TS侍の鬼退治

毒原春生

TS侍の鬼退治




そこは、山の中に拓かれた道だった。

馬が通れる道幅だけを工面した、後に江戸と呼ばれる時勢では珍しくもない山道。

周囲には木々が生い茂っており、昼であっても薄暗い。すぐ脇の茂みから、いつ山の獣が飛び出してきても不思議ではなかった。

そんな山道に、人が一人、うつ伏せで転がっていた。

否、行き倒れていた。

朱が混じった黒髪を髷にせず、総髪に結い上げている頭。

体躯よりも一回りは大きく見える小袖袴は、上は黒い鹿の子絞りで下は無地の鼠色。薄汚れてはいるものの、仕立ての良さが窺える。

そして腰帯には、一振りの打刀が差してあった。

野盗が居合わせれば、問答無用に追い剥がれていても不思議ではない。

そんな出で立ちの行き倒れだった。

季節は秋。紅葉を迎えた葉は木々を彩り、そうでないものは枯れ葉となって地に落ちる。行き倒れの背にも同じように、落ち葉が降っていた。

「……」

呼吸のために体が上下するくらいで、それ以外ではぴくりとも動かない。前述の理由でまだ事切れていないことはわかるが、自力で動ける気配がない以上は時間の問題だった。野垂れ死にか、野盗が通りかかるか、腹を空かせた獣に嗅ぎつけられるか。

例え運良く野盗や獣に行き遭わなかったとしても、夜が来れば意味がない。

――――夜は、〝鬼〟が出るのだから。

そんな折。山道の先から、竹籠を背負った少年が一人、歩いてきた。

胴体から長い手足が伸びる青年期の体躯に、幼さが残る顔立ちをした少年だった。

力仕事をしているのか筋肉はついているものの栄養が行き届いているとは言い難く、身なりからしても貧しい部類であることがわかる。山の恵みを採ってきた帰りなのか、竹籠の中には山菜や木の実に混じって、布にくるまれた野兎が入っていた。

道の真ん中には行き倒れ。道を進む少年は、必然的にその行き倒れにぶつかることになる。

「……ん?」

人の形をしているものを平然と跨ぐほど豪胆ではなかったため、少年の足は行き倒れを前にして止まる。そして、明らかに行き倒れている者を無下にするほど鬼でもなかった。

「あの…、もしもし?」

地面に膝をつき、声をかけながら行き倒れの肩をそっと揺さぶる。

(お侍にしては華奢だな)

触れた肩口を見てそんな感想を抱きつつ、反応がないのでさらに揺すった。

ほどなくして。

「…んぅ」

小さな呻き声とともに、行き倒れが身じろいだ。

「……っ!?」

想像していたよりも高い声に驚き、少年は思わず手を離した。

そのままの体勢で、眼前の行き倒れをしばし見下ろす。行き倒れはしばらくひくひくと身じろいでいたが、やがてまた動かなくなってしまった。

「……」

少年は逡巡した。得体のしれない行き倒れをどうするか否か。

人目がつかない山道だ。身ぐるみを剥ぎ、道の脇に打ち捨てても神仏以外に見咎めるものはない。行き倒れるものが悪いのだと言い張ってしまえば、良心も痛まない。

しかし、彼は心優しい少年だった。

背負っていた竹籠をいったん下ろすと、先ほど揺すっていた肩に再び手をかける。今度は片方だけではなく両肩を、揺さぶるのではなくしっかりと掴んだ。

そのまま、ぐいっと力を入れて行き倒れの体を引き起こした。


――――たゆんっ


いかにも柔らかそうな動きで、行き倒れの胸が揺れた。

「…ぅっ」

体躯に合っていない小袖を着ているため、白い球体がまろびでそうになっている。半球に至ってはほとんど見えていたので、心優しく純朴な少年は目を背けた。

高い声でおなごではないかと考えてはいたが、さらしも巻いていないのは予想外だった。

注視しないように気をつけつつ、衿を合わせて半球を隠してやる。

(……この人、よくもまあ俺が通りすがるまで無事だったな)

ようやくまっすぐ見ることができるようになった行き倒れをまじまじと見てから、少年は思わずそんなことを思った。

珍しげな色の髪、仕立てのいい着物、打刀、性別。

そして何より、土くれがついていてもなお見惚れそうな容姿。

それらが何一つ欠けることなく行き倒れたままだったのは、奇跡に近い。

神仏はおられるのだなと。

心優しく純朴な少年はそう思うことにし、引き起こした行き倒れを背負った。

むにゅっ、と。

背中に、柔らかいものが当たった。

「…………」

その柔らかいものをできるだけ意識から遠ざけながら、背負い紐を腕に通し、竹籠を正面から抱える。そして、一人で歩いていた時よりゆるやかな歩調で足を進め始めた。

少年の名誉のために補足しておけば、歩みが遅くなったのは人一人分の重さが増え、そこに打刀の重量も加わっているのが理由である。

決して、それ以外の他意はない。



  ***



中央に囲炉裏が置かれた板の間に、味噌の匂いが漂っていた。

火にかけられているのは、野菜の切れ端や山菜を入れた鍋。煮え加減の確認、そしてきのこを入れるために蓋がとられると、匂いはいっそう強くなった。


ぐーぎゅるるるっ


「…………は、はらが、へった」

腹の虫が盛大に鳴くとともに、弱々しい声が上がった。

元行き倒れの女は、匂いに引っ張られるように上体を起こす。

まず女が確かめたのは打刀の有無。これはすぐ脇に置かれていたので簡単に見つかった。

次に周囲を確かめるため、顔を動かす。小さな板の間が目に入った後、片手に蓋、もう片手に木杓子を持って囲炉裏の前に座る少女と目が合った。

年は十を少し越えたくらいだろうか。

顔立ちは年相応に幼く、体躯もまだ小さい。しかし、囲炉裏の傍で汁の煮え具合を確かめている様子は一目見ただけでも不思議と堂に入っていた。

「あ、目が覚めましたか?」

「……ここは?」

屈託なく微笑む少女に、無礼を承知で問いかけを返す。

女の記憶は、空腹で山道を歩いている時で止まっていたからだ。

「ここは私とお兄ちゃんの家です。お姉さんが山道で倒れていたので、お兄ちゃんが連れて帰ってきました」

「それはそれは……面目次第もない。なんとお詫び申し上げれば」

「やめてくださいなお姉さん。大げさですよぉ」

そう言って、女は力が入らない体を動かして土下座しようとする。

そんな女を少女はころころと笑って制した。

「しかし……」

「困った時はお互い様。情けは人のためならずとも言いますでしょう?」

「うむむ」

自分より年若い少女にそう言われ、食い下がれず、かといってすぐに土下座の体勢を止めることもできず、女は困ったように唸る。それだけで女の生真面目さが見て取れた。

「おや。お目覚めになられましたか」

女の唸りに助け舟を出すような間合いで、入り口の方から声が聞こえた。

視線を向ければ、そこには少年が立っていた。手に竹の皮で作った包みを持っており、隙間から獣の肉が覗いている。捌いてきたばかりなのか、わずかな血臭が少年から漂っていた。

少女の話、そして少年の体躯から、女は彼が自分を運んだ人物だろうと察した。土下座しかけていた体勢のまま体の向きを変えると、そのまま深々と頭を下げる。

「此度はこの不肖宗和(そうわ)恭一郎(きょういちろう)が御身にご迷惑をおかけし、大変申し訳なく……」

「お兄ちゃん?」

口上の途中で勢いよく顔を背けた少年に、少女は思わず不思議そうに声をかけた。

つられて、宗和恭一郎と男のような名前を名乗った女も顔だけ上げて少年を見上げる。顔を背けた状態で目は開けていた少年は、その瞬間に目も固く閉じた。

「ひっ、人として当然のことをしたまでのこと! ゆえにっ、そのように頭を下げて謝罪される云われはございませぬゆえ!」

「しかし」

「というか早く体を起こしていただければと!」

「?」

「見えておりますので……!」

頬を赤くして、絞り出すように言う。

懸命な訴えを受け、恭一郎はようやく自分の乳房が露わになりかけていることに気づいた。

「おっと。これはお見苦しいものを……」

年頃の女にしては恥じらう様子もなく、体を起こすと慣れた手つきで衿を正す。

見苦しいものではなかったですがという正直な感想を飲み込める程度には、少年は利口だった。衣擦れの音で目を開けても大丈夫だと判断し、瞼を持ち上げる。

土下座から正座に戻った恭一郎を見て小さく安堵の息をついてから、少女に顔を向けた。

「キヨ、飯はできたか?」

「あとはきのこが煮えるだけよ。お椀を用意するころには食べられると思うわ」

「兎は捌いたけど、どうする」

「お腹がすごく空いている時にお肉はよくないわ。夕餉の時に入れましょう」

そんな兄妹のやりとりの最中、再び恭一郎の腹の虫が大きな声を上げた。

「…ぁぅ」

腹部を押さえて、いたたまれなさそうに縮こまる。そんな姿を見て、兄妹は顔を見合わせてから思わず微笑ましそうに笑みを零した。

「恭一郎さん、まずは食事をしましょう。話はそれからでも遅くはありますまい」

「随分とお腹が空いているようだものね」

「かたじけない……」

うなだれる恭一郎の横を、少年が横切る。

その時、はらりと何かが落ちた。

(…ん?)

落ちていくそれを空中で掴み、しげしげと見る。

それは今の季節にはありえない、色づいた桜の花弁だった。



鍋を囲みながら、少年は清吉(せいきち)、少女はキヨと名乗った。

両親を病気で亡くしてからは、麓近くにある山中の小屋に二人で暮らしている。

過酷な境遇だ。心が荒み、悪事に手を染めてもおかしくない。しかし、兄は行き倒れの恭一郎を助けて、妹は食事を用意してくれた。そんな兄妹の心優しい性根に感嘆しながら、恭一郎はきのこや山菜の出汁がたっぷり出たきのこ汁の味を噛みしめていた。

「五臓六腑に染み渡る……」

「大げさねえ」

「いやいや、大げさなものですか。三日三晩を水だけで過ごした腹に、おキヨ殿の厚意がこもったきのこ汁を入れているのです。心身に染み入りますとも」

「恭さんったらお上手ね」

「こら、キヨ。勝手にそう呼ぶのは恭一郎さんに失礼だろう」

「だって、女の人を恭一郎さんと呼ぶのは違和感があるのだもの」

ねえ、と同意を求めるように小首を傾げる妹に、清吉は困ったように頬を掻く。

妹の気持ちは理解できた。女人、それも恭一郎のように美しい女人を男の名で呼ぶのはいささか抵抗がある。しかし、帯刀した侍に対して妹のように気安くはなれないのも事実。

ひとまず本人の様子を窺おうと視線を向けたところで、想像以上に落ち込んでいる恭一郎の姿が目に留まった。

「も、申し訳ありません恭一郎さん! 妹がとんだ無礼を……!」

「……い、いや、いいのです。今の拙者がおなごに見えてしまうのは、紛れもない事実ゆえ」

慌ててお椀と箸を置き、頭を下げようとする清吉を、恭一郎は弱々しい声で制した。

(?)

恭一郎の言葉に引っかかりを覚え、清吉は思わず首を傾げる。即座に何がとは言えないが、妙なことを言われた気がした。

その正体に自力で気づくより早く、しかし、と強い語気とともに恭一郎が言葉を継いだ。

「これだけは訂正させていただきたい。拙者は、おなごではござらん!」

「は?」

「えっ?」

今度は、兄妹揃って首を傾げた。

「……」

「……」

目の前の人物を、改めてまじまじと見る。

凛々しく整った中に、どこか童女の幼さが残る顔立ち。

体躯より一回り大きい小袖袴を着ているためわかりづらいが、体の線は細く、腰回りはより華奢だ。直した端から布地の重みに負けて開いてしまう衿からは、たくましい胸板ではなく柔らかそうな谷間が覗いている。

どこからどうみても女だった。

急に何を言い出すのかという顔を兄妹がしても、致し方ないことだろう。

しかし、当の恭一郎はそんな反応には慣れたとばかりに話を続けた。

「今は、今は確かに、拙者はおなごの体。お二人が怪訝そうな顔をされるのも当然であろう。しかしこの宗和恭一郎、生まれも育ちも本来はおのこなのです」

「えーっと……。つまり恭一郎さんがおなごなのは、理由があると?」

「そう! そうなのです清吉殿!」

恭一郎の主張を元に、彼女が何を言わんとしているかを推測する。

はたしてそれは的中し、感極まったように恭一郎は清吉ににじり寄った。動きに合わせてゆさゆさと弾む双球から目を逸らすように清吉は顔を背けた。

「じゃあ、なぜ恭さんは女の人になってしまったの?」

理由はわからないが兄が困っていることを察したキヨが、助け船を出すように問いかけた。

実際そこは気になるところだった。恭一郎の主張を是とするなら、一体何が要因なのか。こくこくと首肯する清吉も、半分は妹の疑問に同意する形で首を振っていた。

兄妹からの疑問に答えるべく、恭一郎は居住まいを正した。

「まずお二方は、鬼についてどれだけご存じだろうか?」

――――鬼。

人の似姿を持ちながら人を喰らう、夜のみに跋扈する異形。

日ノ本という国は、古来より鬼という存在に畏怖し、時に抗ってきた。

運良く鬼と邂逅せずに生きている者はその存在に懐疑的なこともあるが、この兄妹はそうではなかった。とある理由から、鬼のことをよく知っていたのもある。

さりとて兄妹は、鬼を調べている者でもなければ、まして戦う者でもない。

どれだけ、と問われても普遍的な特徴しか脳裏に浮かばなかった。

「夜に歩き回る、人食いの化け物よね? お花の匂いが嫌いで、流れる水の中を歩くことができない。大抵の鬼は家主に許してもらえないと家に入れないから、家の周りをうろうろして出てくるのを待つのよね」

「多くは硬い皮膚を持ち、剛力。たまに妖術を使う鬼もいると聞きますが……」

「それです」

「はい?」

「妖術を使う鬼こそが、拙者をこのような姿に変えたのです!」

あの腐れ変態鬼が、と怨嗟に満ちた声で呟く。

全身から怒気が滲み出ており、それは兄妹の肌をピリピリと刺した。

清吉は思わず身を引き、キヨに至っては怯えを顔に浮かべる。怯えた表情になったキヨに気づくと、恭一郎は慌てて怒気を鎮めてこほんと咳払いをした。

「妖術でおなごにされたのが半年前。以来、拙者はその鬼を見つけるべく津々浦々を巡る旅を続けております。ですので、拙者はおなごではありません。恭一郎でも恭でも好きなように呼んでいただいて構いませぬが、拙者がおなごでないことはご留意いただければ」

「はあ……」

清吉はそれしか返せなかった。

男が女に変化させられる。

妖術を使う鬼の存在を知っていてなお、にわかに信じがたい話だ。しかし、元々が男だったと仮定するなら、恭一郎の女らしからぬ無防備さや恥じらいのなさに説明もつく。

今の話をどこまで飲み込むべきか。

頭を悩ませる兄とは対照的に、妹は柔軟に物事を捉えていた。

「鬼と行き遭っただけでも災難なのに、その上呪いだなんて。恭さんも運がないのね」

「こらっ、キヨ」

「構いませぬよ清吉殿。とはいえ、元凶はあの変態鬼とは言えど元々は拙者の未熟さが招いたこと。運のなさだけを理由にはいたしますまい」

運のなさではなく、運のなさだけと言う辺りが、現状に対して恭一郎がどれだけ理不尽を覚えているかを暗に示していた。件の鬼のことを口にした時に再び怒気が滲んだことから、相当腹に据えかねているのも察せられる。

「運の良さというならば、それこそ清吉殿やおキヨ殿のことでしょう」

「ん? 俺達ですか?」

「ええ。麓が近いとはいえ、子供二人で山中に暮らすとは。言い方は悪いでしょうが、いつ鬼の餌食になってもおかしくない。それでも健やかに暮らせているのは実に強運だ。きっと神仏が、お二方の性根の清さに報いておられるのでしょうな」

「ああ」

恭一郎の言わんとしていることを理解し、得心の声を零す。

そして、彼女の考えを訂正すべく言葉を続けた。

「俺達兄妹が暮らしていけるのには、わけがあるんですよ」

「はて。わけとな?」

「ええ。こればっかりは見てもらった方が早いでしょう。飯の途中ですみませんが、ちょっとこちらに来てもらってもいいですか?」

そう言って立ち上がると、清吉は勝手口の方へと足を向けた。キヨも兄に倣って、お椀と箸を置いてから腰上げ、その背についていく。

恭一郎もまた、首を傾げながら兄妹に続く形で立ち上がった。

「こちらです」

勝手口を抜けた少し先で、清吉とキヨが立ち止まる。

それを追いかけるように敷居を跨いだところで、強い存在感を肌で感じた。兄妹に促されるまでもなく、誘われるように顔を上げる。

そして、頭上に広がるものを見て、感嘆の息を零した。

「……おお、これは」

それは、桜だった。

本来なら春の季節に咲くはずの花が、春の日よりも色濃い花弁を咲き誇らせている。

今時分がちょうど、満開の頃合いなのだろう。天に大きく広がった狂い咲きは、圧巻の一言だった。恭一郎はしばし、見入るように空を仰いだ。

惚ける恭一郎の横顔を見て、兄妹はまるで家族が褒められたような誇らしい顔を浮かべた。

「狂い咲きの花を、鬼は特に嫌うようで。おかげでうちは山に家を構えても鬼に襲われませんし、花びらを商うことで生活もできています」

「この桜の花びらはね、不思議となかなかしおれないの。だから炭と一緒に巾着に詰めておくととても長持ちするのよ」

「花のお守りですか。それはまた、風情がある」

武力以外の方法で鬼から身を守るため、人々は様々な知恵を巡らせている。しかし、花弁のお守りというのはその中でもなかなか珍しいものだった。

それを考えついた先人の賢さに感嘆し、兄妹の慎ましい暮らしぶりに感じ入る。

(……やはり、神仏の報いはあるものだな)

そう思いながら、恭一郎は兄妹を見て微笑む。

キヨは不思議そうに首を傾げて、清吉は頬を紅潮させながら気まずそうに目を逸らした。

「あっ、そうだ。これも何かのご縁だし、恭さんには好きな布で巾着を縫いましょうか?」

名案を思いついたとばかりに、キヨは弾んだ声を上げる。

お守りを渡すこと自体は決めていたのが伝わり、その気遣いに恭一郎は思わず感涙を零しそうになった。何しろ三日三晩ろくに飲まず食わずだったので、乾いた大地に水が染みこむかの如く、他者の心優しさは染み入ってきた。元々恭一郎は人の優しさに感じ入りやすい性だったので、なおのこと。

だからこそ、次の言葉を口にするのは申し訳なかった。

「それは拙者には必要がないもの。おキヨ殿のお心遣いだけいただきましょう」

「でも、恭さんは一人旅なのでしょう? 鬼を探しているとは言っていたけど、その道中で他の鬼に行き遭うのは危なくないかしら」

「心配ご無用。それに、鬼を避けていては務めになりませんので」

(……ん?)

そこでふと、清吉は再び引っかかりを覚えた。

今度は先ほどと違い、自力で違和感の正体に辿り着く。

もしや、と。

清吉の中である予想が立てられた。それと同時によぎったのは期待だ。

上ずりそうになる声を押さえながら、清吉は口を開いた。

「恭一郎さん」

「なんでしょうか、清吉殿」

「鬼と浅からぬ因縁がおありのようですが、恭一郎さんはただのお侍なのですか?」

「……やや! これは失敬、名乗りを上げておりませんでした」

大事なことを忘れていたとばかりに、恭一郎は背筋を正した。

そして、誇らしそうに胸に手を置いてから、朗々と喋る始める。

「拙者の名は宗和恭一郎。この身は帝の勅を受けて――」

「清吉、いるかい!」

だがそれは、土間の方から聞こえてきた男の声で見事に遮られた。

「…………」

恭一郎は悲しげな顔になった。

哀愁を漂わせる姿には、小動物の如き愛嬌があった。

この人は本当に男だったのだろうかと清吉が失礼なことを思ったのも束の間、同じ男の声が再び聞こえてくる。我に返った清吉は慌てて立ち上がった。

「すいません恭一郎さん、少々お待ちを」

「承知……」

しょぼくれたまま頷く恭一郎につい微笑ましさを覚えながら、キヨの方を見る。

「キヨ。恭一郎さんのことよろしくな」

「……うん」

「心配するな。兄ちゃんに任せとけ」

不安そうな表情で外を見やる妹に笑いかけてから、土間を抜けて外に出た。

家の外には、麓の村に住む男が数人立っていた。

一様に暗い表情をしており、苛立ちと焦りが混じった雰囲気を漂わせている。その中に一人だけ、腕に怪我を負った男が集団の中にいた。

「……おっ、清吉坊!」

男の一人が出てきた清吉に気づくと、それを契機に男達はいっせいに彼へと歩み寄った。

「なあ清吉よ、やっぱり首を縦に振っちゃあくれねえかい?」

「お前さんらが稼げなくなった分は、俺らの方でなんとかするからよぉ」

「だから、何度も申し上げているじゃないですか」

懇願してくる大人達に困った顔をしながらも、清吉は一貫し続けている主張を口にする。

「俺達兄妹が狂い咲きのおかげで食っていけるってのも、そりゃあありますけど。それ以上にあれは先祖代々引き継いできたものなんです。麓のみんなが困っているのはわかるけど、枝を飾って追っ払える保証もないのに樹を駄目にしちまうわけにはいきません」

「でもよぉ、せめて一本くらいは……」

「その一本を誰の家に飾るかでまた揉めちまうでしょう? 折った分だけ、とれる花びらが減っちまう。あれに助けられているのは麓のみんなだけじゃないんだ。それを考えると、はいいいですよって気軽に頷けないですよ」

「むむむ……」

子供の主張にとられないよう、言葉を選び、語気を押さえて訴えた。

自分達より年若い子供に理路整然と言われて、男達も弱ったように呻いた。清吉の言い分がもっともなことは、かねてより承知していたからだ。

しかし、怪我をした男だけは違った。

眉を吊り上げると、ずかずかと清吉に詰め寄った。

「そりゃあお前さんはいいだろうさ、自分と妹だけは大事ないんだからな!」

「お、おいっ、権六……」

声を荒げる男に、大人げないとばかりに他の男が嗜める。

だが権六と呼ばれた男はそれに耳を貸さず、突きつけるように布を巻いた腕を見せた。軟膏の臭いに混じる錆びた鉄の臭いは、負傷してから時間が経ってないことを伝える。

「昨晩鬼に無理やり押し入られてこのざまよ! 花びらを投げつけて事なきを得たが、今夜もそうとは限らねえ。このまま俺が食われても、樹のためなら仕方ねえってか!」

「それは……」

ここで是と言えるほど、清吉も理詰めだけで物事を考えられない。かといって迂闊に否とも言えず、困惑するように顔を伏せる。

「どうせ自分らの取り分が減るのが惜しいんだろ! 運良く家の近くにある桜が狂い咲いたってだけのくせに、枝の何本分かもケチるとは面の皮が厚くねえかい、清吉よ!」

弱った様子に煽られるように、男はさらに勢いづいた。

「別に切り倒せって言っちゃいねえんだ。枝をいくらか折ったって、麓以外の村が多少困るくらいだろ。ああ、金づるが減るからお前らも困るんだったか? どっちにしたって鬼に襲われた俺には関係のない話だがな!」

怪我の痛みと昨晩の恐怖で気が昂ぶっているのか、心無い言葉を浴びせかける。

先ほどまで大人のように訴えかけていた清吉だったが、あくまでも子供のわがままと受け取られないよう背伸びしてのもの。同い年に比べて大人びた考え方はしているものの、精神自体が老成しているわけではない。

「…っ」

顔を伏せたまま、拳が強く握られる。大人からの強い物言いに、目尻に涙が浮かんだ。

「おいっ、さすがに……」

目ざとく気づいた他の男が、明らかに言いすぎている男を止めようと口を開こうとする。

だが。

「それ以上は聞き捨てならぬな」

それよりも早く、凛とした声が聞こえてきた。

声につられて清吉と男達が顔を動かせば、そこには総髪の女武人、恭一郎が立っていた。

端整な顔が険しく顰められている。元がいいだけに、息を呑むような迫力があった。それに気圧されて押し黙った男に歩み寄ると、清吉を庇うように立ちはだかる。

「鬼祓いのお守りは、効力が弱いものでも高値でやりとりされるものだ。効力がしかとあるのならなおのこと。長年花びらで商っている家が、それをわからぬはずがない」

けれど、と。

兄妹が住む家を一瞥してから、いっそう顔を険しくした。

「見よ、この慎ましやかな暮らしを! 足元を見て高値で売りつけ、贅沢な人生を歩むこともできただろうに、清吉殿は、彼の父上やご祖父はそうしなかった。私腹を肥やすのではなく、桜の恩恵により多くの人が預かれるように配慮した結果であろう!」

「ぐぅ…」

「それをさも浅ましく言う心根、許し難し! それでもおのこか!」

「う、うるさい! よそ者の女が偉そうに……!」

正論をぶつけられ、カッとなった男が恭一郎を打とうと無事な方の腕を振り上げる。

しかし、その手首は他ならぬ恭一郎の手に掴まれた。そのまま手首を返したかと思うと、流れるような動作で男は仰向けに転がされる。

後世にて生まれた武道、合気道の小手返しの如き投げ技。

投げられた男は何が起こったか理解できぬとばかりに目を白黒させ、傍でそれを見ていた清吉達も一瞬のできごとに目を瞬かせた。

「……清吉殿への暴言は許せるものではないが」

技を決めた恭一郎が、そのままの体勢で男の顔を覗き込む。

紡がれた声音は、先ほどまで打って変わって穏やかなものだった。

「鬼に襲われ、負傷した時はさぞ生きた心地がしなかったことであろう。次の夜を恐れて、なりふり構わなくなるのは致し方あるまい。……拙者がこの地に訪れるのがもう少し早ければ、お主にそのような思いをさせずにすんだだろうに」

傷に障らないように注意を払いながら、労る手つきで怪我をした腕を撫でる。

繰り返すが、恭一郎の容貌は思わず見惚れるほど整っている。そんな女人に優しげに労られたものだから、カァッと男の顔が赤く染まった。付け加えるなら、先の投げ技でいっそう開いた衿も男のすぐ眼前にあった。

落ち着かなさそうに、男の視線が左右に揺れる。

似た状況に何度かかち合った清吉は、先ほどまでの暴言を忘れて男に同情した。だが、すぐに恭一郎が看過できないことを言ったことに気づき、我に返る。

「あ、あの、恭一郎さん」

「なんでしょうか、清吉殿」

「恭一郎さんはひょっとして、『鬼斬り』の方ですか?」

『鬼斬り』。

帝の勅命を受け、鬼と戦う者達の総称だ。

出会うこと自体が稀であり、まして女の『鬼斬り』などとんと聞いたこともない。

しかし、恭一郎が『鬼斬り』だとすれば、女一人――己は男だと本人は主張しているが――で旅をしていること、女だてらに帯刀していること、自分に妖術をかけた鬼を躊躇いなく追っていること、鬼を避ける必要がないことと、あらゆることに説明がつく。

「いかにも!」

それなのかと問われ、恭一郎は顔を輝かせながら男の手を離して背筋を伸ばした。

「拙者の名は宗和恭一郎。この身は帝の勅を受けて、鬼を斬るお役目を任された『鬼斬り』にてございます。その証としてこのように」

言いながら衿の片側を掴むと、躊躇いなく裏返した。

「小袖の裏に、『鬼斬り』の身分を示す紋様が刺繍されております」

その言葉通り、黒い小袖の裏地には菊花と月をあしらった刺繍が銀の糸で施されていた。

菊花は帝を象徴する花。気安く意匠として使ってよいものではない。だが逆に言えば、それが意匠として使われていることは帝に認められた立場ということでもある。

もっとも、誰一人それを直視できていないのだが。

「……お、おや? どうして皆、目を背けておられる?」

理由がわからぬ恭一郎は、焦ったように問いかける。

そんな姿に、皆の意見を代弁するように清吉が声を荒げた。

「恭一郎さん! おなごが! そのように! みだりに乳房を晒してはいけません!」

「拙者はおなごではないと申したはずですが!?」

「いいから衿を正してください! 話はそれからです!」

今まで堪えていた分も吐き出すように、ピシャリと言う。その勢いに押されて、恭一郎の両肩は大きく跳ね上がった。



狂い咲きの桜があるためか、元々山や麓の村で鬼が出たという話はなかった。

しかし、一ヶ月前。離れた村まで行商に行っていた村人が鬼に襲われ、ほうほうの体で逃げ延びてきてからというもの、風向きが悪くなった。

鬼は三体。

いずれも花びら守りの効きが悪く、そのため彼らは必然的に村を獲物と定めた。

それでも、鬼の性として家には入ることができない。夜の外出さえ徹底して避ければ、鬼は家の周りを徘徊して脅しつけてくるだけに留まった。

花びらではなく枝を飾れば追いやれるのではないかと、そう考えた村の衆が清吉達のもとを訪ねた。だが、枝なら通じるという保証はない。無闇に手折って桜を弱らせるわけにはいかないと、清吉は彼らの申し出を断った。

村を徘徊するが、家の中に入ってはこない。そのこともあり、村の衆は清吉の言い分を飲んで一度は引き下がったのだ。

だが昨夜、ついに鬼が一体、家に押し入ってきた。

家守の効きづらい強い鬼がいたのだ。

花びら守りの中身をぶちまけることで怪我だけですんだが、同じことが次の夜に起きてもおかしくないことは誰の目にも明らかだった。怪我をした権六が声高に主張したこともあって、再度清吉の元に訪れたのが事の顛末である。

「そういうことなら、この恭一郎めにお任せを」

キヨに留守番を任せ、清吉とともに村で事情を聞き終えた恭一郎は胸を叩いた。

たゆんと胸が揺れるのを、大半は気まずげに目を逸らし、剛の者は凝視した。

「『鬼斬り』の名にかけて、その鬼どもを討ち取ってみせましょう」

「そう言ってくださるならありがたいが、この村にはそれほど蓄えがありませぬ。鬼退治の報酬を十全に支払うことは難しいかと……」

鬼を討つのは、並大抵のことではない。

そのため、『鬼斬り』であろうとそうでなかろうと、鬼退治をした者には相応の報酬を渡すのが暗黙の了解となっている。法外な値をふっかけられた話を聞いたことがある村長は、撤回されないかと冷や冷やしながらも正直に村の事情を口にした。

「心配召されぬな、村長殿」

そんな村長を安心させるように、恭一郎は笑みを浮かべる。

「拙者は清吉殿とおキヨ殿に助けられた身。刀を振るうのは、その恩義に報いるためでもあります。とはいえ、拙者も鬼退治の旅を続ける身。次の村につくまでの路銀や食料はいただきたく思うのですが、よろしいでしょうか?」

「ええ、ええ! それくらいでしたら喜んで!」

見積もりよりも遥かに少ない要求に、思わず声を上げて首肯した。

(欲がないお方だ)

もっとふっかけることもできるだろうにと。自分のことは棚に上げて、清吉は恭一郎の横顔を見つめる。その視線に気づいた恭一郎がちらと清吉に眼差しを向け、小さく笑った。

恥ずかしくなり、つい顔を逸らす。

恭一郎が肩を落とすのがわかったが、だからといって再び見つめることもできない。なるべく意識しないように努めつつ、話に集中することにした。

「……何か、我々が気をつけておくべきことはあるでしょうか?」

村長もまた、甘酸っぱい果実を齧らされた気分になったが、気にせず話を続けた。

「立ち回りがどこまで激しくなるかわかりませぬ。花びら守りをしかと抱えて、家の奥に隠れていただければと。鬼は狡猾。なりふり構わなくなれば人質をとることも辞さないので」

「承知しました。村の者には、そのように」

「皆に危害が及ばぬよう尽力しますが、不測の事態はどうしてもありますゆえ」

恥じ入ることはなく、堂々たる態度で頭を下げる。開き直っているのではなく、自らの力を過信していないのだとその場にいる者は察した。

恭一郎が女性ということもあって、実力に懐疑的なものも少なくはない。そんな中で恭一郎が見せた態度は、かえって彼らの信頼を強めた。これで徹頭徹尾自信に満ち溢れていたら、逆に不安が強くなっていたことだろう。

「後は何か、必要なものなどは? 人手が入り用ならば力自慢が何人かおりますが」

「そうですね……」

二つ目の問いかけには、即答せずにしばし沈黙する。

「?」

ちら、と再び清吉に眼差しを向けた。

真摯な視線の意図が読めず、今度は首を傾げる。そんな清吉をしばし真面目な面立ちで見据えた後、うむ、と心を決めたように頷いた。

「でしたら、清吉殿を傍に置かせてほしいのですが」

「ふむ?」

「お、俺ですかっ?」

恭一郎の言葉に、疑問の声が同時に上がった。

他の男達も、怪訝そうな顔を浮かべている。当然だろう。家の力仕事を一人で担っているため体はある程度育っているが、清吉はまだ子供だ。

荷物になるか、囮に使うかのどちらかしか見えない。

どうするつもりかと皆が怪訝な視線を向ける中で、恭一郎だけが毅然としていた。

「この恭一郎、鬼に苦戦を強いられるかもしれません。その時、清吉殿をおのこと見込んで頼みたいことがあるのです。無論、囮の類いではないのでご安心召されよ」

「……とのことだが、どうする、清吉よ」

「無理強いはいたしませぬ」

「……」

村長の問いかけと恭一郎の言葉に、清吉は腕を組んで思案する。

頷くということは、鬼と対峙するということだ。狂い咲きのおかげで鬼に襲われた経験はないが、鬼祓いのお守りを商っている以上、その恐ろしさを聞くことは多い。

怖くないといえば、嘘になる。最悪の場合、妹を一人残すことになるのだから。

けれど、女人に頼られて奮い立たぬほど清吉も幼くはなかった。

「……わかりました。俺がどれだけお役に立てるかはわかりませんが」

「ありがたい! この宗和恭一郎、必ずやその勇気に応えましょうぞ!」

清吉の返事に破顔しながら、恭一郎は再び胸を叩く。

たぷんと柔らかく弾むものを見て、少しだけ後悔の念がよぎった。



  ***



秋の日は釣瓶落とし。

夕焼けに染まった空は、瞬く間にとっぷりと暮れた。

太陽は沈み、代わりに月が空に浮かぶ。

用事でもない限り、人が出歩くことはない時間。すなわち、鬼の刻限だ。陽の光が当たらぬ場所から這い出てきた異形が、獲物を求めて動き出す。

そんな中、三つの影が麓の村を目指して道を歩いていた。

性は全員男。身なりは裾の短い着物から小袖袴とバラバラで、そこだけ見るとどういう集団か判断ができない。しかし、首から上に目を移せば彼らの正体はすぐに知れた。

本来白いはずの強膜が黒く染まった異形の眼。

頭部から生えるは、鋭く尖った角が二本。

それら、紛うことなく鬼の特徴である。

差はあれど、鬼どもが着る服には赤茶けた血がこびりついている。おぞましい染みは、それらが食らった人間から略奪したものであることを表していた。

彼らが歩くたび、全身に纏わりついた鉄錆の臭いが風に乗って漂った。

「腹が減りましたねえ、緑青(ろくしょう)の兄貴」

ぼやくように言ったのは、先頭を歩く小柄な鬼だ。

腹をさすり、小さく溜息をつく。その鬼の言葉に同意するように、隣を歩く上背の高い鬼が首を縦に振った。ぎゅるるると、腹の虫がやりとりに追従する。

彼らはもう半月、人を食っていない。

鬼は長く空腹を耐えられるが、半月ともなれば我慢にも限界がくる。手が届く位置に食料が大量にあるとなれば、なおのことだった。

「あの不愉快な花の臭いさえなけりゃ、腹がくちくなるほど飯にありつけたっていうのに」

「そう腐るな」

ぶつくさと零す小柄な鬼を嗜めるように、二体の鬼の後ろを歩く鬼が口を開いた。緑青の兄貴と、小柄な鬼に呼ばれた鬼だ。

背丈は平均的。体格も上背の高い鬼に比べれば人間の男とさほど変わらない。

だが、鉄錆の臭いは三体の中で最も強かった。侍が着用する小袖袴を着ていることから、武器を持った人間を襲い、それを食らったことがわかる。

「不快なのを我慢すりゃあ家に入れるんだ。花びらはいただけねえが、あれだって痛いのを少しばかり耐えりゃあいい。後は俺が片っ端から引きずり出してやるから、お前らは足でも折って動けなくしとけよ」

「へいっ」

「さすがは緑青の兄貴だ」

自分達の中でいっとう強い緑青に、小鬼と大鬼は惜しみない賛辞の念を向ける。

子分達の視線にまんざらでもなく笑った直後、緑青はぴたりと足を止めた。

「兄貴?」

「……村の入る口に誰かいやがるな」

緑青の言葉に、二体の鬼は後ろに向けていた視線を正面に向ける。

忌々しい桜の臭いが漂ってくる小さな村。その入り口には確かに、人が一人立っていた。

小袖袴に打刀と、侍然としたいでたち。それを見て身構えるも、月夜に照らされたのが華奢な女の体だとわかれば、鬼達の緊張はたちまちほぐれた。

そして、舌なめずりをする。

女子供の柔らかい肉を好む鬼は、多い。

それが美しい女となれば、劣情もそそられるというものだった。

「わざわざ出迎えかい? 嬉しいねえ」

下卑た声音で、小鬼が女に声をかける。

村人に生贄を命じられたか、あるいは自己犠牲の賜物か。どちらにせよ、久々の食事が馳走になることを確信し、鬼達の心は弾んでいた。

「いかにも」

だが、怯えの欠片もない凛とした声はその昂揚に水を浴びせかけた。

「……」

まず眉をひそめたのは緑青だった。

只人とは違う何かを女から感じ取り、警戒心を強める。

「おいおい。随分と強気な言い方じゃねえの」

それとは対照的に、気を悪くしたように声を低くしたのが小鬼だった。

立場をわからせてやると、指をわきわきと動かしながら女に近づく。

最初のうちは気丈に振る舞う女は、これが初めてではない。そんな女達は手足の一本でも折れば、すぐに泣き叫んで命乞いをした。目の前の女がそうなるのを想像すると、害された気分も容易く浮上していく。

再び下卑た笑みを浮かべて、また一歩、女に近づく。

「おい」

緑青がそれを制するように声をかけたが、興が乗った小鬼の足は止まらない。

そして、それが命運を分けた。

「鬼斬(きざん)の剣」

鯉口を切る音ともに、女は刀を抜く。

刃紋が波打つ刀身は、月明かりを浴びて鈍く輝く。それを顔の高さで構えると、手前に引くと同時に半身を向けるように左足を引いた。

そのまま前に出した右足で、強く踏み込み。

「〝冬百合〟」

――――瞬間、切っ先が小鬼の喉笛を貫く。

その間、わずか十数秒。流れるような剣技だった。

「が、ふ…?」

思考が状況に追いつかず、小鬼は呆然とした表情を浮かべる。突き刺さった刃を横方向に引き抜かれ、首の半分が断たれたことで絶命を迎えてなお、自らの状況を理解できなかった。

仰向けに倒れた小鬼は、呆けた顔のまま切り裂かれた首から黒い血を垂れ流す。臭気の強い鬼の血が、地面に大きな染みを作っていく。

硬い皮膚を持つ鬼を斬るには、厳しい鍛錬と相応の武器、その両方を要する。

それを満たす存在を、鬼達はよく知っていた。

「……『鬼斬り』!」

「いかにも」

忌々しげな声に応じて、女は先ほどと同じ言葉を繰り返す。

「拙者、『鬼斬り』が一人――」

「恭一郎さん!」

そして衿に手をかけたところで、近くにある木の陰から叱咤の声が上がった。

木陰から顔を出した少年が、厳しい顔を女に向ける。

「はしたないですから!」

「し、しかし清吉殿、これは『鬼斬り』の作法でありまして」

「それならせめてさらしを巻いてくださいっ」

「あれはどうにも苦しく……んんっ!」

しばらく少年と言葉を交わした後、状況を思い出した女は大きく咳払いをする。

それにハッとなった少年も、慌てて身を潜めた。

「拙者、『鬼斬り』が一人、宗和恭一郎なり」

名乗りをやり直してから、女――恭一郎は突きの構えをとった。

呆気にとられていた鬼達も、恭一郎が構えをとったのを見て臨戦態勢に移る。

「あ、兄貴……」

「うろたえんじゃねえ。相手は一人、それも女だ」

小鬼の骸を見やっておののく大鬼を静かに叱りつけてから、緑青は爪を鋭く尖らせた。

硬い皮膚、剛力に続く鬼の武器、伸縮自在の爪甲だ。

数歩踏み出した緑青が、恭一郎の体を薙ぎ払うように腕を振るった。

(捌くのは……今の拙者では無理か!)

そこに込められた剛力の度合いを瞬時に判断。軌道を変えられぬよう、紙一重の間合いで体を伏せる。逃げ切れなかった総髪の尾の先が切り裂かれ、はらはらと宙に舞った。

「おおおっ!」

身を屈めた恭一郎めがけて、大鬼が拳を振り下ろす。

鬼の剛力による打撃。人の身では致命傷、場所が悪ければ死に至る代物だ。

「――――」

頭上に迫る暴力の固まり。

しかし恭一郎は冷徹な目を失わず、柄を握りしめると同時に右足裏に力を込める。そして、その足を軸に体の向きを勢いよく反転させながら、刀を振り上げた。

腕を振り下ろす力と、刀を振り上げる力が重なる。二重の力を受けた太い腕は千切れ飛び、くるくると宙で回転してから重たい音を立てて地に落ちた。

「ぐぅっ!」

腕を斬られ、大鬼は後ろにたたらを踏んだ。

怯んだ隙は逃さない。もう一度右足裏に力を込め、今度は逆向きに体を反転させる。

反転に合わせて曲げていた膝を伸ばし、全身で前へ踏み込む。腕だけは素早く手前に引き、一拍後に切っ先とともに大鬼めがけて突き出した。

「鬼斬の剣――〝冬百合〟」

「、ぎゃぁ!」

貫くは心臓。深々と胸に突き刺さった切っ先を、気合いを入れて引き抜く。

「っ、が、ぁ…ぁ」

急所を穿たれた大鬼は、苦悶の声と血の塊を吐き出した後、崩れ落ちた。しばらく陸に打ち上げられた魚のようにわななき、動かなくなる。

木陰からそれを見ていた清吉は、感嘆の息を零した。

(恭一郎さん、強い……!)

瞬く間に二体の鬼を仕留めた手腕は、まさに『鬼斬り』。

これならば三体目とて、敵ではあるまい。そんな清吉の予想はしかし、さほど時間が経たぬうちに覆されることになる。

右腕で一振り、左腕でさらに一振り。

残り一体となっても微塵も戦意を失わぬ最後の鬼は、間合いを詰めて爪甲を振るう。それを恭一郎は時に伏せ、時に後ろに飛び退くことでかわしていく。

攻撃の間隙に緑青の体を突こうとするが、それは先ほどまでのように急所には当たらず、肩や脇腹をかすめるに留まっていた。

「かははっ! なるほどなぁ」

しばらくそんな攻防が続いた後、急に緑青が笑った。

余裕めいたその笑みに、不穏を感じたのも束の間。あろうことか鬼は、自分から恭一郎の刀に当たりに行った。

「……っ!」

鬼の意図を察するが、対応が間に合わない。

切っ先は吸い込まれるように鬼の胸に触れて――――

「……え!?」

がちんっ、と。

硬い音を立てて弾かれた。

それに清吉は驚愕し、緑青は哄笑を上げる。

「どうやら俺の皮膚を傷つけるには、女のお前じゃ力不足のようだな」

「……」

「やわい目玉なら通るかもしれないが、なぜかそこは避けている。目を狙われたら、俺が腕を使って刀を払いのけるのがわかってるからだ。つまりお前は、俺と力で競り合ったら負けると考えてる。違うか?」

是と言えず、否と答えても見苦しい逃げ道しかない。

そして沈黙は、何よりも雄弁な肯定となる。

緑青は再び哄笑してから、嗜虐的な笑みを満面に浮かべた。

「……清吉殿」

その笑みに冷や汗を一筋流した後、驚愕と怯えに目を見張る清吉に声をかける。

それと同時に刀を収め、地を蹴る。恭一郎の体が、清吉が隠れる木陰まで跳んだ。

「きょ、」

「御免!」

呼びかけを遮ると、腕を引っ張って清吉の体を抱える。

反対側の袖口から黒い丸薬のようなものを取り出し、手のひらで握り潰す。熟れすぎた果実のような甘ったるい匂いが漂い、それを嗅いだ緑青はくらりと酩酊した。

動きが鈍ったのを見て、もう一度地を蹴る。今度は村とは逆向き、鬼の真横を通り抜ける形で長く跳躍した。着地に合わせて足裏に力を込め、木の上に飛び移る。

「わけあって場所を移させてもらう! ついてこい、鬼よ!」

そう言うと、恭一郎は山の方に向かって木々を渡っていった。



移動を続けて、二人は山中に入る。

しばらく分け入ったところで足を止めると、地面に着地して清吉の体を下ろした。

忍びの如き移動に加え、柔らかい感触とこれでもかというほど密着していたことで、清吉の心の臓は激しく跳ね回っている。感触を忘れるために何度か深呼吸した後、大事なことを聞くために口を開いた。

「恭一郎さんっ、い、いいんですかっ? 鬼を放っておいて……!」

「鬼寄せの香を拙者につけました。効いたようですし、こちらを追いかけてくるはずです。何より、あの鬼は勝利を確信している。よそ見をする理由もありますまい」

「でっ、ですが……」

「あのままではあやつに勝てなかった。……あやつを討つため、いったん距離を置く必要があったのです。この恭一郎、決して敵前逃亡を図ったわけではござらん」

そう言って、恭一郎もまた深く息をついた。

子供とはいえ、人一人を抱えての移動は負担が大きい。秋だというのに額に滲む汗を袖口で拭ってから、清吉の手を引いて木の陰に移った。

神経を集中させ、鬼の気配がまだ遠くにあることを察知する。

そして、まだ不安が残る清吉を安心させるように微笑んでから、真摯な表情を浮かべた。

「清吉殿」

「は、はいっ」

「清吉殿をおのこと見込んで、頼みがあります」

「…っ」

昼間にも聞いた言葉を改めて口にされ、清吉は思わず背筋を正す。

はたして、何を申し渡されるのか。

身構える清吉の前で、恭一郎は何度か言いよどんだ後、絞り出すように言った。


「せ、拙者の乳房を、揉んでいただきたい!」


「……………………えっ?」

聞き間違いかと思った。

否、聞き間違いだと思いたかった。

「拙者のち、乳房をっ、清吉殿に揉んでいただきたいのです……!」

しかし、淡い期待を打ち砕くようにもう一度言われた。

今まで乳房を見られても平然としていた恭一郎も恥じ入っている様子で、白い頬は色づく果実のように紅潮している。それを見て、ぞわぞわした感覚を腰に感じた。初めての感覚を誤魔化すのも合わせて、清吉は声を荒げる。

「こ、こんな時に何の冗談ですか!?」

「冗談ではござらん! あの鬼を討つのに必要なことなのです!」

羞恥で首筋まで赤くしながら、恭一郎は言葉を続けた。

「拙者をおなごに変えた妖術使いの鬼は、あることをすれば一時的におのこに戻れるよう仕掛けを施しました。男にさえ戻れれば、拙者は必ずやあの鬼を討つことができます!」

「そ、その男に戻るための仕掛けというのが、恭一郎さんのち、乳房を揉むことだと?」

「はい…っ。人の手で乳房を揉まれ、それにより拙者が「えくすたしぃ」なるものを感じることでおのこに戻ることができるのです」

「え、えくすたしぃ……」

意味はわからなかったが、より難易度が上がったのは本能で察した。

鬼を討つための打開策と言われれば拒否することはできず、かといって事が事だけに即答することもできない。困ったように目を泳がせる清吉の手を、恭一郎がそっととった。

刀を握る者特有の硬さはあるが、指先はしなやかな女人の手により狼狽する。

そんな清吉を、懇願するように見つめた。

「「えくすたしぃ」を感じるまでの拙者は、おのこらしからぬ醜態を晒してしまいます。無様な拙者を受け入れてくれる度量を感じるおのこにしか、このようなことは頼めませぬ。……今は清吉殿だけなのです、こんなことをお頼みできるのは」

言いながら、清吉の手のひらを自らの胸に押し当てた。

手のひら全体に感じる柔らかな感触。布地の上から、指先が艶めかしく沈み込む。早鐘になった恭一郎の動悸を、過敏な手がしかと捉える。

「後生ですから……」

羞恥で赤く染まった顔とわずかに潤んだ目を向けられて、消え入りそうな声で懇願された。

「…………」

ぶつんと。

清吉の中で何かが切れた。



「あの女、一体どこまで行きやがった……?」

草木を掻き分けながら、緑青は舌打ち混じりに言葉を零した。

甘ったるい匂いに惹かれて、女侍と子供を追いかけてからいくらか時が流れた。四半刻にも満たないが、強いられた鬼遊びに徐々に苛立ちを覚え始めている。

それでも村の方に行かなかったのは、かぐわしい匂いを纏った柔らかい肉に食らいつきたい欲求が強かったためだ。子分達を瞬く間に屠るほどの女が自分には手も足も出ないという事実もまた、緑青の嗜虐心と支配欲を昂ぶらせた。

「……ん。こっちか」

鼻をひくつかせ、甘い匂いを濃く感じる方向に足を向ける。

逃げるのにも限界がきたのか、酩酊しそうな芳香は少し前から動いていない。濃厚な匂いに人の体臭が混じってきたことから、女達との距離がだいぶ近くなったことを感じ取った。

「焦らしてくれた分、たっぷりと可愛がってやるよ」

喉を鳴らすように笑いながら、興奮に任せて歩調を早める。

その、直後。


「――――、ぁんッ❤」


少し離れた木陰から、女の嬌声が聞こえてきた。

「……?」

腰奥に響くような甘い声はしかし、夜の山中には不釣り合いだ。

緑青は思わず、首を傾げながら足を止める。

それから、ほどなくして。

「あん?」

声が聞こえた木陰から、人が一人、が現れた。

朱が混じった黒髪を髷にせず、総髪に結い上げている頭。

体躯に合うようしつらえられた小袖袴は、上は黒い鹿の子絞りで下は無地の鼠色。少しばかり着衣が乱れたそれは、離れていても仕立ての良さが窺える。

そして腰帯には、一振りの打刀が差してあった。

追いかけていた女と、瓜二つのいでたち。

決定的に違うのは、現れたのは男だということだ。

男の周囲に視線を巡らせるが、あの女の姿は影も形もない。女が抱えていた子供は見つけたが、その子供はなぜか男の足元で前屈みに座っていた。

「誰だ、お前」

怪訝さを隠しもせず、緑青は問いを投げかける。

その問いかけに答える前に、男は自らの衿にそっと手を伸ばした。

片側に指をかけ、そのまま生地を裏返す。

黒い小袖の裏地には、菊花と月をあしらった刺繍が、銀の糸で施されていた。木々の隙間から落ちてくる月明かりを吸って、銀の刺繍は神々しい存在感を放っている。

その刺繍は、幾度か見たことがあるものだった。

魔を祓うとされる銀を使い、帝の象徴と夜の光を意匠したそれは――――

「『鬼斬り』が一人、宗和恭一郎なり」

夜を跋扈する鬼の敵――『鬼斬り』の証。

先ほどの女と同じ名を名乗る男は、静かに右手を柄に、左手で鞘を握った。

「……」

女が消えたのも、女と同じ格好、同じ名前をした男が現れたのもわからない。

ただ一つ理解したのは、目の前の男は遊びなく殺すべきということ。

一息に大きく踏み出すと、緑青は尖らせたままの爪甲を男めがけて振るった。

……が、しかし。


チャキッ――――キィンッ


鯉口を切る音に鍔鳴りの音。

二つの音が響くと同時に、振るった腕が斬られた。

「っ、な……!?」

一拍遅れて、緑青の顔が驚愕に染まる。

噴き出す血と激痛、落ちた腕が地面に転がる音。それら全てが、今しがた起きたことを現実だと突きつけた。

思わず後ろにたたらを踏み、信じられないものを見るように男を見据える。

聞こえたのは音のみ。その間、男が何かしたようには見えなかった。しかし、緑青の腕は斬られた。間違いなく、この男の一太刀によって。

すなわち、見えなかったのではなく。

斬撃を捉えることが、できなかったということ。

「悪いが、この姿でいられるのは長くない。――あと一太刀で、決めさせてもらう」

言いながら、男は左足を斜め後ろに引き、右足を強く踏み込む。

半身を向けて柄に手をかけるそれは、居合の構え。

構えをとったまま大きく深呼吸をした直後、空気が変わった。

「――――」

それを見て、緑青の脳裏にかつて、他の鬼から聞いた言葉がよぎる。


――――髪に朱色が混じった総髪の『鬼斬り』を見たら、すぐ逃げな。

――――出くわしたらじゃないのかって? ははっ、あいつに見つかったらおしまいよ。

――――何せあの『鬼斬り』は、恐ろしく疾いんだ。

――――足もそうだが、何より太刀筋だ。

――――鍔鳴りの音が聞こえたかと思ったら、その時はもう斬られている。

――――おっかない、まるで地上を歩き回る雷だ。

――――だからあいつのことを知る鬼は、あの『鬼斬り』をこう呼んでいるのさ。


「赤雷の……鬼斬り」

与太話だろうと、かつて笑い飛ばした『鬼斬り』の名。

それを口にすると同時に、チャキッと鯉口を切る音が響いた。


「鬼斬の剣――〝秋椿〟」


踏み込みから疾走。間合いを一気に詰めて、抜刀。

雷の如き疾さで奔った刃紋を見ることは、ついぞなく。

――――鍔鳴りの音とともに、鬼の首は斬られた。

「……たお、した?」

只人でも近くにあれば感じ取れる鬼の気配が、完全に消えた。人生で一番の興奮とやるせなさを体験し、また下腹部にやんごとなき事情を抱えていたため、今まで立ち上がることのできなかった清吉は、それを感じ取って恐る恐る顔を上げる。

残心を保つ男――女から男へと変じた恭一郎の姿と、その傍らに転がる鬼の骸が映る。

鬼退治が成ったことを表す光景に、清吉の体から一気に力が抜けた。

「清吉殿、お怪我は?」

清吉の姿勢に気づいた恭一郎が、低く凛とした声をかけながら歩み寄る。

女の時の面影を残しながらも間違いなく男である姿に、清吉の安堵はあらゆる意味で増す。脱力した体を胸板で支えられても、そのたくましさに安心できた。

「この通り。恭一郎さんのおかげで、かすり傷一つなく」

「よかった。これで清吉殿に傷を負わせようものなら、おキヨ殿に顔向けできませぬ」

「恭一郎さんは大げさですねえ……」

笑いながら、徐々に押し寄せてくる鬼の恐怖を払いたくて、恭一郎の胸に頭を預ける。

むにゅっと。

その頭が、柔らかな感触に挟まれた。

「…………」

見えないが、正体は嫌でもわかった。

何せつい先ほどまで、全く同じ感触のものを無我夢中で触っていたので。

「大げさなものですか。……本当に、ご無事で何より」

高く凛とした声が降ってくるとともに、後頭部に手を置かれ、優しく胸に抱きしめられる。当然、清吉の顔が柔らかいものにより深く埋まった。

鬼寄せの香に混じって、腰奥を震わせる甘い匂いが清吉の鼻をくすぐる。

既にその柔らかさを知り尽くし、その時聞いた吐息や声が未だ鼓膜に残響している中。さらなる刺激は、幼い清吉の許容量を容易く超えた。

「……きゅう」

刺激の強さに耐えきれず、清吉は気を失う。

くたりと総身から力が抜け、そのままずるずると恭一郎の体にもたれかかった。

「せ、清吉殿っ? 清吉殿―っ!?」

夜の山中に、わけがわからず一人取り残された恭一郎の悲鳴が木霊した。



  ***



翌朝。

兄妹の家で朝餉を馳走になった後、恭一郎は昼を待たずに出立することにした。

「もう少し、ゆっくりしていってもよかったのに」

見送りのため村までやってきたキヨが、寂しげな顔で言う。

鬼退治もあり、キヨは恭一郎とはあまり話せていないのが要因だろう。もっと交流がしたかった。少女の眼差しはそう語る。

そんなキヨに嬉しげに微笑みながらも、恭一郎は是とは言わなかった。

「鬼に苦しめられている無辜の民を救うことこそ、帝より菊花と月の印を賜った我がお役目。一つのところに、長居するわけにはいきませぬ」

そして、ギリッ、と歯軋り。

「それに、拙者に妖術をかけた鬼を追わねばなりませぬので」

怒気を纏った様を初めて見た村人達は思わずおののき、まだ真の話だと信じ切れていないキヨは「恭さんは真面目なのね」と少しぼかした返事をした。

「そうですね……、早く妖術が解かれた方が、はい、色んな方のためになるかと」

そんな中で、恭一郎の話が真だと身を持って知った清吉だけが同意を示した。

「……さて。名残惜しくなる前に、拙者は出立いたします。此度は大変世話になりました」

「いえ、それはこちらの台詞です」

「もしまた近くを立ち寄られたら、その時は是非足をお運びください。ささやかにはなるかと思いますが、村一同、誠心誠意歓迎いたします」

「かたじけない」

村人達の言葉に深々と頭を下げてから、恭一郎は改めて兄妹の方を見た。

「心優しき花守の兄妹よ。この宗和恭一郎、汝らから受けた恩は忘れませぬ。旅路にて、息災を祈りましょう。願わくば、神仏のご加護が変わりなくあらんことを」

凛とした佇まいが言葉を紡ぐ様は、さながら神仏の御使いを思わせる清廉さがあった。

兄妹はしばらくそれに見入り、少し遅れて力強く頷く。

「……はいっ。恭一郎さんのご武運を、我ら兄妹もお祈りします」

「また立ち寄ってくださったら、腕によりをかけたきのこ汁をご馳走しますね」

「ははっ。それは楽しみだ」

一転してからりと快活に笑った後、もう一度頭を下げる。

そして今度こそ、女の『鬼斬り』は村を発った。

華奢な背中が道の向こうに消えていくのを見届けてから、村人達は自分の家に引き上げていく。最後まで残ったのは、清吉とキヨの兄妹だった。

「ねえ、お兄ちゃん」

「どうした、キヨ」

「……ふふっ」

呼びかけに応じて自分の方を見た兄の顔に、キヨは思わず笑みを零す。

「とても名残惜しそうな顔。まるで恭さんのことを好いてしまったみたい」

それは、色恋にませた少女らしい言葉だった。

顔を赤くして嗜められるか、呆れた顔を向けられるか。はたして兄はどちらの反応だろうかと、好奇心に胸を弾ませながら返事を待つ。

「…………」

しかしキヨの期待に反して、清吉は顔を赤くはしながらも気まずそうに視線は明後日の方角を向くという、曖昧な反応を返した。

図星に近い気もするが、はっきりとしない。判別がつきづらい兄の反応に、キヨは怪訝そうに首を傾げる。ほどなくして、清吉は口元を手のひらで覆ってから口を開いた。

「……あのお人に惚れた腫れたというのは、ちょっと」

「ちょっと?」

「今までの常識や大事なものと引き換えになりそうで……答えを出したくない」

そう話している最中も、昨晩のできごとが脳裏をよぎる。

鬼の恐ろしさよりも強く焼きついている桃色の情景。思い出すたびに悩ましい気持ちになるそれは、当分――もしかすると一生――清吉の頭から離れそうになかった。



妖術を使う鬼によって、女に変えられた『鬼斬り』の侍・宗和恭一郎。

乳房を揉まれて「えくすたしぃ」を感じた時、彼は一時的に男に戻ることができる。ただし自分の手では叶わず、必ず他人の手ではなくてはいけない制約付きだが。

その制約を利用して鬼探しの旅路でも『鬼斬り』の務めを果たす恭一郎であったが、根が純朴で色事に疎い彼は知らない。

自身が無様だと認識している姿は、他者の目には艶めかしい嬌態に他ならず。

頼まれた男達が、悶々とする羽目になっていることを。

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TS侍の鬼退治 毒原春生 @dokuhara_haruo

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