放課後、学院内の音楽スタジオに私は1人いた。

 スタジオの中は音楽機材がたくさん置いてあって、独特な機材の香りが充満している。このスタジオは普段、軽音楽部が練習の為に使っているものだが、文化祭に向けた練習をするのであれば、私のような部外者でもスタジオを使うことができる。



 あれから千夏先輩は早々に申請書を生徒会に提出して、文化祭のメインステージで歌うことが決まってしまった。やる曲は全部で4曲。自分たちで作った曲ではなく、既にある曲をカバーして演奏する。バンドメンバーが1人1曲やりたい曲をリクエストする方式をとったらしい。

 ギターとベースのメンバーがリクエストした曲は夏休み前から何度か合わせているらしく、今月は残りの2曲の練習に力を入れるとのこと。1曲選べるということなので、私は羊飼いの執事のエンディングテーマである「君が羊羊ひつよう」をリクエストした。千夏先輩はボーカルとして私を迎え入れたこともあって、私にぴったりな曲をセレクトしたと言っていたが――蓋を開けるとラップだった。しかも英語の。

 何の嫌がらせだろうか。これこそ悪意の塊だ。歌の最初の出だしが「YO!」な時点でもう無理。どう考えたってキャラじゃない。何が私にぴったりだと思ってセレクトしたのか問いただしたい。ふざけている。これを文化祭でのメインステージ、皆の前で私にやらせるなんて正気の沙汰とは思えない。

 初合わせがもうすぐあるのでそれに向けて練習しなければならず、放課後にスタジオを予約して借りているのだ。



「あのドSわんこめ……」



 ボーカルは歌詞を覚えれば良いだけなので比較的楽だと思っていたけれどラップとなると話が違ってくる。

 千夏先輩は私がラップができなくて悔しがっている顔を見たがっている気がする。でなければ、あんな選曲はあり得ない。歌うには難しすぎる曲だが私は千夏先輩の思惑通りにはなりたくないと思った。何としてでも歌いきってぎゃふんと言わせてやりたい。

 それぞれの曲の歌詞をプリントアウトしたが、ラップだけ量がおかしかった。紙が黒のインクで真っ黒である。日本人の私には書かれた英単語をバカ丁寧になぞって歌うのは無理なのでそれっぽく歌えるように音で覚えた。どうせみんな英語なんて分からないんだから、少しくらい加工しても大丈夫なはず。

 下校時間になるまで、ひたすら反復して1つ1つのフレーズを仕上げていった。感触としては悪くない。意外とできるかもしれない。



 心も体もラッパーになりきっていた私はスタジオから出た後も廊下を歩きながら、フレーズを口ずさんでいた。



「YO! ワッサーップマーン、ジャスツファロミー!」



 「よう、元気か? 俺についてこいよ」という意味らしい。出だしのフレーズだ。ちょっとカッコつけて手ぶりを加えてしまった。後ろから足音が聞こえる。

 おずおずと振り返ると3年生と目があって苦笑いされた。もうだめだ。頭おかしい奴ってきっと思われた。

 ラップ、完璧に歌い切ったとしても逆に失笑されるだけなんじゃないだろうか。自分の努力が水の泡になるのは避けたいから一応最後まで頑張るけれど……。

 私は3年生から逃げるように足早に出口に向かった。



 校舎から出ると、しとしとと雨が降っていた。



「うそー」



 今日雨って聞いてないのだけれど……。

 急に降り始めたようで、多くの生徒が傘を用意していなかったようだ。そのため、貸出用の傘は残ってはいなかった。

 


「濡れて帰るかぁ」



 どうせ家まですぐだし。帰ってすぐシャワー浴びれば良いだけのことだ。

 しかし空は天候に対して比較的明るかった。もしかしたら雨が止むかもしれないと思って玄関口から雨に打たれる地面を見つめていた。雨の日独特の濡れたコンクリートの匂いがする。



「下校時間よ」



 声をかけられる。振り向くと灰色の透き通った目をした黒髪の美人が立っていた。

 今日は玲華先輩が下校時間の巡回の日だった。



「あ、もう帰りますから」



 風紀委員は部活動のようなものなので、下校時間になっても仕事があれば残ることはできる。しかし今日は私は巡回もないし、仕事も特にないのでこの時間には帰らなければならない。

 雨に濡れるのは別に大丈夫だ。走って帰ろう。空から降りつける雨を視界に捉えて、一歩踏み出そうとする。



「傘、持っていないの?」



 私は足を止めて答えた。



「……はい、持ってないです。今日雨なんて天気予報で言ってませんでしたよね」


「ええ、言ってなかったわね」


「ですよね……天気は気まぐれで嫌になっちゃいますよ。今日は走って帰ろうと思います。それじゃあまた! お疲れ様でした」


「待って。……こういうこともあるかと思って学院に常に傘を置いているの。ここにいて」



 玲華先輩は自分の荷物を取りに行ったようで、少ししてから戻ってきた。

 手には紺色の傘が1本あった。予備の傘を貸してくれるのかと思ったけど、これしか傘はないようだ。



「家まで送っていくわ」



 傘は1本なので、玲華先輩は私を入れて送ってくれるそうだ。さすがにそれは申し訳ない。



「え、いや、大丈夫ですよ。ご存知の通り近いですし多少は濡れても――」


「これから文化祭に向けた活動で忙しくなるというのに、風邪を引かれて休まれると困るの」


「……すぐシャワー浴びるんで大丈夫ですよ」


「私の言うことが聞けないの?」



 千夏先輩もそうだけれど、玲華先輩もちょっと強引なところがあると思う。

 傘を忘れたのは私のせいなのに、それでわざわざ遠回りして先輩の時間を奪うなんて嫌だ。こういう性格が甘え下手なんて言うのかもしれないけれど、むしゃくしゃする。体調心配してくれるのはありがたい話なのだが……。



「私の家まで来たら寄り道になっちゃいま――」


「家の中に入らなければ寄り道にはならない」



 玲華先輩は私の言葉を遮ってきっぱり言い切った。



「そんなむきになって言わなくても……分かりました。じゃあ今回はお言葉に甘えます。ありがとうございます」



 2人並んで私の家の方を目指した。相合傘だ。

 私のために家まで送ってくれることは申し訳ない気持ちが山々なのだが、玲華先輩と一緒にいられるのは純粋に嬉しかったりする。好きだからしょうがない。



「下校時間まで何をしていたの?」



 降りつける雨の中、玲華先輩は傘を持ちながら口を開いた。



「千夏先輩のバンドでボーカルやることになってしまって……」


「あぁ、文化祭の」


「そうです。千夏先輩が英語のラップの曲セレクトしたので、それの練習をしてました……」



 そういえば玲華先輩って風紀委員の顔合わせの時、韻踏んでたっけ。

 玲華先輩が私の代わりに、生徒たちの前でラップをする姿を想像してふき出してしまった。



「なにを笑っているの」


「いや、玲華先輩ならラップの曲うまく歌ってくれるかなって思って」



 以前図書室で会った時に、英語の本を玲先輩は読んでいた。だから英語のラップでも容易にできそう。



「……いつまでそれを言うつもり。韻の指摘が千夏からあった後、茅ケ崎さんは私の顔を見る度に馬鹿にしたように笑うようになったわ。あなたもそうなの?」



 茅ケ崎さんとは、洋子のことだ。顔合わせの日に、笑いのツボが浅すぎるあまり、皆がいる前で噴き出してしまった1年生。私に羊飼いの執事の紹介をしてくれた張本人。少しオタク気質なところがあるけれど真面目で良い子だ。



 口をムッとさせている玲華先輩。その顔が可愛くて笑みがこぼれた。



「ふふ」


「何が面白いの」


「玲華先輩ってなんだかんだ優しいなって思って」


「……優しくなんてないわ」



 年下の子から顔見られただけで笑われるなんてプライドの高い人にとっては許せないことかもしれないけれど、玲華先輩は誰に対しても平等に接している。誰かを避けないと言ったが、それは嘘ではないと思う。

 何より、あのドSわんこ――千夏先輩のいじりに反発しつつも、なんだかんだ仲良くやっているように思うから。私に対してだってそう。今までたくさん迷惑をかけてきたのに面倒を見てくれている。今だって傘に入れてもらっているし。



 ポツポツと雨が傘を打つ音が聞こえる。

 先輩の肩は雨で濡れていた。ほら、こういうところが優しいんだよ。



「傘、先輩の方に寄せてください。肩、濡れちゃってます」


「これでいいのよ」


「良くないです」



 明らかに私の方に傘を寄せているのが分かる。その証拠に私の肩は濡れていない。こういうのは嫌だ。私のせいでって思ってしまうから。

 傘の棒の部分を持って玲華先輩の方へぐっと力を込めた。それに対抗するかのようにこちら側に力が込められるのが分かった。私も負けまいと更に力を込めた。



「あっ」



 傘がバランスを崩し、それをうまくカバーしようとしているうちに、傘を持つ玲華先輩の手に私の手が触れてしまった。



「……ごめんなさい」



 思わず謝る。



「どうして謝るの」


「うぅ……」



 告白をしてしまったせいか、こういうことに関しては敏感になっているのかもしれない。私に触れられて嫌だって思っていたらどうしようかとか考えてしまうのだ。



「……あなたがもう少しこちらに寄れば私も濡れなくて済むのだけれど」


「分かりました。じゃあちょっとだけ……」



 玲華先輩の方に少し寄った。先輩特有の石鹸のような香りがふわっと香る。



「…………」


「…………」



 雨の音を聞きながら、私は歩みを進めた。

 あぁ、神様……玲華先輩にここまでお近づきになることを許してください。

 肩と肩が触れあうか触れ合わないかくらいの距離で、小さな幸せをかみしめていた。



 そうこうしているうちに家に着いてしまった。



「ちょっとここで待っててください」



 私はドアの前で玲華先輩に待ってもらって、急いでタオルを取りに走った。

 戻って来て玲華先輩の濡れた制服を拭いた。



「あ……」



 丁寧に制服をタオルでなぞる。何故か玲華先輩が声を漏らしたが、気にしないで濡れた箇所を満遍なく拭いた。

 まさか直接タオルで拭かれるって思ってなかったんだろうな。



「も、もういいわ。大丈夫よ」


「……私のせいで先輩が濡れるの嫌なんです。風邪引かれたら嫌だって思うのは私も同じですよ。だからこれくらいはさせてください……」



 腕の部分、白い肌にもタオルを忍ばせた。僅かに二の腕も濡れていたからだ。私を濡れさせないために、代わりにこの腕が水滴を受けた。腕なのに何故か愛おしく思えてしまう。優しく包み込むようにして水滴を拭きとった。

 玲華先輩の顔を見ると僅かに頬が染まっていた。



「未来……」


「なんですか」



 タオルを拭く手を止める。



「……な、何でもない」


「呼んだだけ、ですか?」


「……」



 雨の音がサーっと聞こえる。

 私たちは雨の音を背景に3秒間、動きを止めたまま沈黙した。



「……玲華先輩?」


「……なに」


「呼んだだけです。お返しです」



 先輩の顔は更に赤くなっていった。

 色素が薄いから本当に分かりやすい。何でこのタイミングで恥ずかしがっているのか分からないくらいに恥ずかしがり屋なのに、これが完璧な風紀委員長って……。ギャップも良いところだ。そんなところも好きなんだけど。



「玲華先輩って恥ずかしがり屋ですよね」


「……そんなことない」


「そんな顔して言われても説得力ないですから」


「……」



 何も言えずにいる玲華先輩をよそに、再び手を動かして濡れた箇所を全て拭き終わった。



「はい、拭けました。これで良し、です。駅まで送って行きます」


「別に大丈夫よ」


「私がしたいんです……。嫌ですか……?」


「……好きにしたら」



 家にあった自分の傘をさして私は駅まで玲華先輩と一緒に歩いていった。



「ライブ、時間が合えば見るわ。千夏も出るんでしょ」


「はい。ありがとうございます……玲華先輩が見てくれるって思うと、すごく嬉しいです」



 駅で別れて、家まで引き返す。

 玲華先輩に見てもらえるなんて緊張する。もっといっぱい練習しなきゃ。

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