる人がいる――玲華先輩だ。
私にお菓子をプレゼントしてくれたのは叶恵やみっちーだけではない。クラスメイトの中でもよく話す何人かもプレゼントしてくれたこともあって、机の上はすごいことになっている。お菓子でいっぱい。ありがたいことだ。
お弁当を食べた後なので少々お腹が苦しいけど、もらったチョコレートを1つ口に含んだ。ミルクチョコレートは甘く口の中で溶けていく。
「うちも誕プレで皆からお菓子もらったけどさ、一瞬で家族に食われた。未来はその心配ないから羨ましい」
叶恵は言った。
確かに私は1人暮らしだから誰かに食べられる心配はなさそうだ。食べきるのに時間かかっちゃいそうだなぁ。
「そうだね、独り占めなんて贅沢だけど全部食べるよ! 太っちゃいそうだけど」
「未来はもう少し太っても良いと思うよ」
「そうかな? こう見えて高校になってから結構太ったよ」
食のありがたみみたいなものが高校生になってからようやく分かった。
身体は以前より少しふっくらしてきたけれど、その分顔色も良くなっているように思う。
私は追加でもう1つチョコレートを口に入れた。
「わたしは陸上辞めてから5キロくらい太ったんだけど」
みっちーはお腹の肉を掴んだ。
「そんな? 陸上やってた頃と変わんなくない?」
「目に見えないところは太ってるんだよ……脱いだらすごいよ」
「いや、それ言葉の使い方違うからな??」
「ははは」
もうこの2人は漫才コンビでも組んだら良いのに。
笑っているとふと肩を叩かれた。
「未来、先輩が呼んでる」
クラスメイトにそう言われたので、指された方向を見てみると千夏先輩が教室のドアの前に立って笑顔でひらひらと手を振っていた。何だろう。
「いやぁ千夏先輩に話しかけてもらったの超嬉しい! 未来のおかげ。ありがとね」
「あはは……良かったね」
そのクラスメイトは千夏先輩のファンらしく、何故か感謝された。
立ち上がって千夏先輩の方まで向かう。
「おっす! おら千夏」
ピースしながらウインクされた。
「知ってます。どうしたんですか?」
「あのさ、ちょっとついて来てくんないー?」
「え、どこ行くんですかー」
いっつも急だなぁ。とりあえず追いかけることにした。
2階の階段を上がりながら千夏先輩は私に問いかけた。
「未来さぁー、風紀委員長とか興味あったりしない?」
「興味ないです」
「副委員長には興味あるよね?」
「ないですね」
「風紀委員長と副委員長ならどっちになりたい?」
「なんでその選択肢しかないんですか。どっちも嫌です!」
「悲しいなぁー」
この前のミーティングでもその話は出たけれど、誰も立候補者はいなかった。玲華先輩と千夏先輩で次の候補者を推薦することになっているが、ここで私がやりたいなんて言ったら推薦される気がする。基本的に推薦された場合は滅多なことがない限りは断らないものらしく、推薦されたが最後だ。
そもそも私は風紀委員長って感じのキャラではないし、仕事もそこまでできる方ではない。成績もまずまずだ。
元々1年の任期満了で辞める予定だったし、玲華先輩とめでたく結ばれ結果的に目的を果たすことができた。風紀委員を辞めるのは少し寂しい気もするけれど、役職者になれるくらいの器ではないし、2年生になったらまた違うことに挑戦しても良いと思っている。
「あ、ここ入って」
千夏先輩は角にある多目的室のドアを開けて私を中に入れた。通常の教室に比べて半分くらいの少し狭い部屋で、中には小さなデスクと椅子が1つずつと、顕微鏡など理科の実験で使うような器具が棚のいたるところに置かれている。初めて入った部屋だった。
「ここ穴場なんだよねー。よくここで授業さぼったりしてる」
そう笑いながら言うと、千夏先輩は多目的室のドアを閉めた。
「風紀副委員長さん、堂々とサボり発言しないでください……。で、なんですか? 私をここに連れてきたりして」
「え、イケナイことしちゃおっかなーって」
千夏先輩は内側から多目的室の鍵を閉めた。
「ちょ、なんで鍵閉めるんですか!」
「えー? 演出?」
少し悪巧みしたような笑顔で自分の顎を触っている。
「はぁ……?」
そのままの悪い表情で千夏先輩が距離を詰めてきたので思わず後ずさった。いつも唐突だし行動が読めないから本当に何してくるか分からないし油断できない。その「イケナイこと」とやらをしてくる可能性がないわけじゃない。鍵を閉められたあたりから緊張して体がこわばっている。
壁際に追い詰められて、背中が壁に当たった直後のことだった。
「ほい、誕生日プレゼント。明日学校ないからさぁー」
小さな小包を目の前でぶらぶらさせている。
良かった……。その瞬間、緊張が解けた。
何かされるかとヒヤヒヤしたけど、誕生日プレゼントだった!
覚えててくれたことが嬉しい。
「おぉ……! 開けていいですか?」
小包を受け寄ろうと手を伸ばすが、小包は逃げていく。
「あたしが開ける」
「いや、そこ普通私が開けますよね?」
意味が分からない。受け取って開けるまでが誕生日プレゼントだと思うんだけど。
千夏先輩は私の目の前で小包を開けた。
中からは小さな缶状のものが出てきた。
「何ですか? これ」
「リップバーム。リップクリームみたいなもん」
「リップバーム……リップクリームとはどう違うんですか?」
初めて聞いた名前だ。リップクリームはスティック状だし、形が違うのかな。
「まぁほとんど変わらないけどリップバームの方が一般的に保湿力が高いって言われてるかなー」
「そうなんですね、なるほど……ありがとうございます! なんかやばいものプレゼントされるかもって思ってたんですけど、思ったよりも普通のもので安心しました」
修学旅行のお土産に激辛苦まんじゅうを買ってくるし、玲華先輩の誕生日プレゼントはバナナケースだったし、私もプレゼントされるとしたらろくなものじゃないと想像していたのに、意外だった。
「ほらー、この時期乾燥するじゃん?」
千夏先輩はそう言うと、リップバームを一度自分のカーディガンのポケットにしまって、代わりにチューブ状のハンドクリームを取り出して自分の手の甲につけると擦り合わせて手全体に伸ばしていった。先程のリップバームと同じロゴのものだ。
ふんわりとローズの香りが広がる。
「千夏先輩の指、長くて爪の形も綺麗ですよね。こうしてちゃんとケアしてるからより一層綺麗に見えるんだろうなぁ。見習わないと」
前から思っていたけれど千夏先輩の手は綺麗だ。ペン回しをよくしているけれど、ペンよりも指の方に目がいってしまう。瑞々しくて、細長く伸びる指の先にはピンク色で血色の良い爪。
がさつっぽいくせにハンカチを携帯してたりするし、こうしてハンドクリームつけてるし良く分からないところでしっかりしているというかなんというか……。
ハンドクリームなんて私は持っていないけれど千夏先輩が塗っているのを見て1つあっても良いな、なんて思った。なんか女子っぽいし。
「保湿はねー、大事だよ。特に唇は皮膚が薄いからもっと大事。ふふーん。塗ってあげようか?」
千夏先輩はハンドクリームと入れ替えに先程のリップバームを取り出した。
「え、今? 自分で塗るから大丈夫ですよ!」
「あーもう手にとっちゃったー」
「えー……」
千夏先輩の親指の先にはジェル状のものが乗っていた。まさかこれ、直接口に塗るの? なんかやりづらいな。どんな顔してれば良いんだろう。
「未来。少し上向いて口に、んって力入れてみて」
「こうですか?」
自分でリップクリームをつける時みたいに、口を横に引いて少し力を入れてみた。
「ん。そう、上手」
千夏先輩は一方の手で私の顎を軽く押さえて固定し、親指についたジェルを近づけてきた。他人の指が唇に触れることになんとなく抵抗があって、反射的に後ずさろうとしたが後ろは壁だったので無理だった。
先輩の手が伸びて上唇と下唇を巻き込んだ中央部分に塗ったかと思うと、ゆっくりと縦に親指を動かしながら徐々に位置を右に移動させている。ほのかにローズの良い香りがする。人に唇をこんな風に触られることなんてないから、変な感じがする。目線のやり場に困り下の方を見た。
「なんか変な塗り方しますね」
唇の横半分を塗り終わったところで私は口を開いた。
「人間の唇の繊維ってさー、縦なんだよ。だからそれに合わせて塗ると浸透しやすくなんの。よく皆、リップクリームとか横に塗ってるけどさ、横塗りは繊維と逆だから無駄な摩擦を増やしちゃって良くないのよー」
千夏先輩はため息交じりにふっと息を吐いた。
確かに唇って縦に線が入ってるし、繊維に沿って塗るというのは理にかなってる気がする。
「そうなんだ、知らなかった。今までずっと横に塗ってました」
「ほら、まだ終わってないから口閉じてー」
「あ、はい。ん」
先ほどと同じように唇に力を入れた。
再び千夏先輩の親指が中央部分に触れると、さっきとは逆方向――左側に親指が動いていった。
どんな気持ちで塗ってるんだろうな。なんとなく恥ずかしくて目線は下を向けていたが、千夏先輩の顔を見てみた。私の唇を見ていた千夏先輩は、視線に気が付いたのか目線を上げて私の目を見たので目が合ってしまった。その瞬間ふふっと優しく微笑まれた。その顔が妙に色っぽくて、普段の千夏先輩とはなんだか違う感じでがしたので思わず目を横に逸らした。
「……ちっちゃくてかわいい唇だね」
千夏先輩の顔が少し近づいてきたかと思ったら左耳の近くでそう言われて、ドキッとする。
でたよ……この感じ。やっぱり先輩はこういう空気を作るのが上手い。確信に変わった。
正直ペースが乱されるからやめてほしい。相手はただの千夏先輩なのに。
どうせ面白がってやってるだけだ。こんなのに屈してたまるか。
「……まだですか」
もう塗り終わってるはずなのに親指は私の唇から離れなかった。
平然を装いながら口を少し開けて低いトーンで尋ねる。
「見てこれ。余っちゃった。未来の唇が小さいから」
私の視線の先にジェルのついたキラキラと輝く親指をもってきた。目の焦点が千夏先輩の親指に定まったかと思ったら、そのまま先輩はニヤっとしてそれを自分の唇につけた。
思わず息を飲んだ。
私の反応を見るかのように目線はこちらに向けられたままだ。
「……甘い。チョコレートの味がする」
千夏先輩はリップバームを浸透させるためか上唇と下唇を合わせるとそう呟いた。
「なんか……うぅ……」
先程食べたチョコレートのことを思い出して、なんとも気恥ずかしい気分になる。私の唇についてたものを食べられた……。
むず痒い気持ちになって顔を伏せた。こんなの恥ずかしくないわけがない。
「少し耳が赤くなってる。ドキドキしちゃった?」
先ほどと同じ、左耳の近くで吐息混じりの声で囁かれた。
「……し、してないです!」
千夏先輩の人差し指が私の左耳のふちに触れて、そのまま耳たぶの位置までゆっくりと下がっていく。触れるか触れないかの力加減でゾクゾクする。声が漏れそうになるのを抑えた。
優しげなのに、ちょっと意地悪な視線がまっすぐこちらに向けられているのが分かる。まずい。
「千夏先輩……もう……ホントっ……だめですってば……」
普通なら触られないような場所に触れられているのに、身体は動かない。声で抵抗するのがやっとだが、漏れそうになる声を抑えながら発しているため細い声しか出すことができない。
このままだと本当にそのまま飲み込まれる。やばい。
「これ薔薇の良い匂いでしょ。あたしと未来の唇から同じ匂いがしたら玲華はどう思うんだろうね?」
耳たぶに触れた人差し指がそのまま頬をつたって私の口の位置まで来て、下唇にちょんと優しく触れた。
「なんでそういうこと言うんですか……」
涙目になる。
「あはは、冗談。ごめんね、いつもいい反応してくれるからつい、ね」
千夏先輩はいつもの感じに戻ると、私の鼻先に人差し指でタッチした後に多目的室の鍵を解錠した。
「冗談が過ぎますよ……」
ほっと安心して息を吐きだした。心臓が少し速い。
もうだめだ、悔しいけどやっぱりこの人には適わない。でもいつか……いつかは……。
「そういえばさー、明日の天気予報見た?」
千夏先輩の八重歯がキラっと光る。
「見てないです。もしかして悪い天気でした?」
明日は玲華先輩が私の家に来るから室内だ。
天候はそこまで関係ないけど、雨だったら嫌だな。なんとなく。
「乾燥注意報が出てたよ、玲華の唇に。……明日会うんでしょ? あたしの誕プレに活躍の場を与えてやってよ」
千夏先輩はそう言うと、私のカーディガンのポケットにリップバームを入れた。
ウインクした後、私に背を向けると手をひらひらと振って多目的室から出て行った。
「……」
塗ってキスしろってこと……?
蓄積されたものが爆発して、顔がゆでだこのように赤くなるのが自分でも分かった。
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