第21話 虚実 2
土方がその声を聞いたのは、まったくの偶然だった。
山崎烝と共に”きぬ笹”前、料亭浜夕に設けた詰所にむかう途中のことである。詰めている隊士への差入を求めに菓子司の暖簾をくぐったその時だった。丁度、三、四人の浪士が談笑しながら軒先を通りかかったのである。
(この声)
──沖田と言ったな。気をつけるがいい。
──近頃、珍しい客はなかったか。
土方は、身の丈ほどある暖簾の切れ目から外を窺った。四人の浪士が歩いていく。ひとりが話し、どっと笑い声があがった。
「山崎君」
土方は男達から目を離さずに、山崎を手招いた。
「なにか」
遠ざかる後背を指し、二言、三言告げた。
「承知しました」
山崎は手早く浅葱の羽織を丸めると懐へ押し込み、何食わぬ顔付きで後を追った。
「その後、御池通で二手に別れましたが、例の男はそのまま長州藩邸へ入りました」
浜夕の座敷で山崎は告げた。二人の隊士が格子窓から”きぬ笹”を見張っていた。
「なるほど」
「尾行中、追い抜いた時に運よく名を聞けました」
「誰だ」
「三塚殿、と。相手の様子からすると、かなり名の通った者であると見受けられます」
聞いたことがなかった。所司代の手配書や、新選組の探索網にも上ったことのない名である。
「ごく最近入京した者ではないでしょうか。長州藩邸を張っている所司代の密偵に、三塚が藩邸を出たらつなぎをつけるように手配してあります」
「鼠が、動きだし始めたか」
六月の池田屋事件、続く禁門の変よりこのかた、倒幕浪士の動きは沈静化していた。あれから四月あまり。そろそろ動き始める頃合いと踏んでいた。
「その三塚ですが、私が山科に詰めていた時、良く似た浪人を見ています」
「また、相模屋か」
堂々たる風体の商人だった。直接手出しできないものの、放っておくわけにもいかなかった。
(内藤新三郎──)
突破口とわかっていながら、土方は目を逸らした。
「その三塚とやらを当分の間張ってくれ。そいつが件のおせっかいな刺客だ」
「沖田さんにどうこうと言っていた」
「ああ」
山崎は察しよくの飲み込むと、土方へ一礼して出掛けていった。
向かいの”きぬ笹”に表立った動きはない。新選組を全く気にする様子も見せず、客筋にも乱れがなかった。
「やはり、聞かねばならんな」
「なにかおっしゃいましたか」
見張りの隊士が振り返った。
「なんでもない」
問われ、初めて声にしたことに気づいた。
薄く開いた障子の隙間から、月光が射し込んでいた。畳をつたい夜具を横切って、内藤新三郎の半顔を映していた。
「どうした」
内藤の問いかけに、障子際で月を見上げていた背が振り返った。柔らかに微笑し返すと、あきもせず同じ夜空を見上げた。
「なにが見える、総司」
「別に。いい月夜ですよ」
脱ぎ捨てた着物を肩から羽織り、乱れた鬢のほつれ毛が風に揺れていた。
あの夜、沖田は再び内藤に抱かれた。
刀身に浮く人脂の曇りを否定せず、問い詰める声に否とも諾とも答えずに、内藤は沖田に手を差し延べた。
真暗な座敷で昔語りを交わし、沖田は自ら内藤が与える快楽の淵へ沈んでいったのである。
だが、かれは知っていた。たとえ言葉にせずとも、沖田の心が誰の名を呼び続けているのか。心底より何を望んでいたのか。
(それでもよい)
いま、この腕のなかにあるものが全てだった。
過去を忘れることはできない。それ以上に、未来は思うことさえできなかった。
「そろそろ、帰らなくては」
沖田はぱたりと障子を閉じ、内藤が横たわる夜具に膝をついた。
「今晩は出かけないのですか」
内藤は答えなかった。
「総司、なぜ来る。今日で四日だ」
問うた。
「新三郎さんに、お会いしたいからです」
「嘘をつくな」
「では、嘘です」
「土方から逃げるのか」
「なんのことです」
内藤の指が、沖田の頬にふれた。そのまま肩口をつかんで抱き寄せる。沖田は抗わなかった。内藤の背に手をまわし、温もりを抱き取るように身を寄せた。
「──逃げてください」
言って口唇を噛み、さらに強い言う。
「このまま、逃げてください」
「なぜ、私が逃げるのだ」
「ご存知でしょう」
沖田は逃れるように身を離した。着物に袖を通し、身支度をととのえる。
「それほどあの男が好きか」
「──さあ」
「私を逃がし新選組に戻れば、おまえも無事では済むまい。土方は知っていると言ったではないか」
「そうですね」
「死にたいのか、総司」
沖田は息を漏らすように嗤った。
「以前、土方さんが言いました。ひとりでは死なせはしないと。目が覚めたとき、あのひとがそう言ったんです」
「だから?」
「それだけです」
沖田は帯を結ぶ手を止め、婉然と笑った。
「無論、土方さんと心中する気なんかありません」
「お前はそうやって私を嬲るのか」
内藤は乱暴に沖田の手を引いた。夜具の上に押さえ込み、整えた衿元から手を滑らせていく。
「では、なぜ来る」
「さあ」
それ以上の言葉を封じるように、内藤は口唇を重ねた。徐々に熱を帯びる身体を重ねながら、内藤は乱暴に着物を剥いでいった。
沖田は抗わなかった。
(続く)
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