プロローグ「コンタクト」
灰と黒の境目で、私は独りだった。
先程まで私はミッションの下に灰色の野原を進んでいたはずなのだが、気付けばどこにいるのかわからなくなっていた。
通信もできない。あちらからもこちらからも声は届かず、自分の聲以外は何も聞こえない。
自力で基地に帰る事も不可能ではないはず。だがいくら歩いてもさっき見たはずの景色が繰り返される。デジャブでも比喩でもなかった。
「…………」活動限界まではまだ余裕がある。
HUDの表示はどれも狂ってない、正常だ。
不思議と焦ってはいなかった。逆に不思議な気分で胸のどこかが躍ってさえいた。この状況に陥る直前に視界が一瞬だけ歪み、眩暈でも起きたかのように揺らいで尻餅をついたのは確かで、その時は少しだけ不安になった。
ここは地球ではないから。
……けどまだ生命がいるかもしれなくて。
だから不思議な現象の一つや二つが起こったってあり得なくはない。その不思議に遭遇できたのが幸運とでも思ってしまったのか。今頃チームのみんなは私を必死になって捜しているに違いない。だから私も帰らなければいけないはずなのに。
このままではいけない。仕事も仲間も、パパも娘もいるのに。
「嫌われるな……」
かと言っても帰れる見込みがない。基地への最短距離を辿れば戻されるし、遠回りをしてもスタート地点に来てしまう。この足だけでどうやって帰ればいいのか。
逆に最も遠いルートを歩けば案外いけるかもしれない。一番考えたくないのはそもそも基地周辺にそれが張られている事で、と言うか現状ではその可能性が濃厚だ。あっちからもこっちからも通信できない事にも説明がつく。
応答なし、依然として。
仕方がない。視界も足元も悪いけど、より遠い道を行ってみよう。それでも帰れなければ、死を覚悟する。
ここまで来ると無意識にも不安を自覚して、ようやく足取りの重さを思い出せた。いくら体が軽くても、足枷を幾重にもくくりつけられたみたいだ。
軽くなんかない。
疲れてきた気がする。
「…………」
まだ疲れてはいない。
そもそもこの判断が誤りなのではないか。迷い込んだ時点で大人しくしていれば、じきに発見してもらえたのでは。
それも、わからない。どこを見ても何度見ても、誰も何も見当たらない。通信できなくなった段階で不審に思っているなら、今頃こんな所を歩いてはいない。
立ち止まって、振り向いた。
後ろには、前があった。
顔を戻すと、前には前がある。
素早くあっちこっちに振り返った。
私は今どうやら本当に不思議な現象に見舞われているらしい。どこを歩いても基地に戻れそうにない。私の死は確定していた。
「はぁ~…………」
座り込んで、それで解決の糸口を掴める訳じゃない。みんなもこっちに来ていればと思う反面、同じ思いをして欲しくない。
死ぬのは私一人で充分だ。
「……………………」
実感が湧いてきた。
死んだら、真一も、佳織も、私に会えなくなる。
違う、私が会えなくなる。
「独りよがりだよこれじゃあ……」
心なしか眠くなってきた。
何十年も生きてきて一番辛い時間かもしれない。
でもパニックになったら二度とこの仕事に戻れない。
馬鹿じゃないか。一万キロもの道を歩いて行こうなんて、途中で呼吸もできなくなって終わりだ。
最初から間違っていたんだ。
「はぁ…………。……?」
ヘルメットの端っこで砂が舞った。
見間違いか?
違う、まただ。
確かに風でも吹いたみたいにふわっと広がった。
誰かがいる。
しかし誰だ。足跡ではなく、重い物でも引き摺るか転がしたかのような線が近付いて来ている。
私の中で一つの可能性が浮かび上がった。
基地から出て捜しに来てくれた仲間かと思った。同じように歪みの中に踏み入り、私からは線だけが見えているのかと。
だがこれは絶対に違う。それなら一緒に足跡もできるべきだ。
つまりこれは未知との遭遇。この世界に住む姿の見えない生き物が私を食らおうとにじり寄ってるのだと。孤独な状況に相応しい死だ。
そしてそれは違った。
線は私の数メートル前でピタリと消え、再び砂を辺りに舞わせると、私と同じように確かに座り込んだ。姿が見えた訳じゃない。テキトーでもなく何となく、脳がそれの動作を補完している。
いるのだ、それが。
「 」
「…………何」
見つめられてる気さえもした。そんなはずはないのに。
街のそこら辺を歩いていて、見知らぬ子供がじっと見てくるようだ。
「 」
「あのさ、私は日本人なの。英語も喋れるけど、話しかけるなら日本語か英語にしてくれない?」
「 」
「わかんないか……」
いるわけがない。形を持たない生物なんて今日まで発見されてこなかった。カメレオンみたく擬態してたり、枯葉そっくりな姿をしてる訳でもない。今目の前にいるのも幻覚なんだろう。
だから――
これでいいかな?
――だから……。
「…………」声が聞こえた気がした。
聞こえたというのも不正確だ。聞こえたのではなく、頭に直接響いてきたような感じ方だった。
日本語とはこれで合ってるのだろう?
「……………………」
もしかしてだ。
「今、目の前に……いる?」
ご名答。わたしは君の前にいる。
「………」
君が日本語で話しかけて欲しいと言っただろう。だから日本語という言語を間借りして話しかけさせてもらっている。
「どういうこと?」
我々には言葉の文化がない。正確にはその日本語や英語を話す能力を持たないと言うのが正しい。君の国は日本かな。
「え、はい……」
日本に住む人間が日本人、その彼らが話す言葉が日本語。とすると英語を話す者は英国となる訳だな。
「アメリカ英語とイギリス英語っていうのもあるよ」
なんと、実に興味深い。
(不思議だ)
ところで君はこんな所で何をしているのかな。見たところ一人だが。
「基地に戻れないの」
基地?
「この……後ろの少し向こうに建物があるの」
あの奇妙な建築物か。あれは君達人間が造った訳か。何の為に造ったのかね?
「月で仕事をするんだよ。仕事っていうのは宇宙開発。人間は昔から宇宙への進出を夢見てて、地球の外には人間とか犬とか、それ以外の生き物がいるかもしれないって。そうやって夢見てて、基地建てたりしたの」
地球。地球とは?
「……あそこに青くて丸いものが見える?」
あれか。では宇宙とは?
「私とあんたがいるこの空間。そして今座ってる場所が月。宇宙っていうとてつもなく広い空間の中に、地球と月があるの」
ここはそんな名前なのか。驚いたな。
「驚いたって?」
我々は言葉を持たないと言っただろう。そのように言い表せたのは、君達人間に言葉という能が備わってるからだ。そして言葉を使って、地球や月や宇宙という存在にそのような名前を付けた事になる。
「それも、そうだね」
何故だね?
「何故……って。名前はあった方がいいからだよ。声を出せるのに、『あれ』とか『それ』とか不便だもの。安直でも」
一理あるな。
「ところであんたの顔は?」
顔とは。
「ここだよ、ここ」
それがどうしたかね。
「…………。あんたの顔、体!」
君にはわたしが見えていない訳か。確かに物に名前を与えて生きてきた人間なら、体のないものには命名もかなわないのだな。
ならば少し失礼していいかな。君の体の情報を少しばかり読み取らせてもらう。
「読み取るって……」
その瞬間全身が寒気に襲われた。包み込んでるはずなのになく、体温を奪うような悪寒。けどそれもまた一瞬で抜け去って、
『これでいいかな』
目の前には無の代わりに、私が立っていた。
とは言っても再現できているのは顔くらいだ。身長もほぼ同じだろうけど、マネキンみたいにのっぺりしてる。首から下はグラデーションがかかったみたいに、灰色に変わっていくなど人間味は薄い。
「よかった。でもそれだけ?」
『そうだな。あとは君の着ている服と靴が欲しい』
「これ取ったら多分死ぬんだけど……」
『そうなのか?』
「人間は地球でしか生きられないの」
『死ぬのか?』
「そ。爆発するとか蒸発するとか凍り付くとか…………」
『君はわたし達のようにはなりたくないか?』
「死んだら考える。それと死ねないから」
『死ねない理由が?』
「夫と娘がいるからね」
『夫……娘……』
そう言って俯き考え始めた。おそらく呟いた
次第に腕を組んで、納得したのか顔を上げた。この数分で既に人間らしい仕草が身に付いているようだった。
『なるほど、理解した。ならば君も帰らねばなるまい』
君も。
「ここってあんたの家じゃないの?」
『いや、少なくともここではない。どこで生まれたのかもわからない。わたしも生まれ故郷を探したいが……しかしそれよりも優先するべき事がある』
「何さ」
『人というのは家族と会いたいものらしい。そして最初に基地に戻りたいと言ったね。まずはそこに行かないとどうしようもない……そうだな?』
「…………!」
非常に理解の早い生き物だ。頭もよく回っている。私としてもチームとしてもこの事態は打破したい。
冷静になれ。
まずこいつを――信用できるできないはさておき――連れて基地に戻り、みんなと……クルーと合流して、そしてこの異状を
「あんたを連れてくのはいいけど、通信できない原因に心当たりはあるの?」
『おおよそ』
それは助かる。だけど心当たりがあるのなら、こいつにも責任は出てくる。かと言って罪がある訳ではないのだけど。
しかし異常な光景だ。真っ白でマッシブな私の隣を、グレーのマネキンが歩いてるというのは、絵面としてはインパクトが強い。これを撮影して売るべきとこに売れば話題もかっさらえる。
歩きながら話しかけて、でも目線は合わせない。
「それで、こうなったのはなんで?」
『君がわたしを認識できなかったように、どうやら我々には特殊な能力が備わっているらしい』
「らしい?」
『この宇宙という世界には我々しかいないと思っていた。君の話が本当なら理解はしやすいはずだ』
「…………」
人間も地球の外に生き物がいるかもしれないと考えている。その事を言いたいんだろう。
『君達の言語で表すなら透明とでも言うか。君は今のわたしをどう思う?』
「…………不思議な奴」
『そう。そしてわたしも君を不思議な奴と思っている。こんな足で歩かなければいけないなど、不便極まりない』
「それはそう思う」
足跡がなかった事から、一本の脚か何かで移動していたのだろう。もしかしたら空中浮遊でもしてたのかもしれない。近未来の車がタイヤで走らないのと同じように。
「ここに迷い込む時、空気が歪んでた」
『おそらくそれが能力の一端だ。だがわたしにはわからない』
手で前方を指し示した。
さっきまで見えなかったはずの、基地に戻っていた。
「…………」
『認識阻害。それと空間を歪ませる。無意識の内に我々が操っているか……』
「みんなは……!」
『それは見てみなければわからない』
「……」
『……………………』
顎に手を当てるいかにもなポーズで歩き続ける。
この言い方は少し引っ掛かる。もしこいつがやったのなら今すぐにでも仕留めたいが、確信がない以上は案内人を失う真似はしたくない。歩く真犯人かもしれない。
しかしそれは本当だろうか。ここまでの口振りから基地の事は前々から知っていたようだ。ならば今更になってこんな現象に巻き込んでくれるものか。無意識の内に力を使ってしまう事もあるようだけど、僅かに言葉を詰まらせていたから、半分くらいは能動的に発動させたと見ていいだろう。
そして、おそらくこいつの同族は他にもいる可能性。
「今度はこっちが聞きたいんだけど。あんたは一人? それとも仲間がいるの?」
『仲間という言い方は正しくない。地球の言葉で表すなら血族といったところだろう』
「血族……」
『基地の中に入るかね……?』
「そりゃ、もちろん」
みんなの無事を確認しなきゃ安心できない。もしみんなに何かがあったら、私一人でこれからを進めなきゃいけなくなる。
基地に入り、入り口のゲートを閉鎖。全身の砂を除去し、もう一つ奥へ。
隣のソイツに手伝ってもらい宇宙服を脱ぎ、中へと進む。
「…………」
誰もいない。
と言うよりは見当たらない。
何かが起きている。いや既に起きた後だ。
ソファの影から、クルーの石田が上半身を覗かせていた。
「石田!」
「……! その、声は…………」
声は切れ切れで、できるだけ顔を近付けないと聞き取るのは難しそうだ。
「大丈夫? 何があった……?!」
「どうした……手嶌が二人に見えるぞ…………。俺はそろそろ……」
「いない! ちょっと……!」
「…………。あり得ない事が……起きた……」
私の手に、すがった。
その体を起き上がらせる事はできない。
「岩動が…………みんなを……殺そうとした…………」
「!? 岩動さんが? なんで!」
「わからない…………。だが、直前のあいつは……人が違った」
どういう事だ。
隣のワタシを見ても、無言でじっと見つめてくるだけだった。
「とにかく…………警告する……。菜園ブロックには…………行くな……殺………………」
「…………。石田!? 石田!!」
『……息絶えているな』
何がどうなっているんだ。
岩動はチームのリーダーだ。その彼が他のクルーを殺したなんて、理由がない、理解できない。そんな事をしては地球に帰還できなくなる。何を考えているんだ。
「どうしたら…………」
『可能性は一つ。我々の同胞がここに侵入し、人間達を襲った。その岩動とかいう人間の体を操ってな。ソイツは今ここのどこかに潜んでいる』
「だから……!」
『基地も帰還用の船も破壊されてしまう前に、仕留めるしかない』
「ちょっと!!」
人が死んでいるのに。
『………』
「…………わかってるよ……」
『ならば話は早い。ヤツがいると思われる、その菜園ブロックとやらに行くしかあるまい』
「……待って。あんたのお仲間なんでしょ。私には何もできなくない?」
『だが、どうにかしたいのではないのかね』
「…………」
その通りだ。
できれば現状報告の為に地球と通信を繋ぎたいが、歪みの中のままならそれはできない。
だとしたらできる事は――処理しなければいけない事項は一つ。
みんなを襲ったヤツをこの手で倒す。
『事実だけを言えば、わたしは君が死んでも基地が破壊されても、何ら困りはしない。だが事情は変わった』
「…………」
『君にも戦う力を与えよう。しかし条件がある』
手を差し出して、七色に光る鉱物を私に見せた。
『人間がよくやる等価交換というものだ。わたしは君を面白いと思っている。月に来て初めての友だ、失うのは非常に惜しい。そこで……』
それは徐々に形を変え、一つの機械になった。
手のひらよりも大きい。
平らで物としての表情に乏しい。そこからケーブルが剥き出しになっている。
一目で見ても、ちょっと観察しても、それが何なのかはわからなかった。
『わたしに名前をくれ』
「…………」
全く変化のない表情に微動だにしない唇が、この時ばかりは笑って見えた。
親しい友人が殺され、私にも死が迫っているのに、コイツは落ち着いていた。
そして、私は、心の底から何かが湧きあがってきていた。
『名付け行為はその存在を定義付けるものだろう。最初は誰にも見てもらえず、今は君の姿形を模倣する事でしか立っていられない』
「…………」
『わたしは地球を見てみたい。そしていろんな人間に会いたい』
それが手に――半ば無理矢理に――渡された。
『ついでだ、その子にも名前を与えてやってくれ』
「それじゃあギブアンドテイクテイクじゃん」
『ふふふ。さあ。それは君を戦わせる。力が手に入る!』
生きて帰る為、そして戦ってみんなの仇を取る為に。
こいつに名前を。
時間はかからなかった。思い入れがない分、佳織の時よりもパッと思い浮かんだ。
『わたしは?』
「月野。そして」
「そして、これは……月のドライバー。…………ムーンドライバー!」
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