無明の酔
濱口 佳和
第1話 江戸からの客 1
男はぐるりと取り囲まれたまま、不敵に笑った。
「お主、我らを愚弄する気か。事と次第によっては容赦せんぞ!」
四条大橋に近い茶店の軒先である。尾羽うち枯らした浪人が五人、いまにも抜刀しそうな勢いで居並んでいた。
囲まれているのは身なりのよい侍である。一目で大身と知れる品の良さがあった。剣呑な成り行きに少しも動じた様子はなく、端正な面立ちに穏やかな微笑をたたえ、静かに対峙していた。
「謝罪いたせっ」
「無礼を詫びろ!」
浪人らは大仰な身振りでつめよったが、強いて喧嘩をふっかけるつもりはないようだ。対手の身なりのよさから、物見遊山の旗本か、羽振りのよい公卿侍とでもふんだのであろう。まれにみる美丈夫振りと鷹揚な立居振舞に少々圧倒されるものがあったが、脅せば幾ばくかの金子を置いて逃げ去るに違いない──そんな思惑をあからさまに無視して、男は茶代をおくと四条大路を慣れた様子ですたすたと歩きだした。
夕暮れも近い。すでに十月も半ばを過ぎ、鴨川から吹きあげる風も冷たく肌を刺した。
「まてっ」
「武士の面目を潰して、そのままですむと思っているのか!」
「武士の面目…ね」
思いのほか低い声がもれた。しかし、歩はゆるめずに行く。
「まて!」
「逃げるな!」
そこで、ぴたりと足が止まった。
「逃げる?」
全く遺憾だといわんばかりの様子で、男は振り返った。
相対すると、思ったよりも上背があり身のこなしにも隙がなかった。しかし、なによりも目を引いたのはその異装である。
総髪を儒者のように肩下で切りさげ、着流しの袷に揃いの羽織、しかも下げ緒は紫で、大刀の鍔元には金鈴が下がっていた。動くたびに、それがちりちりと音をたる。武家か家司であるのは腰の大小で知れるものの、たばさんでいたのはおよそ近頃の風潮に合わない華奢な拵えである。
「謝罪せぬなら詫び料をおいてゆけ」
浪人が当初からの目的を尊大に告げると、
「なるほど。これが京で横行している追剥強盗の類というものだね。江戸にいてはなかなかできない貴重な体験だ」
浪人どもは呆気にとられた。
「おのれ、貴様……!」
いきなり抜刀した浪人が、大上段から振りかぶった。
男は水が引くように半歩下がると、右袖を刃が切り裂いた。風通しがよくなった袖に眉を寄せる。
「無礼な。無理無体を申した上でこのような狼藉を働くつもりか」
「無礼はどちらだ。我らはこの身を国事に奉らんとする国士である。お主のような浮かれ侍に愚弄されるいわれはないわ!」
「私がいつお手前らを愚弄した」
「そこの茶店で申したであろう!」
男は思い当たったようである。
「国士たるもの、茶代くらい払えねば後々のご活躍も危ぶまれる。そもそも食い逃げは人道にもとる所業。それとも貴公らは国士を騙る無頼者か、というこれか」
すらすらと復唱してみせると、浪人どもは怒気をみなぎらせて詰め寄った。
通りがかりの町人たちは、近くの暖簾うちや路地裏へと避難しながら遠巻きにのぞいていた。昨今、京の町では珍しくない斬り合いとはいえ、ひとりに五人である。それも茶屋の食い逃げを諌めての言いがかりとわかると、幾人かが町会所へと走った。運がよければ所司代の同心か、新選組が立ち寄っているはずである。
男は抜き連なった白刃の前でおっとり微笑んだ。
「ぶっそうなものは引きなさい。怪我をする」
「ほざくなっ!」
襲ってきた刃をまたもやするりとよけると、ようやくおのれの刀に手をかけた。
「聞き分けのない」
正面の男が吠えるような声をあげて、踊りかかる。
「うわっ!」
血が空中で円弧を描いた。乾いた地面を叩く。数間先に刀を握った腕が転がっていた。二の腕をなくした男は、傷口を押さえて地面を転げ回る。
かれは頬に飛んだ返り血を指先で拭った。
「どうした。次は誰だ」
浪人の顔が恐怖で引き攣った。尋常な遣い手ではないことをようやく悟ったのである。
その時だった。
「おやめなさい」
ひとりの若者が、すべるように歩み出た。
年は二十歳前後。あどけなさを残した面立ちは、絵双紙から抜け出てきたような匂やかさである。痩身ながらしなやかな身のこなしと、青年らしい爽快な潔さをまとっていた。
瞬時にかれらの間に割って入った。
「何をする。退け!」
「双方ともお引きください」
浪人どもを牽制しながら男へ歩み寄り、利き腕に手をかけた。
「内藤さんも刀を納めてください」
「やっときたか」
内藤、と呼ばれた男は、うって変わった上機嫌な笑みを浮かべた。
突然、一人の浪人が若者の背後から襲いかかった。
いつ鯉口をきったのか、若者は振り向きざまに抜き放った大刀でその刃を受けた。高い金属音と共に刀が空へ舞い上がる。かれは抜身を下げたまま、浪人らへ詰め寄った。
「お引きください。そうすれば今回は不問にふしましょう」
丁寧ではあったが、有無を言わせぬ口調だった。
「何を」
「遺恨があれば、後ほど壬生までお訪ねください。私は新選組の沖田総司と申します」
取り巻く見物人が息を飲んだ。男たちは目を剥いて後ずさる。
沖田といえば、洛中の倒幕浪士らを震撼させている新選組の、なかでもその剣を神技とさえうたわれる強者である。「鬼沖田」と陰ではいわれているもの、実際目にしたのは優しげな美貌の若者である。先程の鮮やかな手並みがなければ、到底信じられなかった。
「ひ、引けっ」
「おぼえていろ!」
「幕府の犬め!」
負けおしみとしか思えない叫びを残して、浪人どもは後ずさったあと、一目散に背中を見せて逃げていった。
沖田は近くの町人に怪我人を頼むと、すでに茶店に座っている内藤の前に立った。形のよい眉をしかめて小さなため息をつく。
それに気づかぬのか、内藤は奥の小女に声をかけた。
「茶をふたつ。団子も一皿付けてくれ」
「内藤さん」
「新選組の沖田総司の名は、まるでまじない札だね」
沖田は深々とため息をついた。
「いや、おみそれした。池田屋の一件以来、新選組の雷名はご府内でも鳴り響いているが、これほどの神通力があるとは思わなかった」
「使いの方から内藤さんがここでお待ちだと聞いて、急いでお迎えにきてみたら……」
「茶がきたよ。まあ、座りなさい」
沖田はもう一度、端で聞こえるほどの大きなため息をついた。
「本当にお変わりなく、お元気そうで安心しました」
「それは、ありがとう」
内藤には堪えぬようである。
「参りましょう。もうじき所司代の役人がきます。そうなると半日は動けません」
内藤は名残おしそうに茶碗を置いた。
「京の町は物騒だ」
「ご存知で上洛されたのでしょう。よくご公儀からお許しが頂けたものです」
直参旗本は容易に江戸を離れられぬ定めである。内藤はその直参のはず。しかも千石を越える大身である。
「江戸で色々とあってね。試衛館のお歴々が懐かしくて会いにきた」
曖昧な返答に、沖田は内藤を上目遣いに見た。
「では、すぐに屯所へご案内します。生憎と近藤先生はご出張中ですが、土方さんはいますから」
土方の名を聞いた途端、内藤の表情が険しくなった。それを横目で見ながら、沖田は悪童めいた表情で言う。
「土方さんもさぞ驚くでしょうね。内藤さんと土方さんの仲のよさといえば大変なものでしたから」
「からかうのはやめなさい」
憮然とした内藤に、沖田は澄んだ笑い声をあげた。
(続く)
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