五  ─ラファエルの素顔、目覚めた小悪魔─

 どれほど時間が経ったでしょう、いつしか嵐は止んでいました。

 わたしの身体を解放した神父さまは、先に告解室を出て行きました。開け放した扉の向こうで、彼がどこからか煙草を取り出し祭壇から火を移しているのが、涙でかすんだ目に映りました。

 ふと、背を向けていた神父さまが、こちらを振り向きました。

 煙草をくわえたまま口の端を上げ、

「いつまでそうしてるつもりだい?」

と、言い放つのです。

 わたしは答えず、無言でのろのろと告解室から這い出ました。

 にぶい痛みが下肢を苛み、とてもじゃありませんが立つことなどできないからです。

 床にへたり込んで乱暴にあばかれた衣服を整えようとすると、神父さまはわたしの手をつかんで無理やり立たせました。

 恐怖のあまり身をすくめるわたしに、

「手荒い真似をしてすまなかったね。処女は初めてだったし、色事も久々なもんだから、つい加減を見誤ってしまった」

そうぬけぬけと言いながら、彼はわたしを軽々と抱き上げて長椅子の上に横たわらせました。そして煙草を床に吐き捨て靴底で消してから、もう抵抗する気力もない身体を組み伏せ、ふたたび挑んできたのです。

 最初は嫌悪を抱いたのですが、先ほどとは打って変わったやさしく的確な愛撫に、信じられないことにわたしの肉体は反応を返しました。未知の感覚を引きずり出され、困惑しつつもはしたない声を上げてしまいました。

 つい数時間前まで純潔だったわたしには、自分の身体の裏切りを受け止められずにいました。

 いまや司祭の格好をしただけに過ぎないひとりの男は、愛撫の手を止めてこうささやきました。

「訴え出ようなんて馬鹿な考えは起こさない方がいい。仮に訴えたとしても、無駄なことだ。きみがぼくを追い回していたのは、学校中に知れ渡っているからね。逆にきみの方から誘惑したと思われるのがおちだ」

 あれほど恋い焦がれ夢にまで見た、真面目で純情そうな印象は、もはや跡形もありません。

 今の神父さまは酷薄そうな笑みをつくり、淫蕩いんとうそのものの雰囲気を放っていました。

 こんなことがしたかったわけではない。

 おだやかで高潔なあなたが好きだったのに、どうしてこんなことになったのだろう。

 そうして、わたしはここに書くのも憚られるような淫らな行為を受け、初めて味わう悦楽と絶望に翻弄されたのち、もういちど彼を受け入れました。

 そう、受け入れたのです。

 身も心も、すべて。




「きみはいつか、ぼくの過去についてたずねてきたね」

 長椅子に身を投げ出したわたしの髪をもてあそびながら、神父さまは言いました。

 初めての肉体的感覚に酩酊めいていしたわたしは、もはや指先ひとつ動かすこともかなわぬほど力尽きていましたが、それでもなんとかかすかに顎を上下させました。

「教えてあげよう。ぼくが帝大を中退しなくてはいけなくなった、本当の理由をね」

 そう前置きして話し出した彼のことばは、とうていわたしの理解を超えた内容でした。

「ぼくはきみが考えているほど優秀で清潔な人間ではない。たしかに勉学はそこそこ出来たが、それ以上にどうしようもないほど自堕落でね、こと女にかけては自分でもあきれるくらい節操がなかった。毎晩のように銀座に繰り出してはカフェーの女給と浮き名を流したり、人妻を陥落させては仲間とその人数を競ったり、芸者を呼んで乱痴気らんち き 騒ぎをやらかしたり、それこそ放蕩の限りを尽くしたものだった」

 まるでミサの説教のように平静な顔で話す神父さまを、わたしは呆然と見上げました。

 戸惑いの視線を受けた彼は、ふっと笑って続けました。

「そんなぼくに、父は辛抱強く何度も更正をうながしたよ。でも喉元過ぎればというやつで、すぐにまた女遊びをはじめる。そのうちだんだん乱行もエスカレートしていって、やれはらんだだの心中するだの財産を寄こせだの、何人もが家にまで押しかけてきた。そして二年生のある日、とうとう父の堪忍袋の緒が切れてね。ぼくを強引に中退させ、その足で厳しいことで有名だった神学校へ放り込んだ。ちょうど大震災直後で神学校も混乱していた時期だったから、洗礼も受けていなかったぼくでも裏金を積めばあっさりと入学を許可された。そして、今に至るというわけだ」

 これが、わたしのあこがれた神父さまの素顔なのです。

 まるで大天使ラファエルどころか、堕天使ではありませんか。

 しかし、今になって冷静に振り返ると、これはわたしの自業自得でしょう。

 なぜなら、わたしが勝手に彼を聖人君子だと思いこみ、ひとりで熱を上げたからです。

 彼は自分の立場を考慮し、一度は押し留めさえした。

 それなのに恋に狂ったおろかな小娘は制止も聞かず、男性の暗部を知らぬまま踏み込んではいけない領域にまで足を突っ込んでしまったのです。言うなれば、立入禁止の札を無視して危険地帯に入ったと同じです。

 たしかに暴力で女をねじ伏せるやり口は犯罪ですが、それでも彼だけを責め立てるのは、お門違いなのかもしれません。

 わたしが警告を素直に受け取り、少女らしく尊敬とあこがれの眼差しを注いでいれば、このような悲劇は起こらなかったはずなのです。

 しかし当時の若いわたしは、破瓜は かを強いられた痛みと恐怖で、ただただ震えるばかりでした。

 またもや泣き出したわたしに、神父さまはややうんざりした声で言いました。

「さあ。あまり遅くなると寮監りょうかんが不審がるから、もう帰りなさい」

 わたしは身を起こし、おずおずと彼を見上げました。

 神父さまは慰めの言葉ひとつもかけず、ぞんざいな手つきで開いたスータンの胸元に風を送っていました。

 なぜか急に、恐ろしくなりました。

 陵辱の恐怖ではありません。彼の冷たい態度が、ひどく恐ろしかったのです。

 それまで泣いていたことも忘れ、かすれた声でたずねました。

「……また、来てもいいですか」

 わたしは、自分で自分の言葉に耳を疑いました。

 あれほどひどい侮辱を受けたというのに、痛みと悲しみが全身を支配しているというのに、どうしてこんなにも愚かしく、未練がましい言葉が吐けるのでしょう。にわかには信じられませんでした。

 しかし、それよりもなによりも、わたしは神父さまに嫌われるのが怖かった。

 もしかしたら、彼だって少しくらいは愛しく想っていてくれたかも。

 もとは優秀な彼のこと、聖職を辞しても過去を隠しておきさえすれば、両親に紹介するにふさわしい男性なのだ。

 そう、わたしはこの期に及んでなお、彼の真心に、誠実さに期待したのです。

 この時代、とくに若い娘の婚前交渉は御法度とされていました。

 男性と通じたからには、その相手と結婚するしかありません。そう教育されていたのです。

 そのためわたしが求婚を望むことは、ごく当たり前のことでした。

 しかし意に反して、神父さまの言葉は無情きわまりないものでした。

「だめだ。人目があるし、来るんじゃない」

「そんな……」

「忘れることだ。どうせ卒業すればすぐ結婚するんだろう、若さゆえの過ちと割り切って墓場まで持って行くんだな。ぼくも職を失うのはごめんだし、もう話しかけないでくれたまえ」

 なんということでしょう、彼の側ではわたしと結婚する気などさらさらないのです。

 わたしは逆上し、乱れた衣服のまま神父さまの腰に取りすがりました。

「いやです、神父さま。わたしを見捨てないで!」

 わたしを見下ろす神父さまの目は、ひどく冷ややかでした。

 美しい眉間には「やっかいな女だ」とでも言いたげな苛立ちがありありと浮かんでいます。

 どこか遠いところから、かすかに鐘の音が聞こえてきました。

 聖堂の鐘ではない、もっともっとせわしない音。

 しかしそんなことはいっさい気にせず、わたしは彼に捨てられたくない一心で泣きわめきました。

「誰にも秘密にします。黙って胸にしまい、お嫁に行きます。ですからどうか、一時でいいから摩乃をおそばに置いてくださいませ!」

 男爵令嬢たる者が、よりによって己を辱めた男にいやしくすがるなんて、もはや矜持きょうじもなにもあったものではありません。

 どうしてそこまで彼に固執したのか、今でも理由はよくわかりません。

 娘らしい一途さでしょうか。

 虚仮こ けにされたまま男に逃げられるのが、我慢ならなかったのでしょうか。

 それとも、眠っていた快楽を目覚めさせられ、肉欲の虜になってしまったのでしょうか。

 ただひとつ言えること、それは理性的に説明がつかない、ということだけ。

 ややあって神父さまは膝を折り、泣きじゃくるわたしに顔を近づけました。

 そして涙に濡れたわたしの頬をやさしく拭い、一転してにこやかに微笑んだのです。

 切ないほど恋い焦がれあこがれた、あの慈愛に満ちた笑顔です。

 ああ、やはり。

 やはりこの方は、美しい。

 しかしこの美貌は天使ではなく、悪魔的な、邪悪なものなのです。

「摩乃、きみは可愛いね」

「神父さま……」

「きみのように可愛い娘に想われて、ぼくは果報者だ」

 たったひと言で、わたしの全身は飴細工のようにとろけました。

 心臓が早鐘を打ち、触れられた頬が熱くなり、耳の奥で血潮がどくどくとほとばしりました。

 そんなわたしのようすを黙ってみていた神父さまは、両肩をつかんでこう言いました。

「これからも、秘密にできるかい?」

 わたしは間髪入れず、がくがくと何度もうなずきました。

 すると神父さまはふたたび微笑み、

「ならば、時々ここへおいで。誰にも見つかるんじゃないよ。そうすれば、うんと可愛がってあげよう」

と言って、軽く接吻されました。

 恋の歓びにうち震えるわたしの頭の奥で、依然としてかすかな音が鳴っていました。

 警鐘です。

 これ以上、神父さまに深入りしてはいけない。

 踏み込めば、きっとわたしは破滅する。

 わかっていました。

 彼はわたしを愛しているわけではなく、ただ慰みものにするつもりだということは。

 それでもわたしは、彼から逃れられないでいました。

 否、自分から進んで求め、すがり、情けを欲しました。

 この、美しい天使の姿をした悪魔のような方に』

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