三 ─神父の秘密、揺れる小悪魔─
神父さまが赴任してこられてからしばらく経ったある夏の日、わたしは「須賀神父さまは医学の心得があるらしい」という奇妙な噂を耳にしました。
ラファエル修道会はわが校のほかにも、病院や救護院なども運営しているので、てっきりそちらにお勤めだったのかと思ったのですが、どうやら違うようです。詳しく聞くと、体操の授業中に足を
わたしは意外な気がしました。
正直な話、生真面目でお堅い修道者である神父さまは、神に仕えることしか能のない方だと思っていました。だって、女性教員やシスターたちの噂話などにはいっさい加わらず、毎日授業が終われば聖堂にこもってお祈りばかりしているのですもの。そう思われても仕方がないでしょう。
そんな神父さまの隠れた才能……というのは変ですが、とにかく意外な一面を聞いたわたしは、さっそくその日の放課後、聖堂へと行きました。
果たせるかな、神父さまはやはりお祈りを捧げていました。わたしが入ってきたことを悟った彼は、お祈りを中断して立ち上がり、なにか用かとたずねました。
「神父さまは、医学の心得があるとお聞きしましたが、本当なんですか」
前置きもせずそう言うと、神父さまは何度かまばたきをしました。
「どこからそれを……」
「生徒の間でずいぶん噂になっていますわ。ね、どうなんですの?」
重ねて訊くと、神父さまはほんの少し
「ええ。神父になる前は、東京帝大の医学部に在籍していました」
と、答えました。
「まあ……」
帝大といえば、当代きっての秀才ばかりが集まる大学で、なかでも医学部は選び抜かれたエリートだけに門戸が開かれていたのです。まさか神父さまがそのような高等教育を受けていただなんて、思いも寄りませんでした。
「では医学生でしたの? すごいわ、優秀だったのね」
「たいしたことはありません。代々医者の家系だから医科を選んだだけですから」
そうして神父さまは、実家が御維新前は某藩の
「あまり人には話したことがないんです。内緒にしておいて下さいね」
照れたように笑う神父さまのようすに、わたしはなにやら動悸が早くなるのを感じました。
元御典医という由緒正しい家系、帝大生という優秀さ、そして恵まれた環境と頭脳を捨ててまで聖職へ入った高潔さは、男爵とはいえ粗野で無学で血筋も卑しい父を持つわたしの劣等感を、あまりにもまばゆく照らしたのです。
それまでの、人がいいだけの宗教ひと筋な青年という印象が大きく変わり、わたしはもっと彼のことが知りたいと思いました。そのとっかかりとして、またもやいつもの悪戯を仕掛けてみたのです。
「ちょうどよかった。最近胸の辺りが苦しいのですが、なにかの病気でしょうか。診て下さいます?」
わたしはそれまで元気いっぱいだったくせに、急にしおらしくため息なんぞをつきながら、こうつぶやいてみました。もちろん、仮病です。
すると神父さまは急に真面目な顔をつくり、
「胸ですか? 具体的にどのような症状でしょう」
と、聞き返してくるのです。
わたしは吹き出したいのを懸命にこらえつつ答えました。
「圧迫感というか、たまにきゅうっと絞られるようになるのです」
「ふうむ……」
考え込む神父さまの表情は、今まで見たことがないくらい真剣で、先ほどにも増して胸がどきどきしてきました。
軽く寄せられた眉は弓形を描き、銀縁眼鏡の奥にある切れ長の目はじっくり観察するとたいへんにまつ毛が長く、なめらかな頬にはむさくるしい髭のあとなどは見受けられません。顎に添えられた指は長くしなやかで、短く整えられた爪は清潔そのものでした。
今になって、わたしは彼の顔をどこで見た気がしたのか、ようやく思い当たりました。
美術の教本に載っていた、天使図です。
その中でも、教団の由来となった『大天使ラファエルとトビアス』の絵に出てくる、癒しを行う輝ける者、大天使ラファエルに、彼はそっくりだったのです。
美しく、気高い天使さま──。
わたしは胸に手を当て、早鐘を打つ心臓を押さえようとしました。
このままでは仮病が本当の病気になってしまいそうなほどです。
そんなわたしのようすを、神父さまはどう捉えたのか、さらにたずねてきました。
「吐き気や咳などはないのですね?」
「ええ」
「もしかすると、狭心症かもしれません。いちど医者へかかった方がいいですね」
そこでわたしは、もう一歩踏み込んだ悪戯を仕掛けました。
長椅子に腰を下ろして鼻にかかった声を出し、
「神父さま、よろしければ診察していただけません? わたし、恐ろしくってなりません」
と言いながら、上目を遣いました。
「診察、ですか」
「はい。もし命に関わるのならば、一刻も早い方がいいですし……」
わたしは制服の前で結んだスカーフをほどきかけました。
「あ、いや。ここではだめですよ」
案の定、神父さまは大あわてでわたしを止めました。見ると、耳まで真っ赤に染まっています。
なんてお可愛らしい、純情なかたなのでしょう。
「じゃあ、どこならいいんですの?」
「場所の問題ではないんです。ここにはろくな医療設備もないですし、問診だけで判断するのは危険です。ぜひ、ふもとの医者にかかりなさい」
「…………」
わたしはとたんに興を削がれました。
本当に診察してもらうつもりなど微塵もありませんでしたから、別にかまわないはずなのです。
しかしその時のわたしは、なぜかひじょうな腹立ちを覚えました。
それはきっと、捻挫した女生徒の手当てはするのに、自分を断る神父さまへの怒りだったのでしょう。
まるで自分が不当な扱いを受けたような、捻挫した女生徒への嫉妬のような、そんな複雑な心境を抱いたのです。
わたしは突然立ち上がり、ぐいっと顎を上げてこう言いました。
「もう治まりましたわ。医者に行かなくても結構です」
「いけませんよ。一時的な発作だと思って放っておくと、やがて心筋梗塞に……」
「平気ですったら。ご心配おかけしました」
心配そうな神父さまをかえりみることなく、わたしはさっさと扉へと向かいました。
外へ出る直前、神父さまは「橘さん。もし次に発作が起きたら、かならず病院へ行くんですよ」との言葉を投げかけましたが、それも無視しました。
その後、神父さまは顔を合わすたびにわたしの体調を心配し、ようすを聞いてきました。こうなると今さら嘘でしたとは言いにくくなり、発作は起きていないと言い続け、なんとかごまかしました。
いつしか、わたしは神父さまが自分を心配することに、よろこびを覚えていました。
神父さまが、わたしのことを気にかけてくれている。
神父さまの興味を、わたしが独り占めしている。
神父さまが、わたしを特別に思っている。
そう、いつの間にか、わたしは神父さまに恋情を抱いていたのでした。
最初はただ、からかうだけでよかったのです。
健全な男性が小娘に振り回されているのを見るのが、楽しかっただけなのです。
それなのに、いつしか彼に本気で恋するようになっていました。
なんという、大それた、浅ましい感情なのでしょう。
神父さまは神の御使い、文字通り父なるお方。生涯を信仰にささげ、純潔を守り、貞節を旨とするのです。
そのような高潔なる方に対し、わたしは抱いてはならない感情を抱いてしまいました。
このときの苦悩は、とてもここには書き切れません。
しかし、わたしはそれ以上に、大それたことを望みました。
わたしは、己のこの切なる恋情を、神父さまに知ってほしくてたまらなくなったのです。
胸に秘めていようと何度も決意しました。
お姿を見ているだけで満足しようと思いました。
でも、どうにも我慢がならなかったのです。
夜、床につくと、神父さまがあの穏やかな美しい笑みを浮かべ、「摩乃、ぼくもきみを愛しているよ。きみのためなら信仰を捨ててもかまわない」などと、愛の言葉をささやく夢を見ました。目が覚めると、またもや心臓がどきどきと波打ち、そしてすぐ自己嫌悪におそわれました。
また、ミサや神学の授業中、神父さまの言動に見惚れてうつつを抜かすこともしょっちゅうでした。
禁欲的なスータンに包まれたすらりとしたお姿を眺め、あの胸に包まれたらどれほどすばらしいだろう、しなやかな手で髪を撫でられたらどれほどうれしいだろう、そしてあの唇で愛の言葉をささやかれたらどれほど幸せだろう。
そんなことばかりを考えておりました。
そうして、わたしの浅ましい恋情は日に日に狂おしく燃え上がりました。
夏の休暇で寮がいったん閉鎖され、わたしは家へ帰りました。
出迎えてくれた父は、相変わらず粗野で雅さのかけらもありません。家に仕える下男たちもみな黒々と日焼けし所作も乱暴で、優美さとはほど遠い。
男とはみなこんなものか、わたしは失望を隠しきれませんでした。
はやく学校へ戻りたい。そして、あのお優しい神父さまに会いたい。
楽しいはずの学生生活最後の夏休みは、それこそ苦痛ですらありました。
長く苦しいひと月が過ぎ、ふたたび学校へ戻ったわたしがまずしたことは、聖堂へ向かうことでした。
聖堂では想い焦がれたかの人が、敬虔な祈りを捧げていました。
彼はぶしつけな
「やあ、橘さん。ひと月ぶりですね。身体の具合はどうですか」
「ええ。あれから一度も発作は起きていません」
「それはよかった」
目に見えてほっとした表情を浮かべた神父さまに、わたしは意気込んで言いました。
「それより聞いて、神父さま。わたし、洗礼を受けたんです」
「ほう、洗礼を?」
「ええ。夏休みの間に家の近くの教会で。本当は神父さまの手で受けたかったのですけれど」
頬に手を添え、できるだけ情熱を込めるよう言ったつもりだったのですが、彼は笑ってこう聞いただけでした。
「それはおめでとう。洗礼名はなんですか?」
わたしはがっかりしました。
せっかく勇気を出して好意を口にしたのに、あっさりと受け流されてしまったのですから。
「……マリア・マグダレナです」
「いい名前ですね。これからは聖体拝領にもぜひ参加するといい」
そう言ったきり、神父さまは何事もなかったようにまたお祈りに入りました。一緒に祈りますか、と聞かれましたが、わたしは首を振りました。
まだなにか声をかけてくれるかも、という淡い期待を捨てきれないまま、しばらく突っ立って神父さまの背中を見つめていたのですが、そのうち年少の女生徒数人が入ってきて、祈りを捧げたいと言い出しました。
わたしは思わず「邪魔をしないで」と叱りそうになりました。
しかしその前に神父さまは、にこやかに微笑んで彼女らを自分の横にひざまずかせ、ともに祈りだしました。
今や邪魔者は、わたしのほうです。いたたまれなくなり、聖堂を出ました。
ずんずん歩いていくうちに、ひとりでに涙があふれてきました。
あれほど恋い焦がれてきたというのに、神父さまは二言三言話をされただけだった。
洗礼を受ければ喜んでくれると思ったのに、たいした反応を示さなかった。
それどころか、他の生徒を笑顔で迎えわたしを蚊帳の外にした。
こんなひどい仕打ちがあるだろうか。
もちろん、わたしの考えが勝手なことくらい、わかっていました。
それでも、神父さまにとっての一番が自分でないのが、悔しくてたまらなかったのです。
以後も、夏休み前ほどには神父さまはわたしにかまわなくなりました。わたしは、彼にとって「たくさんの生徒の中のひとり」にまで落ちてしまいました。
もはや、身の内に猛る恋の炎は、どうやっても止められません。
眠れぬ夜が続きました。
たまに見かける、女生徒たちと歓談する神父さまの姿を、嫉妬にかられた目で追いました。
気付いてほしくて、笑いかけてほしくて、でも自分からは近寄れずに遠くから見ているだけで。
初めての恋に、わたしはまったく狂ってしまったのです。
恋に狂い、我を忘れた者は、ときに愚かな行動に出てしまいます。
そのときのわたしが、まさしくそうでした。
しかし、あの日のことさえなければ。
あの日が、あのことが、わたしの運命を決定づけたのです。
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