第18話 骸哉り 3
火の気のない自室へ戻り、沖田は気が抜けたように床へ座り込んだ。
あの日、山科から戻って以来、土方はまともに沖田を見ようとしなかった。
──江戸へ帰れ。
それだけである。
山科まで何を確かめに行ったのか。そして内藤はなんと返答したのか。土方はそれになんと答え、何を思ったのだろう。
隣室に気配があった。
(土方さん……)
男の真剣な眼差しを思い、口許を押さえた。
唇が震えてくる。
初めて会ったのは十二、三の頃である。
どこか投げ遺りな目をしたその男は、両親のない生い立ちを重ね合わせたのか、おのれにはひどく優しい目で笑いかけてくれた。方々へ遊びに連れていってくれた別れ際、頭に置かれた手のぬくもりが恋しくて、姿を見ると追いかけていった。
ただひとりの姉はひとまわりも年が離れていた。幼いころより甘えることを知らず、そしてそれがあたりまえだと思っていた。
餓鬼は餓鬼らしくしろ。その男は言った。
(それから、私は土方さんの背中だけを見てきた。京へ来たのも、こんな病にかかってさえここへ留まりたいのも)
土方がいるからだった。
いつからだろう。無邪気に笑えないおのれを知った。それが何であるか、時をかけて悟った。
(気づかれてはならない)
あの晩、おのれの身体からあふれてくる血を見た時、決して妨げてはならぬと決めた。
(あの人の志を、あの人の野望を、あの人の往く道を──)
だが、生きていく理由が欲しかった。殺し続けるおのれの所業に、言い訳が必要だった。
沖田は目を閉じ、おのれを抱いた。
(寒いな)
寒かった。
(力尽きるまであの人を手伝って、見守りながら消えてしまえれば、それが本望だと思ったのに)
この寒さは何なのだろう。
幾重にも隠してきた想いを、内藤新三郎は見抜いていた。
江戸の夏の夜の草息れが甦ってくる。濃厚な青臭い闇だ。
あの晩、男たちの手から救い出してくれたあと、内藤はおのれに思い告げてきた。土方しか見ていないならそれでよいと、何も求めてこなかった。
(それが──)
沖田は唇を噛んだ。同じ男が、力ずくでおのれを蹂躪したのである。
内藤の目は沼のようだった。絞り出された低い声。手の感触。息づかい、そして──。
目を固く瞑り、こみ上げる激情を押し殺す。
(許せない。何もかも知りながら裏切った。許すことはできない)
心のどこかが嘘だと囁いた。憎しみを持てないおのれに気付いている。
(考えるな)
咄嗟に言い聞かせた。闇の渕を覗いてはいけない。
気のせいだと言い聞かせる。
(私は疲れているんだ、きっと)
土方とのすれ違いが、これほどまでおのれを消耗させるとは思わなかった。
もし、このまま信頼に満ちた優しい眼差しが得られくなったならば、
(私はなんのためにここにいる……?)
隣室の気配が動いた。井上の何事かを告げる声がした。短い遣り取りが続き、ついで駆けつけた山崎へ指示を下す声。そして、足音が遠ざかった。
聞き慣れた足音。廊下を曲がり、消えていく。
声をかけることなく去った。
これは無言の拒絶だろうか。
「沖田先生」
障子の向こうからかかった遠慮がちな声に、沖田は我に返って障子を開いた。
「ただいま玄関口に使いの方が参っております」
「どなたですか」
おのれへの使いなど、心当りがない。
「それが、お会い頂ければお判り頂けるなどと申しておりまして……」
「すぐ行きます」
廊下で山南とすれ違った。
「沖田君、出張ってください。妙法院裏だそうです」
「すぐ行きます」
来客を告げにきた隊士へ指示を下す。
「伍長の島田さんに伝えてください。私は後から追いかけますので、先に出てくださいと。人数は五人もいればいいでしょう」
「あなたは」
老人は、式台のむこうで深く腰をかがめた。
数日前、内藤が四条大橋袂の茶屋で待っていると知らせにきた老人である。町人だが、折り目正しい挙措である。恐らくは武家奉公をしていたのであろう。
「先日はご無礼申し上げました。本日も内藤様よりお言伝を承って参りました」
沖田は硬い表情のまま履物を履いた。
「一寸出ましょう。そこまで一緒に来てください」
「はい」
沖田は、老人を壬生寺へ誘った。
壬生寺は平安期に建立された勅願時である。古くは地蔵院、または宝幢三昧寺とも呼ばれ、毎年催される壬生狂言でも有名だった。沖田にとっては、近所の子供たちと遊ぶ馴染めの場所である。かれは顔見知りの子供を避けるように、右手の木立へ入っていった。
「こちらを沖田様へお渡しするよう、申しつかって参りました」
差し出された書付を開いた。
──お話申し上げ度事有り 使いの者の案内にて参られたし 新三
沖田は胸元へ畳み込み、
「内藤さんへお伝えください。沖田は御用繁多につきお伺いできません。今後一切お構い下さいませんように、と」
「左様でございますか」
老人は目に見えて落胆したようだった。
「では、そのように内藤様へお伝えいたします」
「失礼ですが、あなたは内藤さんの」
「はい、長く江戸のお屋敷にご奉公させて頂いた者でございます。その縁でご上洛なさった若様のお世話をさせていただいております。あの、沖田様」
少々言い淀み、
「お気が変わりましたらお知らせ下さいませ。すぐに若様のお住まいへご案内いたします」
「山科の相模屋殿の寮ではないのですか」
「滅相もない」
否定する語気の鋭さに驚いた。老人も余計なことを口にしたと思ったのか、慌てて腰をかがめた。
「ご無礼申し上げました。私は清兵衛と申し、六角通富小路西で小間物を商っております。お尋ねいただければすぐにお判りになるかと存じます」
では、と清兵衛は何度も振り返り、頭を下げながら帰って行った。
(今さらなにを)
沖田は懐の中で、書状を握りつぶした。
(続く)
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