終章  ─天国は待ってくれる─

 手帳には、その後の神父とのたび重なる情事が赤裸々に記されていた。

 あいだの数ページがきれいに切り取られ飛んでいたが、続きで卒業と同時に顔も見たことのない婿養子を迎えさせられ、ほどなくして月足らずの子どもを生んだことが書かれてあった。

 本文は、

『わたしの生涯をかけた恋は、こうして終わりました。わたしとあの方がはたらいた大罪は、けっして許されるべきものではなく、なにがあろうと隠し通さねばなりません。ですがわたしには、どうしてもあの方を忘れることができません。そして思い悩んだ末、こうしてすべての罪を手記に残し、せめてもの心の救いにすることにしました。わたしはきっと、天国へは行けないでしょう。過ぎ去りし恋の大罪を抱いて、すべてに口を閉ざして、わたしは残された人生を生きていくことにします』

という文で締めくくられていた。

 残されたページをさらに繰っていくと、最後のページから一葉いちようの写真が落ちた。

 拾い上げて見てみると、そこには神父服をまとった青年が映っていた。

 隠し撮りではなく、おそらく正規の紹介用写真か何かの焼き増しだろう。カメラ目線で微笑んでいる。

 その写真を手に取りしげしげと眺めたわたしは、きょう何度目かのため息をついた。

 古ぼけた写真ですらはっきりわかるほど、目鼻立ちの整った顔。細身で繊細そうな肩の線。レトロな銀縁眼鏡が知的な雰囲気を醸し出している。

 なるほど、たしかに浮世離れした美青年だ。

 摩乃少女が大天使ラファエルに例えたのも無理はない。

 しかし手記を読んでしまったあとでは、この美しい顔にもなにやら邪念が潜んでいそうに思える。

 それでもなお、目が離せないのはなぜか。

 これこそが、彼の魅力の所以だろうか。




 読み終わってしばらくしても、あまりにショッキングな内容に、わたしの思考回路はなかなか元に戻らなかった。

 貞淑で敬虔なカトリック信者だったというお姑さんが、こんなスキャンダルを抱えていたなんて。

 彼女は、摩乃は悩み苦しんだのだろう。

 聖職者たる神父との道ならぬ恋に溺れ、めくるめく性に陶酔し、そして意に添わぬ相手と結婚させられることを。

 誰にも打ち明けられない恋を、彼女は告解よろしくこうして手記にしたため、ひっそりと隠していたに違いない。

 わたしはあらためて、読んでしまったことを後悔した。

 しかしすぐに、この手記を見つけたのが自分でよかったのだと思い直した。

 叔母はこの手帳の存在を知らないはずだ。叔母だけじゃない、おそらく当人以外の誰も知らなかったろう。

 ならば赤の他人である自分が発見したほうが、よけいな波風は立たずに済んだはずである。

 わたしは手帳を見つめた。

 このまま、元の場所にしまってなに食わぬ顔で帰ろうか。

 しかしそうすれば、遅かれ早かれ家人に見つかるだろう。書庫の大整理でもすれば、こんな大きな箱はすぐ掘り起こされるに決まっている。

 日の目を見れば、きっと混乱を招く。

 教会と信徒の信頼を受けていた摩乃は、一転して神父を誘惑した淫婦だとさげすまれる。たとえ彼女に他意がなく、甘い恋を夢見ただけに過ぎないとしても、結果的にはそう捉えられても仕方がない。現役の神父である従兄弟の身にも、必ずやその災いは降りかかるだろう。

 このなんの変哲もない手帳は、いまや橘家の平穏を揺るがす時限爆弾だった。

 わたしは長い時間かけて考え抜いた末、この手帳をひそかに始末することにした。

 始末といっても独断で処分するのではなく、適当に口実を作って摩乃のお墓を教えてもらい、そこに埋めてしまおうと考えたのだ。

 きっと、その方が彼女も安心するに違いない。

 須賀神父からも「墓場まで持って行きなさい」と言われていたのだから。




 十数冊の書物と缶箱を手に応接室へ戻ってきたとき、叔母はわずかに驚いた顔を見せた。

「どうしたの、椿ちゃん。ずいぶん疲れたようすね」

「え、ええ……。たくさん本があって、ついはしゃいでしまいました」

 どうやらわたしは、かなりげっそりしていたらしい。よく分からない言い訳をしてごまかすと、叔母は首をひねるもそれ以上深くは追求してこなかった。

「この本、お借りしていっていいでしょうか? あと、これも貴重な資料になりそうなんで、叔母さまさえよろしければ、執筆の間だけお借りしたいんですが……」

 そう言いながら、箱のふたを開けてアルバムや聖書なんかを見せた。例の手帳は念のため、自分のかばんの中へ移動させてある。

「あら、こんなのがあったのね。いいわよ、どうぞ持って行って」

「ありがとうございます、叔母さま」

「お役に立ててなによりだわ」

 そう無邪気に微笑む叔母に、わたしは強い罪悪感を抱いた。

 第三者のわたしが、あなたたち家族も知らない秘密を知ってしまった。

 そしてその秘密を、黙って持ち出そうとしている。

 ──ごめんなさい、叔母さま

 手帳を開いたときと同じように、胸の中で詫びた。

 そんなわたしの気持ちを露ほども知らない叔母は、新しく淹れた紅茶を勧めてくれた。

 そして、

「そうそう、椿ちゃん。さっき息子に連絡しておいたから、ついでに教会の取材もしてきたらどうかしら」

と、いきなり言った。

「え?」

「あの子の勤める教会はね、ここからすぐ近くなの。お義母さまが洗礼を受けられた教会ということで、特別熱心に通ってらしたところなのよ」

 摩乃少女が夏休みに洗礼を受けたという教会か。

 わたしはすぐに思い当たったが、さも初耳のようにとぼけ、ついでにたずねてみた。

「へえ、この近くですか。もしかして、お姑さんのお墓もそこにあるんですか?」

「ええ。と言っても教会の地下にある納骨堂だけどね。橘家の代々のお墓は別にあるから、分骨して収めてるの。珍しいでしょ、お墓がふたつある方なのよ」

 お墓事情は、どこの家庭にでもある。

 歴史は浅くとも名家なだけあって、どうやら一般庶民よりは複雑なようだ。

「とても歴史のあるきれいな教会なのよ。わたしは信者じゃないけど、あの教会は好きだわ」

「じゃあ、お言葉に甘えて寄らせていただきます」

「あと十五分もすれば迎えが来るから、一緒に行ってらっしゃいな」

 ずいぶん手回しがいいというか、なんというか。わたしは少々あきれた。

 もしこのあと急ぎの予定でも入っていれば、どうするつもりだったんだろう。

 まあ実際は予定もないし、どっちにしろ教会の資料は必要だと思ってたから渡りに船なんだけど。

「息子さん、たしかわたしとそう歳は変わらないですよね」

「そうね、今年で二十八になったの」

 ふたつも歳下だ。

 わたしは我が年齢を省みて、やるせなくなった。

「大学を出てすぐ神学校に入り直したから、神父さんの中でもかなり若い方じゃないかしら。まだ新米よ」

 新米神父、か。

 あの須賀神父も、手記と写真を見る限りそれくらいの歳だったっけ。

 奇妙な巡り合わせである。

 須賀神父といえば、切り取られた手帳の部分には、なにが記されていたのだろう。

 切り取ったのは、摩乃本人のはずだ。

 なにか理由があって、いったん書き入れたページを削除したに違いない。

「あの子はねえ……。へんな話だけど、本当にお義母さまに可愛がられたのよ。小さい頃の主人もずいぶん可愛がられたみたいだけど、あの子が生まれてからはそれに輪をかけた溺愛ぶりでね、長ずるにつれますます手許に置きたがられたわ。主人にもわたしにもあまり似ていないんだけど、そんなことはまったく気にかけないほどでね。いくら初孫だからってちょっと異常なくらいよ」

「はあ……」

 叔母の愚痴が復活した。

 書庫に入る前にお姑さんの話をした時いやな顔をしたのは、どうやらこのことを思い出したかららしい。

「おかげですっかりおばあちゃん子になっちゃって。そのせいで神父さんになったのよね。まあすぐ近くに住んでるし、お義母さまが亡くなっても変わらず顔を見せに来てくれるからいいけども」

「なるほど、神父さんになったのはおばあさんの影響だったんですね」

「そうよ。でもお義母さまったらひどいのよ。ちょっと聞いてくれる?」

「はあ……」

「いつだったかしら、たしか息子が神学校へ入った年だと思うんだけど、お義母さまの独り言を偶然聞いてしまったの。『あの子も神父になるのか。血は争えない、隔世遺伝というやつかしらね』って。どういう意味ですかってわたしたずねたんだけど、知らんぷりしてそれ以上なにもおっしゃらなかったのよ。その後しばらくして亡くなられたから、けっきょく詳しくは聞けなかったんだけど」

「隔世遺伝、ですか」

「ひどいと思わない? たしかにわたしも主人も信者じゃないわよ。まるでわたしたち夫婦をすっ飛ばして、お義母さまの血をダイレクトに引いてるって言ってるみたいだし、あてつけもいいところだわ。こんな失礼な話ないわよ、まったく」

 話しているうちに叔母は興奮してきたらしく、乱暴にカップをソーサーに置いた。マイセンらしき豪華な茶器が、甲高い悲鳴を上げる。

 まあまあ、となだめながらも、わたしは違和感がぬぐえないでいた。

 お姑さんは、本当に叔母の言うようなつもりだったのか。

 わざわざ『隔世遺伝』と断言する意図はなんだろう。実際に腹を痛めて産んだ息子よりも、孫のほうが自分に似ていると言いたいのか。

 落ち着かない。

 背筋をざわざわしたものが這い回るような、感触。

 いや、待てよ。

 なにもお姑さんとは限らない。

 孫にとっての祖父、つまり自分の伴侶に似ていると言いたかった可能性だってあるじゃないか。

 『あの子も神父になるのか、血は争えない』とは。

 あの子『も』──?

 切り取られた手帳。

 大事なことを書きかけて、途中で破いてしまったのだろうか。

 もしかしたら、あの部分にさらに秘密があるのでは──。

 ちょうどそのとき、玄関のチャイムが鳴った。

「あら、着いたみたいね」

 それまで憤慨していた叔母は急にご機嫌が直り、いそいそと立ち上がった。わたしもあわてて残った紅茶を飲み干してから後を追う。

 廊下に出ると、玄関の三和土た た きに誰か立っていた。叔母がその前にふさがっているので、顔までは見えない。

 叔母の声に混じり、よく通る若い男性の声が聞こえてきた。

 どうやら、まだ見ぬ従兄弟の声らしい。

 なかなかいい声。けっこう好みかも。

「急に呼び出して悪かったわね。きょうはミサだったんじゃないの」

「いや、午前中で終わったからいいよ。それより椿さんが来てるって?」

「ええ、白川の椿ちゃんよ。あんたはまだ会ったことなかったかしら」

「初顔合わせだよ。緊張するな」

 若干よそよそしい気もするが、ごくありふれた親子の会話である。

 普通なら端で聞いているほうもなごむのだろうが、なぜかわたしは胸騒ぎがした。

 初めて聞くはずの声なのに、そんな気がしない。

 なぜだろう。

 廊下に突っ立ったままのわたしを、叔母は振り向いて手招きした。

「ああ、椿ちゃん。いらっしゃいな、紹介するわ」

 わたしが近づくと、叔母は少し身体をずらした。

 三和土に立っている人の顔が、見えた。

「初めまして、橘 聖騎まさきです」

 そう言って微笑んだ彼の顔をまともに見、わたしはようやく悟ったのだ。

 ──ああ、そうか。『大罪』というのは、こういうことだったんだ……

 そこには、あの写真とうり二つの、美貌の青年神父が立っていた。



END

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