第2話 江戸からの客 2

 新選組の屯所は京の洛西、壬生にあった。土地の郷士、八木源之丞と前田荘司邸を借り上げ、百名近い隊士が起居していた。

 新選組は、文久三年(1863)に京都守護職御預の浪士隊として結成された。主たる任務は洛中の治安維持である。かれらは受持ち区域を隊互を組んで巡察し、不逞と思われる浪士を取締った。特に切捨御免の職権を認められ、公的な組織とは別個の傭兵部隊として活動し、京においては倒幕浪士はもとより、町の人々からも忌み嫌われている存在だった。

 この年、元治元年(1864)六月、新選組は三条小橋西詰の旅籠、池田屋に斬り込み、二十数名にも及ぶ倒幕浪士を殺傷、捕縛した。

 いわゆる「池田屋事件」である。

 長州脱藩浪士を中心とした一党は市中へ放火し、どさくさにまぎれて御所へ乱入。時の帝、孝明天皇の長州への御動座を画策していたともいわれる。

 祇園祭宵山におこったこの事件により、新選組は全国にその名を轟かせた。



 元々新選組局長近藤勇と幹部らは、江戸小石川小日向にある天然理心流道場試衛館に縁をつなぐ。

 武家の出自ではない。勇の生家は、武州南多摩郡でも指折りの豪農であった。当時、天領の豪農の暮らしぶりは小大名さえ凌ぐといわれ、また、多摩地方の多くの旧家が北条家や武田家家臣団の流れを組んでいた。隠し姓を持つ一方で、万事武張った風潮を好む土地柄でもあった。

 試衛館の先代道場主近藤周斎は、勇の器量を見込み養子とし、天然理心流四代の宗家とした。

 その試衛館に、沖田総司は内弟子として入門した。九つの時である。

 奥州白河藩の浪人であった父母もすでに亡く、十才ほど年長の姉みつによって育てられていた。みつの夫、沖田林太郎と親交のあった近藤周斎はその才を見抜き、請われるように内弟子に入ったともいわれている。

 そして、土方歳三である。

 現在新選組の副長職となっているかれは、沖田より九つ年長、すらりとした体躯の涼しげな美男子である。

 土方の生家も豪農である。が、末子である歳三は十七の年に奉公にでた日本橋の呉服商を女でしくじり、家伝薬を行商しながら、もっぱら撃剣の稽古に精を出していた。幼友達である勇の道場へも時々姿を現すようになり、いつのまにか居候のひとりとして試衛館に居ついていた。

 土方の剣は天然理心流でありながらその型を大きく外れ、目録のまま皆伝には到らなかったという。近藤周斎がいうにはこうである。

「あいつと真剣で立ち会ったら、お前に勝ち目はないだろう」

 お前とは勇のことである。

 勇は反論もせず、特徴のある大きな口をほころばせ、いかつい顔で破顔した。

「しかし、まあ、真剣をとっても、歳さんは総司にはかなうまい」

 近藤勇とは、そんな男である。




 その試衛館に内藤新三郎が現れたのは、沖田が十五になった年のことだった。

 二千石の旗本の次男だったが、近年長兄を失い、幕府へ嫡子としてのお届けを終えたばかりだった。御玉が池の千葉周作道場で北辰一刀流の皆伝を受け、ときの勘定奉行の息女を許嫁に、前途洋々たる幕臣として現れたのである。


 当時、騒然とした時世に江戸中の道場は隆盛を極めていた。が、一方で腕自慢の道場破りも横行しており、試衛館では慣例として自流の弟子をこれへ当たらせず、他道場より助っとを招いていた。招かれた剣客は「試衛館師範代、何の某」と偽名を名乗り、幾許かの謝礼と引きかえに、追い払っていたのだ。

 そのなかに、内藤新三郎がいた。

 身分も育ちも異なるが、どういうわけか試衛館が気に入ったらしく、暇があると近藤道場へ手土産とともに顔をだし、親交を深めていった。




 さて文久三年春、試衛館一党は、上洛する十四代将軍徳川家茂の警護を目的とした浪士隊への参加を決めた。

 嘉永六年(1853)、ペリーが浦賀へ来航して以来、世情は開国と攘夷をめぐって騒然とした。しかも、夷狄を打ち払えという攘夷論は尊皇思想と深く結びつき、昨今は京を中心に西国雄藩の脱藩浪士によって倒幕が声高に叫ばれ始めていたのである。

 事実、十四代を重ねた徳川幕府は疲弊し、極度の財政逼迫に加え、たび重なる飢饉と物価上昇、打ちこわしや一揆の多発など、あらゆる行政機能が滞り、幕府の権威は失墜の一途をたどっていた。

 安政五年(1858)に大老井伊直弼によって結ばれた日米修好通商条約は、その気運に火を付け、同大老は万延元年(1860)、江戸城桜田門外で逆賊として暗殺された。

 さらに文久二年(1862)、孝明天皇の妹和宮が将軍家茂への降嫁。しかし、この公武合体策も功を奏せず、あたかも三百年間閉じ込められてきた公家の怨念が一気に噴出するかのように、家茂は京へ呼びつけられ、不可能な攘夷の決行を迫られていたのである。

 その家茂の上洛に合わせ、警護と攘夷決行を名目に浪士隊が徴募された。

 明けて文久三年二月八日、浪士約二百名は、小普請支配鵜殿鳩翁、講武所剣術指南方松平忠敏、同世話心得山岡鉄舟に率いられ中山道を京へと発った。

 これが昨春のことになる。



(続く)

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