氷上のシュゼット

多和島かの

第1話

さらりさらりと、冷たい粉砂糖が森に降り続く季節が、またやって来た。木靴の踵を鳴らしてスキップのリズムを刻みながら、軽やかに足跡を付けていく。漏れた息は空へ昇って、灰色の空に溶けていってしまった、粉砂糖はやがて地面に落ち、積もり積もってそれは白い巨人に姿を変えて。でもそれも、嫌いではなかった。

そしていつも、こう思うのだ。


やっとあの人に出会える季節がやってきた!これを、一体なんと呼ぼうかしら?


シュゼットは、一人で住んでいた。誰も、誰もいない、深い森。小さな小さな家で、ポツンと暮らしていたけれど、不思議と不自由はしなかった。

森は、ぐるりと回る一年の中で四色ものドレスを着飾るから、それを見て楽しそうに微笑むのが、シュゼットの暮らし方だった。森が四色のドレスを纏う季節をなんと呼ぶかを毎日を辿る中で決めていく。今のシュゼットの二番目に楽しみな事だった。

キンと透き通る冷たい空間が解れ、森が桃色を纏う暖かで穏やかな季節は、プリマヴェーラと名付けた。暖かな風が吹き抜ける池のそばで、思い付いた。

暖かな風が、やがて熱風へと姿を変えて、太陽が作る影がより色濃くなり、森が清々しい青を纏う時期は、エスターテと名付けた。じわりと暑い太陽を遮り青い影を落とす木漏れ日の中で、思い付いた。

色濃い影が溶け、体に溜まる熱気を拐うような雨が木々を美しく濡らし、森が黄色を纏う時期は、アウトゥンノと名付けた。はたはたと木から離れていく木の葉を一枚、また一枚と数えている内に、思い付いた。では、降りしきる雨を凍らせ、全ての音を包み込むような白が降るこの季節は?


それはまだ、決めていないの。だって、私の一番好きな季節だから、決めかねているのよ。

誰も言うわけでもない言い訳を、シュゼットはこっそり、毛糸の帽子の裏へと忍ばせたのだった。


そうして木靴が残す白い足跡の数を沢山増やした所で、シュゼットは白い息を一つ着いて立ち止まった。眼前に広がるのは一面、鏡のように固く冷えきった湖。その氷は厚い。シュゼットが乗った所でびくともしないのだ。トントンと、軽やかな音を立てて凍った湖を歩く。はやる気持ちを歌を口ずさんで緩やかにしてから、シュゼットは目的の場所へと降り立ったのだ。そこは、湖の中央。分厚いあまり白く濁る筈の氷が、一部だけまるで硝子のように透明に透き通っている。シュゼットはそれを両の目で確認して、それは嬉しそうに微笑んでから静かに膝を氷に着いて、ガラスのようなそれを覗きこんだ。そしてトクトクと走り出す心臓をそのままに、小さく氷に向かって呼び掛けたのだ。


「王子様、シュゼットよ。今年も来たわ」


シュゼットがそう呼び掛けると、透明な氷がやがて鮮やかな色を渦巻き始める。その渦がピタリと止まったと思ったら、今度は人の形を為した影が現れ始めた。そこには銀色の髪を持つ、青年が映し出されたのだった。


「シュゼット!今年も来てくれたんだね。会いたかった…!」


青年は透き通るように碧い瞳を細め、微笑んだ。その喉からは、砂糖菓子のような声が踊る。


「一年ぶりだものね。私も、とってもとっても会いたかったわ!」


栗色の巻き毛をふわりと揺らしながら、シュゼットも笑った。彼とシュゼットが出会ったのは、一年前。丁度、こんな風に雪が降りしきる寒い日だった。たまたま湖に来たシュゼットをその日、腰を抜かしてしまうような出来事が襲ったのだった。凍った湖をコツコツ歩くシュゼットの足元から、声が聞こえた。シュゼットは一人で住んでおり、またこの森にはシュゼット以外、誰もいない。肌が粟立つような恐怖を一つ噛みしめながら、その声の元を辿る。声は、シュゼットの足元から聞こえるのだ。張り裂けそうな心臓をどうにか抑えて足元を見ると、そこには青年が一人、穏やかな表情で映し出されているではないか。


勿論、シュゼットは悲鳴を上げた。湖の氷の中に人がいる事に対して、自分以外の人間がいた事に、対して。

青年はシュゼットが落ち着くのを待ってから、静かに話し出す。やっと人に会うことが出来たこと、勿論湖の中にいるわけではないこと、あとは、何も解らないこと。ゆっくりゆっくり、口の中に溜め込んだものを飲み下すように、シュゼットは青年の話を聞いた。ひとまず湖の中に閉じ込められたわけではないことに安心してから、緩やか微笑んでこう言ったのだ。


私はシュゼットっていうのよ。よろしくね!


それからシュゼットは、毎日のように青年に会いに湖へと足を運んだ。厚い氷の中の青年は今まで誰にも会えぬまま、ただ訳もわからずこの季節になると鈍色の空を眺めているだけだったという。やっと貴女に会えて嬉しいと、百年の眠りに着いた姫君さえも起こしてしまいそうな笑みで言ったのだった。その微笑みが、昨日の夜に読んだ本に登場した人物によく似ていたものだから、シュゼットは彼をこう呼ぶようになったのだ。王子様、と。




「あれからもう一年も経つのに、王子様は何一つ変わらないのね」


見た目も、一年前からタイムスリップしてきたみたいだわ、と、シュゼットはもの珍しいとでも言うように彼を見た。氷の向こうでは顔も髪も服装も笑顔でさえも変わらない青年の姿。そんなシュゼットにつられるようにして笑いながら、私は歳をあまり取らないように出来ているみたいだね、と青年は答える。それから彼は、シュゼットだって、去年と同じ愛らしいままだね、なんて言うものだから、シュゼットは寒さで赤くした頬を更に赤くする羽目となったのだった。不意に彼の美しい銀色の髪型が鈍く輝き、冴える。目が眩んだように目を細めてから、シュゼットは氷越しにその髪を撫でた。


「本当に綺麗な髪ね。まるで雪のよう。私ね、王子様。この季節がとても好きなのよ」


だって、王子様に会えるものね。

うっとりと氷を撫でるシュゼットの手に合わせるように、青年は自分の手を重ねる。その幼い少年のような仕草に、シュゼットは擽られるような感覚を覚えて少し身を捩った。


「私もだよ、可愛いシュゼット。雪降るこの時しか会うことを許されないなんて、神は無慈悲だね」


悲しそうに眉を寄せた青年に、シュゼットはもう一度微笑む。


「貴方も私も一人っきりだものね。でも、この季節だけは違うわ。だから寒くたって、雪が音を消したって、私全然寂しくないの」


そうかい、と青年は綻ぶ表情でシュゼットを見つめた。


それからシュゼットは太陽が森から遠ざかるまで青年に色々なことを話した。太陽の色、森の深さ、透き通るこの湖。青年は思いを馳せるように時折遠くを見つめながら聞いた。更にシュゼットは今自分が二番目好きなことを、自慢げに話したのだった。自分の世界には四つも季節が存在すること。まだそれらに名前を付けていなかったことに、最近気が付いたこと。それからその季節ごとに名前を付けたこと。青年は目を輝かせた。一つ一つ、シュゼットが付けた季節の名前を聞いては美しいと褒めてくれた。饒舌にシュゼットは語る。


「ね、素敵でしょう?あとはこの季節に名前を付ければ完成なの!何がいいかしら?」


どうしてか、まだ何も浮かんでこないのよ。とシュゼットは言う。青年はそれを柔らかく受け止めると、こう提案したのだった。


「じゃあシュゼット。私にも手伝わせてくれないか?」


勿論シュゼットは大きく頷いた。きっとよ、と嬉しそうに笑う。その赤みが差した頬は、青年が一番気に入っているものだった。


「さあ、もうお帰り、シュゼット。そちらは暗そうだ」

「そうね、もう太陽は眠くなったのかしら。まだ王子様と話していたいのに…」


すっ、と音がしそうな程長い睫毛を伏せて、シュゼットは憂いた。長い長い一年のうち、彼と会えるのはほんの一時。シュゼットはその時間を少しでも取り零したくないというのに。やがて俯いてしまったシュゼットの頬を、冷たい雪が一層厳しく擦り始めた。それに気がついたのは厚い氷一枚隔てた所にいる青年だ。


「ほら、シュゼット。風邪を引いてしまうよ。夜の闇に拐われない内にお帰り。また明日、会いに来ておくれ」


ほら、と宥めるように言う優しい青年の声がシュゼットを温めてくれるから寒くはないけれど、その髪と同じ銀色の眉が心配そうに寄るのを見るのは、あまり本意ではないから。シュゼットは一つ頷いた。一つ頷いてから、より深く屈み込み、唇を氷に寄せて青年の頬にキスを贈ったのだった。唇が感じたのは冷たくて堅いそれであったけれど、頬はまるで暖炉の炎のように、火照っていた。


「お休み、シュゼット。良い夢を」



それからシュゼットは、名前のない季節の間、足繁く湖を訪れた。湖の中央はやはりいつもガラスのように透き通り、そこには青年がいる。毎日毎日、とりとめのない話をしながら過ごす。雪のせいで音が消え、沈黙に埋もれるこの季節も、青年と一緒ならば楽しい時間へと姿を変えていくのが、シュゼットとっては奇跡にも近い感動だったのだ。

楽しい時間は、足早に過ぎていく。やがて、雪が溶け始め、この季節の終わりを示すサインが、森のあちこちに現れ始めたのだった。


「もう、この季節は終わりね。また、会えなくなるわ…」


ぽつりと、シュゼットが呟いた。少しばかり湿った声はやがて目から涙を溢れさせ、ポタポタと氷の上に落ちた。青年はそれをシュゼットから拭うように、氷越しに手を伸ばした。躊躇うように、シュゼットもそれに重ねる。


「淋しいけれど、また会えるよ。だから泣かないでくれ、可愛いシュゼット」


えぇ、と言葉は了承の意をとる割に、シュゼットの頬が渇く様子はない。切なそうに、青年は目を細めた。


「なら、約束をしようシュゼット」

「約束…?」


「あぁ。一年かけてようやく果たせる約束を、しよう。そして来年それを果たすのさ。その為に、私達はまた会うんだ」


どうかな、と微笑む青年の淋しそうな笑顔が、シュゼットの胸の奥を真綿で包むように苦しめる。

でも、約束があれば、約束があれば、必ず会えるのだ。シュゼットは冷たい袖口で、頬をごしごし擦ると、花が開くように笑った。


「そうね!約束しましょう王子様。また来年会えるのだものね、楽しみだわ!」


じゃあ、何にしようか。穏やかな青年の声に促されるように考え込むシュゼットに、やがて一つの光が瞬いた。


「じゃ、この季節の名前を!この季節の名前を王子様に考えてもらいたいわ」

一年もあるんだもの、素敵なの考えてね、とシュゼットは微笑んだ。一つ頷いて必ず、と、青年は真っ直ぐに答える。日差しが、雪を溶かすように二人を照らしていく。湖の氷も、直に溶けるだろう。一時の別れの時間が、やってきた。


シュゼットはまた深く屈むと、青年の頬にキスをする。そうして澄んだ瞳で懇願するように呟いた。


「王子様が、その氷の世界から出てきて、こちらに来れれば、いいのにね」


そうすれば、ずっとずっと一緒に居られるわ。と、続けようとした所で、ガラスのような氷にヒビが一筋走った。青年はもう眠りに着いたようで、ただ氷の下の水面が見える。シュゼットは、少しばかりそのまま別れを惜しみ、やがてゆっくりと立ち上がった。


「プリマヴェーラの、季節ね」


ゆっくり、ゆっくりと。氷の薄くなった部分を踏まないように、シュゼットは岸へと帰っていった。次出会えるのは、またこの世界が雪で覆われた時。シュゼットは楽しみだわ、と呟いた。大好きな人に、少し経てばまた会えるのだから。木靴をコツコツ鳴らす。リズムは、軽快だった。



「インヴェルノ王子殿下」


静かになった鏡から目線を外すように、インヴェルノは振り返った。そこには大臣な神妙な顔付きで佇んでいた。


「なんだい、せっかくの逢瀬を邪魔しないでくれないか」


雪のように輝く銀の髪が揺れ、細めた碧い瞳の眼光が増す。しかしすっかり年老いた大臣には暖簾に腕押しであるようで、何でもない風に言葉を続けた。


「首尾は上々なようで御座いますな、殿下」

「何故だい?」

「今まで長きに渡り我が国と睨み合いをしていた隣国が、我らの傘下に入ると、たった今申し出てきました」

「そうか」

「これも全て、殿下のお力で御座います」

「いいや、違うな。彼女のお陰さ」

インヴェルノは豪華な縁取りがされた大きな鏡を愛しげに撫でた。それを見る碧い瞳に、鈍い光が宿る。

「俄には信じられませなんだが…今なら信用出来ます。その鏡の力を」


深い皺の入った顔を卑しく歪ませて笑う大臣を、インヴェルノは一瞥する。しかしやがてそれは笑みに変わっていく。爽やかとは程遠い、沼の底のような笑みだった。


「私は、初めから信じていたよ。現に、この鏡を奪い取った瞬間小国であった我が国が、大陸一番の大国を滅ぼした。こんな鏡一枚で、可笑しな話だ」


クック、と、地の底を這うような笑い声を響かせながら、インヴェルノは鏡に手を伸ばした。



「不思議だね。彼女の世界は、時間が過ぎるのがとても早いのさ。私達の一日は、彼女にとっての一年なんだ」


ほう、と大臣が入れた相槌を、インヴェルノは目線で返事をする。


「だから、明日になれば彼女にとっては一年後。…新鮮だよ。彼女が待ち焦がれたように熱い瞳で見てくれるのがね。私にとってはたったの一日でも、彼女にとっては一年だからね」

それはそれは、大臣が茶化すように頭を下げる。インヴェルノは愉快だと言わんばかりに、まだまだ語るのを止めない。


「それにね、可笑しいんだ。彼女は、彼女の世界が現実に存在し、私の事を氷や雪の精霊だと思ってる節があってね。真相は全くの逆だというのに。悲しいくらいに純粋なのさ」


彼女の方がそのような存在だと告げたら、彼女は一体どんな顔をするのだろう。インヴェルノの興味は、尽きなかった。これは、父王から授けられた一つの命令だったのだ。隣国から手に入れたこの宝鏡の精霊を手懐けろと。さすればこの鏡の言い伝え通り、我が国が世界の覇権を握ると。実際、インヴェルノがこの鏡の前に立ってたったの二日で、隣国はあっさり陥落した。この鏡の効力を疑う余地はない。ただ、彼女の世界では一日が、インヴェルノ達の世界にとっての数時間。それ故に、インヴェルノも相応の演技をしながら鏡に向かう必要があった。そう、例えば、久しぶりに会ったような喜びに溢れた演技、それから暫く会えないというような悲しみに満ちた、演技。


しかし純粋な鏡の精はそれを信じた。今、彼女の中にはインヴェルノしか居ない事を考えると、隣国の王の事は忘れてしまった、或いは所有者が変わった瞬間にリセットされてしまったのだろう。

非常に、都合が良かった。



「ああ、そうだ、大臣」

「はい、なんで御座いましょう」

「彼女が、冬の季節に名前を付けたいらしいんだ。彼女の世界には季節に名前が無いらしくてな。明日までに考えねばならない。何がいいかな」


大臣が、目を光らせるように細めた。


「それでしたら、殿下の名前はいかがでしょうか」

「私の?」

「はい。インヴェルノ、とは、他国語で冬という意味をお持ちです。殿下の名前をお使いになれば、」

「更に彼女の中に私が残り、この国が栄える、か。いいな。そうしよう。ありがとう大臣」

「は、光栄に御座います。インヴェルノ王子殿下、並びに"シュゼットの鏡"のご活躍、期待しておりまする」

「ああ」


インヴェルノは碧い瞳を、稲妻のように細めた。明日が早く来ればいい、と呟く。その目には、鏡の精の力により世界の覇権を握る自国の姿が氷のように冷たく透けて、見えていた。




―王子様! 一年ぶりね、とってもとっても会いたかったわ! ―


―私もだよ可愛いシュゼット。この一年、どんなに君を待ち焦がれたことか―


―本当に?―


―ああ、勿論だよ―


―ふふふ、嬉しいわ!……あ、ところで、去年の約束、覚えているかしら?―


―覚えているとも。季節の名前、だったね。私も一年かけて考えたのだが……インヴェルノ、というのはどうだい? ―


―インヴェルノ……? 素敵な名前ね―


―ああ、実は私の名前なんだ。君に会えるこの季節を私の名前にしてくれれば、君はきっと忘れないでいてくれるだろう?……どうかな? ―


―インヴェルノ、インヴェルノ。いい名前ね、素敵だわ!じゃあこの季節は今からインヴェルノね、インヴェルノ様! ―


―ふふ、私も名前で呼んでくれるのかい?シュゼット―


―勿論よ! 素敵な名前をありがとう、インヴェルノ様。私これで、いつまでも貴方の事を覚えていられるわね―


―そうしてくれると、とても嬉しいよ。私の可愛いシュゼット……―




昔、昔。とある国に、シュゼットの鏡という名の不思議な鏡がありました。その鏡の中には一人の可憐な少女が住んでおり、少女の心を傾けさせる事が出来た者は、この世界の全てが手に入るという言い伝えがありましたとさ。

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