四  ─最初に神を裏切ったのは、誰?─

 九月の終わり頃、大きな台風が東京方面へ上陸しました。

 空は今にも落ちてきそうに暗く、木々は吹きすさぶ暴風に悲鳴を上げておりました。そんな悪天候でしたから、先生方は授業が終わったあと速やかに寮へ戻るよう言いつけ、級友たちはその通り戻っていきました。課外活動もお休みで、校内はしんと静まりかえっていました。

 きょうなら、誰にも邪魔はされない。

 わたしはそう確信し、ひと月の間足を遠ざけていた聖堂へと向かいました。

 重い扉を開けると、いつものごとく神父さまがいらっしゃいました。強風に吹かれ髪が乱れたわたしを見、彼はおどろいて「危ないですから、寮へ帰りなさい」と諭しました。

 しかし、わたしは聞く耳など持ちません。

 せっかく、神父さまとふたりでいられるのです。こんな好機、めったにありません。

 しばらく息を整えてから、意を決して切り出しました。

「きょう、告解こっかいがしたいのです。いけませんか」

「いけなくはないですが、台風が接近していて危ないですよ。なにもこんな日に……」

「いいえ、きょうがいいのです。きょうなら誰も来ないから。神父さまにだけ聞いてほしいのです」

 食い下がるわたしに根負けしたのか、神父さまは長椅子に腰掛けました。

 簡単な告解ならば、こうして隣同士で座って話をするのが一般的なのですが、

「面と向かっては言いにくいことなので、告解室へ入らせてください」

と、お願いしました。

 神父さまはなにやら重大な秘密を打ち明けられるのか、と言いたげな困惑の表情を浮かべ、それでもわたしの言うとおり、聖堂の隅に設置された告解室へと入れてくれました。

 告解室は、人ひとりがやっと入れるくらいの小さなボックスです。真ん中を格子で隔て、片側に司祭、もう片側に悔悛かいしゅんする信徒。わたしは扉を閉め、ひざまずき台に膝をつけました。

 格子の向こうから、神父さまの声が聞こえました。

「回心を呼びかけておられる主のお声に心を開き、慈しみを信頼して、あなたの罪を告白してください」

 わたしは両手を合わせ、答えました。

「父と子と聖霊の名において、アーメン」

 ここまではよかったのです。

 肝心の罪の告白となると、さすがに緊張してしまいました。

 言うべきか、言わざるべきか。

 悩まずとも、打ち明けるべきことではありません。

 それでもわたしは、どうしても我慢がならなかったのです。

 恋に狂い、我を忘れたあわれなわたしは、この先どうなるかなど考えもしませんでした。 

「天にまします我らが父よ、おゆるしください。わたしは、罪を犯してしまいました」

「どのような罪ですか」

 なにも知らない神父さまが、促します。

 わたしはまず、最初の罪を告白しました。

「ひとつは、嘘をつきました。心臓の発作という、ありもしない病気を騙りました」

「…………」

 格子の向こうは無言です。

 きっと、心配したことを無駄に思い、怒っているに違いありません。

 ですがわたしの予想ははずれ、神父さまは変わらず穏やかな声で続けました。

「ほかには。もう終わりですか」

「…………」

「主の御前で、隠しごとは無用です。主はいつでも見ておられます。さあ」

 あくまで優しく導いて下さる神父さまの声に、わたしの心は揺れました。

 言うべきことではない。

 言えばきっと、このかたは苦悩する。

 悩み、苦しみ、そしてわたしは遠ざけられるだろう。

 自分勝手なのはわかっている。

 それでも、黙っているのは、もうできない。 

 さんざ迷った末、わたしは重い口を開きました。

「心臓の病気ではありませんが、胸が苦しかったのは事実です。なぜなら……」

 いったん切り、唇を噛みました。

 たっぷり三回は深呼吸をし、続けました。

「好きな方がいるからです。その方のことを考えると、胸が苦しくて眠れないほどです」

 口にした瞬間、わたしの全身をこの上ない情熱が駆けめぐりました。

 でもまだです。

 まだ、すべてを打ち明けたわけではないのです。

 なにも知らない神父さまは、笑いをこらえたような声で言いました。

 きっと、少女小説にあこがれる、夢見がちな若い娘だと感じたのでしょう。

「それは罪ではありませんよ。人を愛することはすばらしいことです」

「いいえ、赦されないお方なのです。決して愛してはいけない、愛するだけで罪になる。そんなお方なのです」

「…………」

 またもや、無言。

 この無言が、どれほどつらかったでしょう。

 いつしか重圧となって、格子の向こうからわたしを圧倒してきました。

 さしもの神父さまも、わたしのただならぬようすに気が付いたのでしょう。それ以上急かすことなく、黙っていました。

 言わなければ。

 わたしは目を閉じ、肺腑はいふから息を絞り出しました。

「わたしがお慕いしているのは──神父さま、あなたです」

 いっしゅん、格子の向こうで息を呑む気配を感じました。つづいて、がたんという物音もしました。

 その音とほぼかぶさるように、聖堂の屋根を打つ激しい雨音が聞こえてきました。

 とうとう降ってきたようです。

 ややあって、しごく冷静な声がしました。

「……からかってはいけません。あなたはそういう遊びが好きなんですね。ぼくを困らせて楽しんでいるのでしょう」

「いいえ、違います!」

 わたしは思わず語気を強めました。

「本当に、お慕いしているんです。たしかに、最初はちょっとしたいたずらのつもりでした。ですが、今ではもうあなたのことしか考えられないのです」

「よしなさい!」

 神父さまの予想外の叱咤しったに、わたしは全身をこわばらせました。

 彼は押し殺した声で、こう言いました。初めて聞く、男性らしい声です。

「よく聞きなさい。あなたのそれは本当の恋ではありません。ただもっとも手近にいたぼくを、戯れの恋人に仮想した。相手のこともよく知らずにそんな風に思いこむのは、非常に危険なことです」

「違います、戯れなどではありません!」

 誰も見ていないのに、必死になってかぶりを振りました。

 すさまじい雨音に負けじと、大声で言いました。

「いけないことだと承知しております。ですが、どうしても抑えられないんです。誰にも打ち明けません、ご迷惑もおかけしません。罰も甘んじて受けます。ですから、どうか……」

 もはや、自分でもなにを言っているのかわかりません。 

 ただただ子どものように、自分の主張を一方的に叫んでいるだけ。

 こんなものが果たして恋の告白と言えるのでしょうか。

 神父さまは黙り込みました。

 長い長い、沈黙。

 わたしには永劫にも等しい時間でした。

 狭い告解室には、豪雨の音だけが満ちていました。

 やがて神父さまは、重い口調で言いました。

「……あなたは神父であるこのぼくに、なにを期待しているのですか」

「え……」

「恋を打ち明け、その後はいったいどうして欲しいと言いたいのですか」

「どう……と言われても……」

 わたしは答えに窮しました。

 しどろもどろになり、そう答えるのがせいいっぱいでした。

 具体的にどうしたい、などとは、まったく考えていなかったからです。ましてや、期待などとは。

 ただ、神父さまに自分の想いを伝えたい。

 それだけだったのです。

 たしかに、神父さまとの恋が成就する夢は見ました。やさしく抱き寄せられる夢想も抱きました。

 本音では、振り向いて欲しいという願いはあったでしょう。

 ですが現実にはどうしたいのかと言われると、困惑してしまうばかりでした。

 幼いわたしは想いを伝えた後のことなど、考えもしなかったのです。

 なんて向こう見ずで、ばかな話なのでしょう。

 うろたえるわたしにしびれを切らしたのか、神父さまは、

「言えないのですか?」

と、やや厳しい声で先を促しました。

「…………」

 もはや、なにも言えません。

 己の浅はかさ、幼稚さを引きずり出され、目の前に突きつけられた気分です。

 告白したことを後悔すらしました。

 すると突然、格子の向こうでちらちらしていた影が立ち上がり、扉を開けて外へ出てしまったのです。

 わたしは焦りました。

 怒らせてしまった。どうしよう、あとを追って謝罪すべきなのか。

 あわてて立ち上がり外へ出ようとしましたが、それより早く扉が開きました。

 狭い室内に、激しい雨音が一気になだれ込んできました。

「神父さま……」

 夜とも見まごうほどの暗さの中でしたが、神父さまの厳しい顔つきは見て取れます。ずい、と片足を踏み込み、右手をわたしの方へのばしました。

 とっさに「殴られる」と萎縮いしゅくし、目を固く閉じました。

 しかし、違ったのです。

 神父さまはわたしの左肩をつかみ、そのまま背後の壁に押しつけました。

 すごい力でした。肩の骨がきしむ音を耳にしたほど。

 あの華奢な身体のどこにこんな腕力が秘められているのか、わたしはすっかり動きを封じられる形になりました。

 彼は続いて後ろ手で告解室の扉を閉めると、おもむろに眼鏡を外し、スータンの胸ポケットへしまいました。

 そして、こうささやいたのです。

「言えないのなら、代わりにぼくが言ってあげよう」

 わたしが答える前に、彼はすばやく唇を重ねてきました。

 整髪剤かなにかでしょうか、かいだことのないにおいが鼻をくすぐりました。

 しかしわたしはそれどころではありません。

 息苦しさに耐えかね顔をずらそうとしましたが、神父さまはそうはさせじとふたたび深く口づけ、舌を差し込んできました。あっという間に絡め取られ、わたしは声にならないうめきを漏らしてしまいました。

 しばらくして、ようやく解放されたのもつかの間、今度は胸のスカーフに手をかけられました。彼は手慣れたようすでスカーフをほどき、ボタンを外していきます。

 わたしは驚いて抵抗しました。

「いや、やめてください!」

「こうして欲しかったんだろう。違うか?」

「そんな……」

「男に愛をねだるなら、こうなることも覚悟しておくんだな」

 神父さまの表情は、暗くてほとんど判別できません。ですが声音は、これまで聞いたことがないような響きを持っていました。

 いつもの、慈愛に満ちたやさしい声ではなく、ぞっとするような低い声。

 これが、わたしの恋した神父さまでしょうか。

 なにがなんだか、もはや理解の範疇はんちゅうを超えていました。

 呆然としている間に、神父さまは造作もなく制服をひらき、身体をまさぐりました。

 あのしなやかな指が、やさしい言葉をかけてくれた唇が、別の生き物のようにわたしの肌をはい回り、ひらいてゆくのです。

 どうして、こんなことに。

 こんなこと、考えもしなかった。

 わたしはすっかり混乱し、めちゃめちゃに腕を振り回して狭い告解室で暴れました。しかし、恐ろしいほどの力で壁に抑えつけられ、あっけなく抵抗を封じられました。

 そうして、わたしは立ったまま犯されました。

 何度も叫び、涙を流し、苦痛の悲鳴を上げました。

 しかし濁流のごときすさまじい雨音が、わたしの声をかき消し、目前の男の味方をしたのです。

 わたしは生まれて初めて、神に助けを請いました。

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