第16話 骸哉り 1

 障子を舐めるように炎が這い上がった。そのまま廊下を走っていく。

 熱風が、妻の崩れた髷を宙に舞いあげた。

「妙!」

 妻は婉然と微笑むと、懐剣を握る手に力を込めた。切っ先におのれの喉をさらし、今にも突き刺そうとしていた。

 襖へ火が移った。瞬時にめくれあがって灰になり火の粉をまき散らす。手で顔を庇い、妻の元へ踏み出そうとした。

「やめるんだ、妙!」

 半歩下がり、手に力を込める。

「やめなさい!」

 横から噴き出た炎が、妙の袖に移った。それにも気付かぬのか、妙は玻璃のような目を一杯に見開き、夫の叫びに少女のように微笑むと、刃をおのれの喉元に突き立てた。

 ゆっくりと炎のなかに崩れていく。

 天井から火の付いた木片が降り注いだ。妙の着物に火がつくのを眺めながら、誰かがおのれの袖を強く引いていた。背後に引きずられながら、妻を助けねばと足掻く。

 轟音とともに崩れ落ちる屋敷のなかで、おのれの絶叫をも炎は包み込んだ。




 風に、竹林がさわさわと鳴る。

 内藤新三郎は座敷に寝ころび、ぼんやりと聞いていた。

(夢……か)

 初めてではない。視界を埋める鮮血に、いく度目が覚めたことだろう。

 頭を振った。妙の顔が目の奥から離れなかった。

「内藤様」

 障子の外で灯りが揺れた。辰吉だ。

「旦那様が、お越し頂けないかと申しております」

「西国の客人はお帰りになったと見えるね」

 答えない。

「すぐ行く」

「お願いいたします」

 来た時と同じように、足音をたてずに灯りがゆらゆらと離れて行った。




 相模屋利平は、母屋の仏間で巨大な仏壇を背後に穏やかな微笑みを浮かべていた。

「三塚様が乱暴をなさったとか。あのお方は短気でいけません」

 内藤の手には、まだ血が滲んでいた。

「差支えはございませんか」

 内藤は立ったまま、相模屋を見下した。利平は気にもせず、

「新選組の土方歳三。噂通りの切れ者と見ました。あの手の男が一番厄介でございます。いかなる懐柔策を用いても効果はありますまい。おのれの目的のためであれば、何ものも迷わず切り捨てます」

「貴様のようではないか」

 相模屋は、その言葉に笑みを深くした。

「人はおのれと相似たものを憎むとか申します。内藤様が手前をお憎みになるのもそれかもしれませんな」

「──」

「昨日の件は首尾よう片づけてくださったと、さきほど検分に参った者が申しておりました。いつもながらのお見事なお手並み。感服しております」

 内藤は無言のままである。

「越中屋の過ぎた肩入れは、寄合の足並を乱しておりました。商いには加減が大事。これを見違えると、一夜にして全てを失いかねません。うまく天秤にかけねば儲かりません。それが江戸であろうと西の方であろうと」

「見上げた商人魂だ」

 少しも揶揄を抑えない物言いに、相模屋はうっすらと笑みを浮かべた。

「されど、昨今の江戸方はいけませんな。そろそろ手前も去就を定めねば、相模屋の身代も危ういことになりましょう。そのための手土産を思案しておりましたら、内藤様」

 と、揄るように言葉を切る。

「貴方様をひょんなことでお世話申し上げることに。巡り合わせとは面白いものでございますな」

 内藤は、相模屋へ目をくれようともしなかった。

「さて、長州様にとって新選組はいわば仇敵。これほどの手土産はございますまい。現在、局長の近藤様は不在と伺っております。飛道具を使えば話は早うございますが、それでは近藤様はご健在。同じ手を二度使うのは難しいというもの。何より外敵に副長を殺められたとあっては、厄介なことにもなりかねません。さすれば、内より崩れていくよう謀ることが何より」

「念をおさずともよい」

 叩きつけるように内藤は言った。

「お前の目的のために手を貸す、人も殺めよう。私が従う限り、内藤の家へ手出しはせぬと言った。おまえが約束を守る限り、念をおすことなどない」

「わかっております。すべてお任せいたしましょう。しかしながら、内藤様」

 相模屋はゆらりと立ち上がった。

「私は貴方様の命の恩人でございます。それだけは、お忘れなきよう」

 相模屋を飲み込んで障子はぴたりと閉じた。廊下で控えていた辰吉とふたり、遠ざかる足音がする。

──お恨み申し上げまする。妙は決して貴方を許しませぬ。この仕打、決して忘れませぬ!

 唇を噛みしめて叫んだ妻。あの美しい妻が鬼女のような形相で叫んだ。

 そうしむけたのはおのれだった。いつかその時がくるとわかっていた。優しい女だったのを、夜叉に変えたのはおのれの無情な仕打ちなのである。

 心を偽ることはできなかった。

──誰の不幸を望んだのでもない。

 言い訳にに過ぎぬことは、百も承知だった。

 折り重なる幾つもの亡骸。炎のなかに崩れ落ちた屋敷。闇に浮かぶ月。空を焦がす紅蓮の炎せん。

 内藤は目を閉じた。

 妙の叫びが途切れることなく耳奥でこだまする。

 行燈の灯が揺れた。



(続く)

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