序章 3 捨てる神あれば拾う神あり

 翌朝、普段はオフィスカジュアルスタイルで出勤していたが、この日は普段着ない上下のスーツを着て会社へと向かった。

出社してきた私は案の定、社員から注目を浴びていたが今更私は気にも留めなかった。そして朝の挨拶もせずに私は係長の元へ向かった。


「係長、お話があります。」

PCを見ていた係長は顔を上げ、私の格好に少し驚いたようだった。


「何だ?朝から私に用でもあるのか?」

係長は明らさまに嫌そうな表情で尋ねて来た。


「はい。こちらを受け取って頂けますか?」

私はバッグから『退職届』と書かれた封筒を係長のテーブルに置いた。


「・・・・。」

係長は難しそうな顔で封筒を眺めていたが、顔を上げた。

「辞めたい理由は?」


「一身上の理由です。」

私が会社を辞める理由など分かり切っているのに、全く食えない上司だ。


「私の有給は約1カ月半残っています。全ての有給を消化した日数で退職日の希望を書かせて頂きましたので、受理お願い致します。」

頭を下げた。


「川島君、幾ら何でもそれはあまりに無責任では無いか?引継ぎはどうするんだ?やりかけの仕事は・・・?」

流石に係長は困惑している。


「私が担当していた仕事は全て他の方に回されましたよね?引継ぎも何もする事はありません。資料室の部署だって必要あるとは思いません。」

私は機械的に言葉を並べた。


「しかしだな・・・。会社に居ずらくなった君の為を思って折角こちら側から新しい部署をわざわざ用意してやったと言うのに、そのような反抗的な態度を取って許されると思うのか?」

怒気を含めた声で係長は言う。


「あまり私の退職願の受理を渋るようでしたら、パワハラ被害で訴えますよ?今まで私が会社から受けた嫌がらせの数々・・・・全て証拠として残してあるのですから。」

私はスーツの胸ポケットからそっと「ペン型ピンホールカメラ」を取り出した。


「ま・まさかそれは・・・?」

途端に係長の顔が青ざめて来る。


「私がこの会社で酷い嫌がらせを受けていたのはご存知ですよね?その映像は全て証拠としてUSBに保存してあります。これを提供すればどうなるでしょう?」

私は社内で嫌がらせを受けるようになってから、肌身離さずこのペンで映像を取り続けていたのである。自分を守る武器として―。


「わ・分かったっ!君の言う通りこの退職願は受理する!」

係長はかなり焦った様子で退職願を受け取った。


「はい、では今迄お世話になりました。」

最後に笑ってやろう。

私はにっこり笑って、頭を下げると今までこちらに注目していた他の社員達には目もくれず、会社を後にしたのだった。



「う~ん。」

会社を出ると私は大きく伸びをした。空は青く澄み渡っている。

「まるで今の自分の気持ちを表しているみたい。」

空を見上げながら言った。

「よし、取り合えず・・・・・新しい部屋を探すか。」

私は新しい人生の第一歩を踏み出したのであった。


こうして私は会社を辞めた―。





お酒を飲みながら、投稿前に誤字脱字が無いか念入りにチェックする。

「うん・・・大丈夫そうだな。よし。」

私はマウスを操作して、小説をネット上に投稿した。ふと時計を見ると、もう深夜の2時を過ぎている。

「いけない!もうこんな時間だ。え~と確か私が使えるキッチンの時間帯はと・・・。」

私は壁のコルクボードに差してある『キッチン使用時間割表』を見た。

午前中の利用時間は8時からとなっている。

「うん、この時間なら7時半までは寝てられるかな。」

空いたグラスや缶等を持ってキッチンへ向かうと、静かに洗って片付けをして部屋に戻ると携帯の目覚ましをセットすると、私は眠りに就いたのだった・・・。

 

 カーテンの隙間から眩しい光が差し込んでいる。枕元では寝る前にセットした携帯のバイブが振動を立てて動いている。

「携帯・・・。」

布団に入りながら枕元のスマホを手探りで探し、バイブを止めた。

ここはシェアハウスなので、基本音の鳴る目覚ましは禁止とされている。なのでここの住人達は大抵携帯のバイブで起きている。中には自然に目が覚めるまでずっと眠っている住人もいるのだが。


東京都の市街地にあるシェアハウス。会社を辞めたあの日、私はすぐその足で数件の不動産屋を回ったが、どこも家賃が高くてこの先いつ就職が決まるか先行きが不透明な状態では思い切って部屋を借りる事もままならない。

半ば諦めていた所、最後に訪れた不動産屋で出会った人がいた―。




「う~ん・・・・。お客様のご提示されている金額で借りられるような部屋は、ほとんどありませんねえ。あると言ってもこのようなお部屋しかご用意出来ません。」

対応してくれた40代と見られる男性はPCでいくつかの物件をピックアップすると画面を私の方へと向けた。


「御覧のように、築30年以上たったものばかりでリフォームは済んでいますが、

キッチンのガスコンロは自分持ち、トイレ、洗面台、お風呂が一体化したユニットバスに6畳一間と言った内容のお部屋しかご用意出来ません。」

申し訳なさそうに言う。


「う・・・これはちょっと・・・。」

周りからは贅沢と言われてしまうかもしれないが、今迄恵まれた環境で暮らしていたのでいきなりこのような環境の部屋で暮らすのは正直辛い・・・と言うか、無理!


「分かりました・・・。色々と有難うございました。」

私は礼を言って席を立って店を出ようとしたその時、突然背後から男性が声をかけてきたのだ。


「失礼、お部屋をお探しですか?」

驚いて振り向くと、年齢は私と同世代位であろうか優し気な男性がにこやかに立っている。


「は、はい。そうですが・・・?」

首を傾げながら返事をすると男性は続けた。


「どうでしたか?よいお部屋見つかりましたか?」


「いえ、まだ見つからなくて。これからまた少し不動産を回ってみようかと考えている所です。」


「ああ、そうなんですね。それならご紹介したい物件があるので少しお付き合いいただけますか?」

男性どこかほっとした表情を浮かべたのだった。



「シェアハウス?」

不動産屋の隣のカフェでコーヒーを飲みながら男性が提示して来た物件は思いもよらぬものだった。

男性の名前は『赤城司』、シェアハウスに空きが出たので新しく入居者を募る為に不動産屋を訪れていたそうだ。


「いや、オーナーと言っても持家に空き部屋があるのでそれを低価格で賃貸しているんだ。本業はエンジニアだよ。」

いつの間にか砕けた様子で話す赤城さんはコーヒーを飲みながら教えてくれた。


「エンジニアをしている方だったんですか?すごいですね!私はまだまだ未熟ですが、ウェブデザインの仕事をしているんです。」


「へえ~。それは奇遇だね。実はここのシェアハウスには俺を含めて4人の若い男女が住んでいるんだけどね、全員ウェブ系に携わった仕事をしている人達ばかりなんだよ。全員その道のエキスパートだから、色々教えて貰えるかもね。皆気さくな相手だから。」


「本当ですか?!」

私は思わずその話に食いついてしまった。実は酷い嫌がらせの為に会社勤めトラウマになってしまっていた私は、細々とウェブデザイナーとして在宅で仕事をと考えていたのだ。とはいえ、私はまだ素人に毛が生えたようなもの。でも教えて貰えるチャンスがあるのなら・・・?これ程美味しい話は無い。


「あ・・・。でも家賃ておいくらなんでしょうか・・・?」


「光熱費込みで4万円だよ。ただ、部屋の広さは6畳なんだよ。けど、ウォークインクローゼットが付いてるからそれ程狭さは感じないと思うんだけどな。それに共有スペースとしてキッチンとテーブル、家電製品は全て揃ってるよ。」


何それ!聞けば聞くほど素晴らしい物件じゃない!捨てる神あれば拾う神ありとはこのことを言っているのかもしれない。

「あの、是非契約させて頂けますか?!」

気が付けば私は身を乗り出して、赤城さんの顔を覗き込んでいたのだった。




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