第8話 流謫 3

 控えの三畳を抜け、藍色の襖の奥へ、沖田は困惑しきった顔つきで入ってきた。

 卓上にはすでに酒肴が並べられ、内藤は手酌で始めていた。

 左手の一間の障子戸から、水が滴る音が聞こえている。

 複雑な造りの町屋をぐるりと巡ってきたため、何処にいるのか皆目見当がつかなかった。しかも、この座敷へ辿り着くまでに、誰ひとりとして他の客と擦れ違わなかったのである。

 沖田は内藤の向かいに座り、落ち着かなげに何度も座り直した。

「また、随分と派手ななりだね」

 内藤は沖田の恰好を見てにやにやと笑う。

 血で汚れた木綿の着物と小倉の袴に変わって、水浅葱の色無地に群青の袴である。ともに絹ものらしく、沖田が動く度に擦れて音がした。仄かに上気した頬にあざやかな色が映り、少女めいた容貌に華を添えていた。

「裄丈が合うものがこれしかありませんで」

 おえいは嬉しそうに目を細めながらいい訳し、下がっていった。

「惜しいね。まだ前髪だちでもとおるだろう、総司。森蘭丸もかくならんか。信長の心持ちがわかるね」

「何をおっしゃっているんですか。生憎と私はとっくに大人です」

「知らぬはおのれなりけりか」

 いささか酔ったのか、内藤は沖田の全身を睨めつけて、盃をあけた。自分の盃を満たし、沖田へも注ぐ。

「飲みなさい」

 沖田は大見得を切った手前、えいとばかりに酒を飲み干し、不味そうに眉を寄せた。

「さすがは立派な大人だ」

 内藤は声をたてて笑った。内藤の右手も手当てをしたとみえ、きれいな晒が巻かれていた。

「おえい殿ですが、江戸の方ではありませんか」

「吉原で相模屋に見込まれて、落籍されたそうだ」

「吉原……ですか」

「婚家はさる大名家の老職だったが、主家がお取潰しになり浪々の身となったらしい。よほど生活に困窮したのか」

 おのれでおのれを売ったらしいと、内藤は続けた。

 沖田は吐息をひとつ漏らした。

「おえい殿を見て、江戸の姉を思い出しました」

「おみつ殿は、総司によく似た美しい人だったね」

「内藤さん、私はそんなに軟弱な顔をしていますか」

 さも心外だというように睨んだ。内藤はその仕種に穏やかに微笑んだ。

「恋しくないか、江戸が」

 沖田は瞳を伏せる。

「……もちろんです。試衛館がありますし、私が育った所ですから」

(もう、帰ることはあるまい)

 不意に、胸をつかまれるほどの恋しさがつのり、沖田は盃を手にした。

「まったく、どうしても内藤さんは私を江戸へ連れ戻したいようですね」

「京は物騒だ」

 沖田は声をたてて笑った。

「でも、これが仕事です。それに、ご存じのとおり、私は大変な遣い手だそうですから、近藤先生や土方さんを助けて差し上げたい」

「その土方がお前の帰府を望んでいたら、どうする」

 料理を口に運びながら、沖田は目を上げた。

「土方が帰れといえば、帰るか?」

「帰りませんよ。あの人は意外とずぼらでぼんぼんなんだから。周りで気をつけてあげないと、だめなんです」

 土方が聞けば真っ赤になって怒りそうなことをいう。

「総司。お前、死ぬよ」

 虚をつかれたような沖田の顔を、様々な表情が過った。

「何をお聞きになったのですか」

 内藤は答えず、銚子と盃を手に卓から離れた。障子を開け、沖田に背を向けた。坪庭の燈籠に灯が入り、手水鉢の水面に映っていた。一間四方の空間にしとど雨が降り注ぐ。

「総司、私はお前に会いにきたのだ」

「私にですか?」

「そう、お前にだ。わかっているだろう」

 沖田は返答につまった。

「まだ、土方は気付かないようだね。命をすり減らせて、それでもあの男の側にいるつもりか」

 沖田の表情が凍りついた。

「お前を江戸へ連れ戻ってほしいと、土方に頼まれた。江戸で養生しろと言っていたぞ」

 沖田はかぶりを振った。

「内藤さんは承知したのですか」

「した」

「私は帰りません。京を離れません」

「土方がいる限りか」

 ぴしゃりと障子を閉め、内藤は新たに注ぎたした盃を含んだ。

「強情だね、相変わらず。強情もよいが、いい加減土方の足手まといになるぞ」

「なりません」

「血を吐いたと聞いた」

「知りません」

「今にお前がつらくなる。後戻りができなくなるぞ」

 沖田は唇を切れるほど噛みしめた。

 内藤は卓を周り、沖田の横に片膝をついた。

 顔を上げ、沖田は内藤を見返す。

 何の表情も見取れない瞳と、微笑が刻まれた口許。

 沖田は、ふいに眩暈を覚えた。無彩色の視界のなかに、一点だけ紅く見えるものがあった。目をこらすと、それはみるみる血飛沫へと変わっていく。

(誰の血か)

 今までこの手で流してきた血は、あまりにも多かった。断末の叫びと、抜殻のような屍。

「総司」

 名を呼ばれ、我に返った。

「どうした。気分でも悪いか? 汗をかいているぞ」

 内藤の冷たい指先が、沖田の額から頬へ、張りついたおくれ毛をなぞった。

「なんでもありません」

 それだけいうのも、ひどく億劫に感じられた。身体は熱く、反対に頭と手足は冷えていた。息苦い。慣れない酒のせいだと思い、風にあたろうと立ち上がった。

 途端、視界が一転し、天井がぐるりと回った。



(続く)

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