後日談 ─八年後─
アラ、いらっしゃい。お久しぶりねえ。
てっきりよそにいい子を作って、お見限りになったのかと思ってたのだけど。
……マア、ホホホ。相変わらず上手いこと。
このユキ子さんも、すっかり枯れちまいましたよ。
……え、まだまだ女盛りですって? うれしいこと言ってくれるわねエ。
さ、お座りなさいな。
コートはそっちにかけて。そう、壁のフックによ。
たしか貴方、レア・オールドだったわね。
当然よ。この『バー・ラウール』の女主人、お得意さんの定番は覚えているわよ。
最近いいお酒はなかなか手に入らなくなったけど、うちはチャンと本物を置いてるからね、ご心配なく。
……え、最近あった面白いお客さん?
いやだ、まァた新聞に売ろうって魂胆でしょう。こちとら客商売なのよ、そうそう気軽には……。
ううん、プライベエトですって? 単なる好奇心?
本当かしらねエ、信用ならないわ。
……まあ、お名前を出さなくていいなら、少しくらい話してもよくってよ。最近の新聞は戦況報告が忙しくて、この手の話なんて見向きもしないものね。
お代はこのワインをいただくわ、もちろん貴方のおごりよ。
ホホホホホ……。
……そうねえ、先日いらしたお客さんの中に、こんな人がいてね。
名前は……仮に『S氏』としておきましょうか。……いやァね、本当のところなんて言えやしないわよ。
まあお聞きなさいな。
で、そのSさんなんだけど、この人と久しぶりに再会したの。かれこれ十五年ぶりくらいかしら。
この人がまあ、遊び人でねえ。
お家が医者で大学にも行かせてもらってるってのに毎晩のように遊び歩いて、銀座界隈のカフェーじゃあ結構な有名人だったのよ。そう、あたしが勤めてたお店にもよく来てね、ずいぶんご贔屓にしてもらったわ。
そんなSさんも大正の震災後にはパッタリと姿を見せなくなってね、しばらく女給仲間と安否を心配していたんだけど、そのうちすっかり忘れちまったのよ。あたしもお店を辞めたりここの準備とかで、忙しかったからもんだから。
それなのに、こないだひょっこり顔を出したんだもの、あたしもビックリして腰が抜けるかと思っちゃったわよ。
……え、どんな男だって?
そうねえ、シュッと背が高くてきれいな顔でねエ、映画スタアみたいな人なの。
いかにも毛並みのいいお坊ちゃんって容貌だけど、なかなかどうしてしたたかな人でさ、さすがに当時よりは老けたけど、それでも十分色男って感じだったわ。
……歳? そうね、今なら三十五、六ってとこかしら。
あたしもすっかり懐かしくなっちまって、お酒を出しながらあれこれ訊いたのよ。
お医者さま志望だったし、立派な背広を着てるから、てっきりどこかの大病院にお勤めなのかと思ったら、それが大間違い。
なんだと思う?
……大学の先生、いいえ外れ。
……軍人さん、これも外れ。ホホホ。軍人さんなら背広じゃないわよ。
だいたい、今はのんきに酒場に来ている暇なんてないでしょ。
……いやだ、もう降参? だらしないわねえ。
これがね、なんと神父さん。
そう、神父さんよ。キリスト教の坊主にあたる、あれ。そうそう、教会で十字を切ったりするあれよ、あれ。
またまたビックリよ。
あたしも詳しくは知らなかったから、いろいろ教えてもらったんだけどね。神父さんってのは所帯が持てない代わりに、かなり儲かる商売なんですって。
ほら、坊さんのなかでもお布施とかで荒稼ぎしてるのがいるじゃない、あんな感じかしら。
うるさい上下関係やら派閥やらあるみたいなんだけど、その辺もゴマスリや献金でうまく立ち回れば、かなりの地位が約束できるってさ。Sさんもそうやってコネを使ったりして、なんとかっていう大きな教会のシュニンシサイにまでなれたとかなんだとか。
……ごめんなさい、あたしも詳しくなくってうろ覚えなんだけど、とにかくSさんの歳だとかなりの出世なんですって。
神さまの世界にもそんなのがあるなんて、生臭い話よねえ。
……でまあ神父さんになった経緯とか、そういった話をしてたんだけど、あたしが興味を持ったのは、あれほど女遊びの激しかったSさんが、本当に女断ちができたのかってことでさ。
あたしが訊ねたら、あの人ったら
「馬鹿正直に貞節を貫いてるやつなんていないさ。みんな妾を囲ったりシスターに手を付けたりしている」
なんて言うもんだから、じゃあ貴方もさぞお楽しみなんでしょうねって返してやったの。
そしたらSさんは悪びれずに、今は
それ聞いてあたしは思ったわね、“三つ子の魂百まで”って。
人間の本質ってのは、そうそう変わらないもんよ。
曲がりなりにも神さまに仕える身だってのに、相変わらず節操がないったら。
いつからそういうことしてるのかって訊いたら、五年前、神父になって最初に赴任した女学校からですって。
あきれながらも、あたしは訊ねたわ。
「うぶな女学生をたぶらかしたのね。悪い人だこと」
そしたらSさんは相変わらず笑ったまま、
「心外だな、ぼくはあいにく小娘には興味がないんだ。あの頃は男日照りのシスターを相手にしてたんだよ」
って言ったんだけど、すぐに真顔になって訂正したわ。
「──いや。ひとりだけ、いたかな」
その顔があんまり真面目だったから、どんな手管でお嬢さまを陥落させたの、さぞ甘い言葉をささやいたんでしょう、って聞いてみたのよ。
すると、彼ったらうつむいてひどく小さい声で答えたの。
「……手込めにしたんだ」
あたしは、その日一番驚いたわね。
だって、Sさんは黙っていても女が放っておかないような色男だったのよ。
それに一見するとスマアトで紳士的で、とてもそんな荒っぽいことをするような人じゃなかったもの。
警察に捕まらなかったのかって問いにも、彼はふっと笑いながらこう答えたわ。
「捕まるどころか、お嬢さんの方からせがんできたよ。誰にも言いません、だからおそばに置いてってね」
そして彼はウイスキーをあおってから、聞いてもいないのに一気に話し出したの。
「深窓の令嬢が、自分を犯した男に逢い引きを請うんだ。こんなおかしな話はないだろう? ぼくはすっかり愉快になってね、ちょうど色事もご無沙汰だったことだし、お望み通り卒業までのあいだ存分に遊んでやったのさ。生娘相手ははじめてだったけど、世間知らずな分飲み込みも早いものだな。ぼくが仕込んだとおりに奉仕するわ、はしたなく乱れるわで、なかなか楽しめたよ」
……ええ、本当、いやらしい男よね。
訊いてる方が気分悪くなっちゃうわ。
でもね、こんなひどい言い草なのに、あたしはなんだか腑に落ちなかった。
……なんていうのかしら。心にもないことを一生懸命しゃべっているような、なにかをごまかしているような、そんな感じだったのよ。
そのお嬢さんとはどうなったのか訊いたら、Sさんは一瞬顔をゆがめたわ。
でもすぐに元に戻って、
「さあね。卒業してすぐ婿養子を迎えるとか言って泣いてたから、今ごろ子どものふたりや三人は抱えてるだろうよ」
と、吐き捨てるように言ったの。
そのときのSさんの顔は……そう、まるで嫉妬してるみたいだった。
いい歳をした男がよ、恋敵の話をするときみたいに。
そのときあたし、直感したの。
だから意地悪して、ずばり訊いてやったわ、
「ははあ、貴方さては、そのお嬢さんを好いていたのね」
ってね。
するとどうでしょう、Sさんってばとたんに顔色を変えて怒鳴ったのよ。
「──そんなこと、あるわけないだろう! いいかげんなことを言うな!」
そりゃあ大きな声だったわ。他にお客さんがいなくて本当によかった。
ま、あたしも銀座でお店張ってるからね、殿方の怒鳴り声くらいじゃあビクともしないわよ。
今度はあたしがにやにや笑ってやったら、Sさんはいらついた声で言い出したの。
「あの娘は、ただ条件のいい男がよかっただけだ。最初はぼくのことをからかっていたくせに、医者の家系で帝大に通っていたと聞いたとたん、手のひらを返したように擦り寄ってきた。あげく、ひとりで勝手に熱を上げて恋だのなんだのと騒ぎ出す。まるで少女小説の主人公気取りだ。だから、あの娘の夢をぶち壊してやったんだ。おまえの恋する立派な神父さまはこんな非道な男だと、思い知らせてやったのさ」
もうね、完全に酔っていたわ。
目も据わってたし、まるで別人みたいだったわよ。
……あら、グラスが空ね。お代わりなさる?
今日はやけにペースが早いじゃない。この話、そんなに肴になるかしら。ホホホ……。
……はい、どうぞ。あたしももう一杯いただくわ。
……アア、おいしい。しゃべり通しで喉がカラカラだったのよ。
そうそう、続きね。まあお待ちなさいな、せっかちだこと。
ええと、どこまで話したかしら。……ああ、Sさんが怒ったところまでね。
そうなのよ、それまで人を食ったような口調だったのに、いきなり態度が豹変したのよ。
実はね、彼のこういうところ、覚えがあるの。
……まだ学生だったころ、毎晩のように遊び歩いている彼に、あたし進言したことがあったのよ。せっかく学校に通わせてもらってるんだから勉強した方がいい、お父さまの期待を無駄にしてはだめよ、ってね。
そしたらまあ、烈火のごとく怒ったわ。
親父なんか大嫌いだ、自分の考えを一方的に押し付けて、予想どおりにいかなかったらぼくのせいにする。期待になんか沿ってやるもんか。親父も最近じゃあすっかり見放したよ、ざまあみろ、だって。
……要するに、乱行三昧はお父さまへの面当てってわけ。
まあネ、過度の期待がプレッシャーになる。気持ちは分からないでもないわよ。
まだ彼も若かったし、その期待に込められた愛情が気詰まりだったんでしょうねエ。
それにしても学生時代ならともかく、分別ある歳になったってのに、まだ同じように反発するのよ。しかも、お嬢さんは当時十七歳だったらしいの。Sさんよりひと回り近く歳下なのよ。
……え、成長しない男ですって? 精神が幼いまま?
マア手厳しい。ホホホ……。
あたしね、ここまでSさんの話を聞いてて、お父さまやお嬢さんに対してどうしてこんなに反発するかしらって考えてたんだけど、ようやくひとつ思い当たったの。
……共通点よ。
ふたりにはある共通点があるの。貴方、気付いて?
……もう、すぐに降参なさるのね。
いいわ、教えてあげる。
お父さまとお嬢さん、ともにSさんに期待をかけすぎていたんじゃないかしら。
おまえならきっと立派な医者になれる、あなたはすばらしい神父さまだ、ってね。
そしてSさんはそうやって型にはめられるのがいやでいやで、だから反発してわざと嫌われる真似をしたんだと思うのよ。ふたりの中の『理想の自分』を壊してやりたかったのよ。
ネ、貴方どう思う?
……まあ、名探偵ですって?
いやだ、冗談が過ぎるわよ。ホホホホホ。
でもね、あたしの推理もまんざらじゃアないのよ。
だって彼にそう言ってやったら、むっつりと黙り込んだもの。きっと図星だったんだわ。
さあ、ここからが本番よ。
あたしはさらにそこから踏み込んでみたの。
「貴方、試したんでしょう?」
Sさんは訳が分からないって顔をしたから、重ねて言ってやったわ。
「本当の自分を見せても嫌われないかどうか、試したんでしょう。お父さまにも、お嬢さんにも。結果、お父さまはさじを投げたけど、お嬢さんは変わらず慕ってくれた。それが、本当はうれしかったんじゃないの?」
ってね。
そのときのSさんの顔ったら見物よ。ぽかァんとしてさ。
どうやら、あたしに指摘されてようやく気がついたみたいなの。
本当にまあ、どうしようもない人ね。
「違う、そんなんじゃない……」
なんて首を振り振りつぶやくの。さっきまでの勢いはどこへ行ったのってくらい、弱々しい声でね。
でもあたしはね、お腹の中じゃあSさんにさんざっぱら怒っていたのよ。
だってそうじゃない、男の勝手でお嬢さんにひどい目にあわせたのは事実なんだから。
お嬢さんの恋心につけ込んだあげく、土足で踏みにじったも同然だわ。
どんな理由を付けても、許されるもんじゃアないわよ。
……あら、ごめんなさい。熱が入りすぎちゃった。
やっぱり同じ女だからつい……ね。ホホホ。
だから、あたしひどく意地悪してやったの。
「馬鹿な人ね。貴方、お家はいいんだから、真面目に勉強して立派なお医者さまになっていれば、お嬢さんの求婚者に名乗りを上げられたかもしれないのに。信心もないのに神父なんかになるから、みすみす他の男に取られっちまうのよ」
「だから言ってるだろう、ぼくは別に……」
「なにも手荒な真似をしてお嬢さんを試さなくても、自分の本心に正直になれば、きっと手に入ったでしょうに。よけいな意地を張るから、大事なものを失うんだわ。あとで気付いて後悔しても、もう後の祭りよ」
そうピシャリとのしてやったら、Sさんはしばらく呆然としていたわ。
あんなにふてぶてしかった態度も、すっかり見る影をなくしてしまったくらい。酔いなんていっぺんに覚めたんじゃないかしら。
最後にね、こう言ってやったわ。
「そんなやり方でしか愛情を確かめられないなんて、可哀想な人」
ってね。
そうそう、Sさんは帰り際にね、あたしに店が引けたあと空いてるか聞いてきたの。
正直、あきれ返ったわね。
あんな話をしておいて、どうぞどうぞと寝床へ迎える女なんているわけないじゃないの……ネエ。
当然お断りしたわ。
「あたしは
って付け加えると、彼は子どもみたいにふくれっ面で帰っていったわ。
……ひと晩くらいは、過ぎた恋に胸を痛める夜があってもいいんじゃないかしら。
ネエ、そう思わない?
……はい、このお話はこれで終わり。
どう、いかがだったかしら?
……なかなかだったって? すこし前のラヂオ朗読みたいで面白かった?
お褒めにあずかり光栄だわ。ホホホホホ。
……え、彼はその後どうしたって?
たしか帰り際に、しばらく日本を離れるとか言ってたっけ。なんでも、教会の用事でイタリヤの本部へ行かなきゃらならないって……。
神父さんも招集されるのかしら。あたしにはよくわからないわ。
ま、どちらにせよSさんはいい死に方はしないでしょうよ。
神さまを隠れ蓑にして、やりたい放題なんですもの。遅かれ早かれ、罰が当たるわね。
アラヤダ、あたしも酔っちまったかしら。
今夜は口が軽くっていけないわ。
ホホホホホ……。
さ、貴方ももっとお飲みなさいな。
夜は長いんだからさァ……。
ラファエルの憂鬱 杉浦絵里衣 @erii_magaki
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