序章 2 もう、こちらから辞めます

 私が健一と別れたという話は何故か翌日には社内中に広まっていた。

いや、そもそも私たちが交際していた事を知る人間は限られた人物しかいなかった。

あの一ノ瀬琴美を除いては・・・・。

そして有ろう事か、数日後には二人は堂々と交際し始めたのである。

恐らく健一の性格上、自分から私と別れたことを言いふらすような人間ではない。

それならば該当する人物はたった一人、一ノ瀬琴美以外に無いだろう。

でも私はそれを問いただす気にもなれなかった。

会社では毎日のように陰口や無視、重要事項の伝達ミス・・・最早仕事に支障をきたす事態になるまでの嫌がらせを受け続けていて、心が疲弊しきっていたからなのかもしれない。だけど私がこの会社を辞めなかったのは大好きなデザインの仕事をさせて貰えていたからだ。

ところが、ある決定的事項により私はついに会社を辞める決心をしたのだった。


ある日の事。

「川島君、君に話がある。至急小会議室へ来るように。」

出勤して間もなく私は係長からメールを受け取った。


一体何があったのだろう?つい先日お客様から依頼を受けたHPのデザインを仕上げて、係長からOKを貰ったので納品は無事済ませている。でも至急との事なので何かあったのだろう。嫌な予感がした私は作りかけのワードプレスを中断させ、急いで小会議室へと向かった。

 

 そして席へ着くなり係長から叱責されたのである。

「川島君!一体君は何てことをしてくれたんだ!」

係長は険しい表情で私を睨み付けた。


「あ、あの。どういう事でしょうか?」

私は頭の中で必死で係長が激怒している理由を探してみたが、生憎思い当たる節は無かった。


「君は本当に思い当たる事が無いのか?!先日、君が納品したデザインだが・・・先方から先程連絡があったよ。」

係長は額を押さえながら言った。


「・・・・。」

私は黙って次の言葉を待った。


「君はよりにもよって、お客様の会社名をライバル会社の名前で納品したそうじゃないか!しかも住所や電話番号はでたらめで事業案内もいい加減な内容だったと言って来たのだぞ!」


「え?そ・そんなまさか!係長も納品前の最終チェックして下さいましたよね?この内容で大丈夫だと許可を頂いてから納品したのですよ?」

私は震える手を必死で押さえながら言った。


「ああ、確かに君のデザインの内容は確認した。あの時は正しく出来ていたからだ。なのに何故納品の段階であんないい加減な物を納品したのかと聞いているのだ!」


「で・ですが・・・。」

そこまで言いかけて私はある事に気が付いた。

あの時、係長にデザインの確認で自分のデスクを離れて戻ってみると何故かPCの電源が落とされていたのである。不思議に思いながらも再度電源を入れると今度はネットが繋がらない。仕方が無いので同期の女性社員にお願いして代わりにネットで送らせて貰ったのだった。


(ま・まさか原さんが・・・?唯一信頼できる人だと思っていたのに・・。)


原幸恵。私と同期入社した同僚であり、親友。

けれどもあの一ノ瀬琴美が入社してからは何故か彼女から避けられるようになった。

最も他の社員のように彼女は私に嫌がらせをする事も無く、時折同情するような視線でこちらを見ている事もあった。

仕事上の頼みごとをすれば、素っ気ない態度でありながらも引き受けてくれていたのだった。それなのに・・・・とうとう彼女にまで裏切られてしまったようだ。


「も、申し訳ございません!すぐに修正して先方に謝罪の電話を・・・。」

そこまで言いかけた言葉を係長が苛立ちを含ませながら遮った。


「もういい!先程別の社員に修正したデザインを納品させた。謝罪も私から先方に連絡を入れてある。もう君はこの仕事から手を引き給え。・・・最近の君の仕事のミスの連続は目に余るものがある。人事の方と話をし、来月から君は資料室の部署へ移動が決まったので引継ぎ等があれば早目に済ませておくように。」

それだけ係長は言うと、もう私には眼もくれず会議室を出て行った。


移動?総務課ではなく資料室へ?大体そんな部署は聞いたことが無い。恐らく今回の件で急ごしらえした課なのかもしれない。そう考えると会社は私をリストラさせたいのだろう。クビにする事は出来ないので、私の方から辞める様に勧めているに違いない。


「もう・・・いい。」

私は零れ落ちそうな涙を必死でこらえて拳を握り締めた。そこまでして辞めて貰いたいのなら、明日で会社を辞めてやる。どうせ私の仕事は全て取り上げられ、引継ぎも何も無いのだから。

私は顔を上げると会議室を後にした―。


 部署へ戻ると、もう私の今後の処遇が知れ渡っているのか、何人かの社員たちがこちらを見ている。PCを見ると案の定、先程まで作成していたワードプレスは削除されていた。ぎゅっと両手を握りしめていると周囲で女性社員がクスクスと笑いながらこちらを見ている。

私は何も気が付かなかったフリをして、デスクを整理し始めた。棚のファイルは全て元の場所へ戻し、引き出しから会社の備品を全て取り出し、備品棚へ戻す。不要になった資料はシュレッダーへかける等々・・・この日はデスクを整理するだけで1日が終わったのだった。

私がデスク周りを片付けているのを係長は不思議そうな目で見ていたが、すぐに視線を外した。恐らく早めに処理して資料室へ移動するとでも思ったのかもしれない。

一方の一ノ瀬琴美だけは冷たい笑みを浮かべて時折こちら見つめていたのは気に入らなかった。


 定時になり、私は誰からも返事が返ってこないのは分かっていたが、お疲れさまでしたと頭を下げて会社を出た。

正面玄関を出ると私は振り返った。けっして大企業では無かったが、私はこの会社を気に入っていた。いずれ健一と結婚したとしてもずっと働いて行こうと思っていたのに・・・。

私は深いため息をついた。

家に帰ったら、すぐに退職願を書こう。本来なら二度と出勤したくは無いのでメールで済ませたい位だったが、社会人としてそれはどうかと思い、さすがにそれは踏みとどまった。

有給を全て使い切った日付で退職願を出し、そのまま退社してしまおうと考えている。


「次の住む場所・・・考えなくちゃ。」

私はポツリと呟いた。

今住んでいる賃貸マンションは8畳の1DKでクローゼットや収納庫等が全て完備されているのでゆったり暮らせる。駅近で女性向けのマンションなのでセキュリティ対策も完璧なのだが、賃料が高くて会社を辞めてしまってはとても払っていけない。

地元に戻って実家を頼る気も更々無いのでどこか安い部屋を探さなければ・・。


「落ち込んでばかりもいられないなあ・・。お酒でも買って帰ろう。」

そして私は自宅近くのスーパーで缶チューハイとワイン、おつまみを買って帰宅したのだった。


 

 やがて自宅へ帰りついた私は着替えを済ませると、早速会社のHPにアクセスして就業規則にざっと目を通した。退職願いの書き方に関しては特に注意書きが無かった為、どうせ円満退社ではないのだからとPCで退職願を作成し、封筒に入れた。


自分でも妙に心が落ち着いているのが不思議だった。会社からの嫌がらせ、一方的な別れ話・・・ちょっと考えてみればかなり悲惨な状況なのに、何故なのだろう?

でも恐らくそれは今迄の嫌がらせが酷すぎて感覚がマヒしてしまっていたからなのかもしれない。


「とりあえず、お疲れ様。」

私は独り言を言い、買って来たおつまみをテーブルの上に並べると、ワインをグラスに次いで誰に言うでもなく言った。

「乾杯。」

と―














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