第10話 脳死

「残念ながら──」医師は沈痛な面持ちで首を振った。


 集中治療室のベッドで物々しい機械に囲まれて横たわり、一向に目を覚まさない妻を待って三日が過ぎた。わかるのはただごとではない、ということだけ。


「え? ど、どういうことですか?」俺は前のめりになった。丸椅子の上を尻が滑り、ギッと音を立てた。


「奥様が目を覚ますことは、もうありません」

「嘘、ですよね」

 俺の言葉を否定するように、医師は再び首を振った。音が消え、景色が遠のき、悪い夢の中に引きずり込まれてゆく。


「どういう──ことなんですか?」

「脳死です」

「のうし……」

 意味が分からない。聞いたことがある言葉であるだけに、それを咀嚼そしゃくできない。呑み込むことができない。


「それは、植物状態──ということですか」

「白石さん、脳死と植物状態は全く別のものです。植物状態は脳の一部が生きています。けれど、脳死は脳自体が死んでしまったということです。脳の機能が完全に停止した状態です」


「でも、心臓は動いているんですよね⁉ だったら、目を覚ますことだって──」

「はい、動いています。心臓は脳からの神経経路すべてを断っても活動をすることができます。けれど、生きているとは……」

 じっと見つめた医師の眼鏡に俺のシルエットが映った。食いつかなければならない。この悪夢はくつがえさなければならない。


「助けてください!」

 両手が伸びたが、白衣をつかむことはためらわれた。医師は憐れむように目を伏せた。

「どうか、助けてください」俺は丸椅子から崩れるように降りて、土下座のように深く頭を下げた。


「もう一度言います」医師がすうっと息を吸った。「残念ながら、奥様の脳は機能を停止してしまったのです」


「回復の見込みはないのですか」

 見上げた先の医師が手のひらで丸椅子を指し示した。

「お願いします! 何でもしますから!」

「白石さん、どうか座ってください」

 無理なのか──そんな、馬鹿な──医師に促されるままに立ち上がった俺は、よろよろと椅子に座った。

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