第10話 偽計 1
洛北の名刹黒谷の金戒光明寺は、京都守護職会津藩主松平容保の本陣となっていた。
徳川三代将軍家光の異母弟保科正之を藩祖とする同藩は、質実剛健な気風で知られ、また新選組にとっては結成以来の抱え主であった。
この日、副長土方歳三は、新選組と藩との窓口となっていた公用方外島機兵衛に呼ばれ、東下中の近藤の名代として伺向していた。
外島は昨今の新選組の活動を何かれと誉めた後、居ずまいをただし続けた。
「ところで、土方殿。近頃、妙な噂を所司代より聞き及んでおります」
京都所司代桑名藩主松平定敬は、容保の実弟に当たる。自然、京の治安を預かる二藩は親密であり、往来も多かった。
「──と申されると」
「相模屋利平をご存じですかな」
意外な名だった。
「元禄の紀伊国屋文左衛門と比される商人と聞き及びますが」
「左様。もとをただせば紀州あたりの両替商で、大名貸しで巨額の利を得たとか」
「その相模屋のな辺が胡乱であると申されますか」
おのれへ耳打ちする話であれば、碌なことではあるまい。処遇は変わったものの、所詮浪士の集団である。何事にも身が軽い。
外島はいやいやと破顔し、
「実は、相模屋の寮が山科にありましてな。もとはさるご高家の別宅だったものですが、所司代で目を付けていた薩州浪士が入っていったそうです。三日で五人、かねてよりお手配の者どもが顔を見せた、との報告がきております」
用人はそれだけいい、土方の反応を伺うように口を閉じた。
(見張りを代われというのかよ)
餓鬼の使い走りじゃねえ、と心のなかでつぶやくが、土方は臆面にも出さずに答えた。
「会津様、桑名様、ともに動けぬ理由をお聞かせ願いたい」
言外に、いわねば断る気概を滲ませた。
用人は躊躇したが、土方の無遠慮なまなざしに溜め息をついた。
「致し方ござらん。土方先生、これは他言無用に願いますぞ」
もとより大方の察しがついていた。
掛かりである。
江戸中期を過ぎると各藩では様々な財政改革が行われたが、成果の挙がらぬままに負債がかさんでいった。そのため、よほど利のある専売品を持たぬ藩の財政は逼迫し、翌年、翌々年の年貢米を担保として、商人から多額の融資を受けるようになった。
いわゆる大名貸しである。
しかし、この借金がさらに自らの首をしめ、商人の言質が政事を左右する例さえ、まれとはいい難かったのである。
相模屋は主に西国諸藩への融資を行っていたが、借主には幕府の重鎮ともいうべき親藩大名も含まれていた。つまり、確証もなく踏み込めば幕府内部よりの横槍は必至であり、相模屋の財力を持ってすれば守護職、所司代のお役差し止めはおろか、それ以上のお沙汰もありえる状況だという。
「我が殿は、それだけは避けねばならぬと仰せられている。京の情勢を憂慮されてのお言葉である」
近藤あたりが聞けば号泣しかねないが、土方は違う。
(けちくせえ)
だから舐められるのだといいたい。土方は形だけ恐縮してみせた。
「承知つかまつりました。されど外島様。我等新選組が相模屋の寮を見張るのはよいとして、その後如何取り計らえばよいとのご意向か」
外島は目に見えてほっとした。
「まだ、相模屋が浪士共に加担しているという確証はござらん。しかし、浪士共が集まりおるのも事実。他にも洛中に隠れ家があるやもしれぬ。それを探り、新選組の役儀として処置して頂きたい」
京の町中で尻尾を掴めというのである。しかし、掴んだところでこの蜥蜴は尻尾を切り捨てて逃げおおせるだろう。
(──こりゃあ、山崎君の仕事だな)
長期戦を覚悟せねばなるまい。
「どうであろう、受けて下さるか」
「承知いたしました」
土方は微笑を浮かべ、平伏して見せた。
黒谷を辞すとすでに日は落ち、したたか雨も降り始めていた。
土方は外島がすすめた駕籠を断り、小者に提灯を持たせて徒歩で帰路についた。
近藤は隊互を組み、馬上で伺向する。しかし土方は、直参格となった今でさえ、めったなことがなければ単身で赴いた。格式はともかく、倒幕浪士の襲撃を案じて近藤は警護の隊士を同道するよう勧めるが、頑として聞き入れなかった。
壬生までは一里半。ようよう半刻ほどの道のりである。
丸太町通を西へ向かい、熊野神社へ差し掛かった頃だった。
雨のなかに、別の音を聞いた。
土方は傘を素早く投げ捨てると、小者に提灯を消させ、脇へ下がらせた。
足音が消えるほどの雨ではない。
前方から三人、と見た。
腰の和泉守兼定を鞘走らせる。
「新選組の土方歳三だな」
訛のない江戸言葉だった。
「さあな。そうだとしたらどうする」
人を食った返答に、相手は一瞬押し黙った。
闇で互いは見えない。
刺客は含み笑いを漏らした。
「その土方歳三とやらにいうことがある。一度しかいわん。よく聞いておけ」
「名乗りもせず、不躾に説教をしていくつもりか」
土方の揶揄に、男は激する仲間を押し止めた。
「俺は、親切から教えにきた」
土方は油断せず、背後の気配を伺いながら下げ緒で素早く襷をかけた。
「何だ」
「お前のところの、沖田、といったな」
土方の殺気が一瞬削がれた。相手も気付いたか、声にゆとりが出る。
「あの、綺麗な坊やだ。気を付けるがいい」
「何をだ」
「さあてね」
声には土方の当惑を楽しんでいる様子があった。
「近頃、客はなかったかね。珍しい客だ」
「──」
「ならいい」
前触れもなく、土方は声の主へと駆けた。
「止まれっ! 動けば鉛弾が心の臓を貫くぞ」
威嚇に銃声が響き、足元の石畳が砕けた。多々良を踏んで体勢を立て直す。男たちは、その隙に駆け去っていく。
「待てっ!」
闇に気配は消えていた。土方は舌打ちしながら、小者の様子を見に行った。
(続く)
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