第2話 恋に通学に全力ダッシュ

 バタバタと慌ただしく居間を駆け抜ける。

 見間違いかもと時計をあらためて見てみたが、いくら確認しても短針がひとつ隣を刺すという奇跡は起きなかった。

 絶望的な気分になりながら、焦った気持ちを落ち着けるべく叫び声を上げる。


「なんで起こしてくんなかったんだよ、ねーちゃん!!」


 寝坊した自分が一方的に悪いのだが、一言ぐらい文句を言わなければ気が済まなかった。

 甘えだとは分かっているが、向こうが寝過ごしたとき、俺はちゃんと目覚ましの役割を果たしている。たったふたりの姉弟なのだから、同じ慈悲を求めてもいいだろう。


「声かけたわよ。それでも起きなかったアンタが悪いんでしょ」


 非情な姉ちゃんの声を背中に受けながら、袋から食パンを一枚取り出す。

 焼いている暇はない。それに、もっちりが売りのこの食パンは焼かずに食べてもそこそこうまいのだ。冷蔵庫からスライスチーズを取り出し、のり巻きのように端から丸める。

 こうすることで走りながらでも食べられるお手軽フードに大変身だ。これをいまの一瞬で考えついた俺って天才じゃね?

 自画自賛しながら、廊下に投げ捨てていた荷物を拾い上げる。


「いってきます!」


 肩にかけたカバンが暴れないよう脇で抑えながら、パンを片手に慣れ親しんだ通学路をひた走る。

 パンをくわえて「遅刻ちこく~」だなんて。角でかわいい女の子とぶつからないか、なんて妄想をしかけるが、実際は女の子より車と衝突する確率のほうが高いだろう。

 死角となる交差点は慎重に辺りを確認してから駆け抜ける。


 丸一年通い続けた通学路は、どの角で曲がったら最短距離で着くか調べ尽くされていた。

 一見遠回りに見える道も、信号を加味するとこちらのほうが早く学校へとたどり着く。

 何事もすべて合理的に、効率よく。

 ゲームなども、攻略サイトがあるなら目を通してからプレイする派だ。そのおかげで、点滅する信号をギリギリで渡りきることに成功する。


 道のまんなかに大きな水たまりがあったが、走る勢いを止めずに一息に飛び越えた。

 地面に切り取られた青いキャンバスを、逆さに写った自分が横切る。スニーカーにはじかれた小石がその影をゆらゆらと波打たせた。

 空は快晴。昨日の雨がうそのようだ。

 まだ少し肌寒さの残る空気を目一杯に吸い込む。


「タケトおっはよ! 今日はちょっと遅いんじゃない?」

「おはよ。そっちも人のこと言えねーじゃん」


 後ろから声をかけられ、心臓がときめきと焦りから鼓動を増す。

 思いがけずに彼女に会えたときめきと、油断したら速攻置いていかれるという焦りだ。


 運動神経抜群の彼女は小柄だが、校内きっての俊足を誇る。

 男として置いてけぼりだけはけたい。

 揺れるカバンをしっかり抱え直して気合いを入れる。


 黒いニット帽がトレードマークとなっている彼女は、武藤実羚むとう みれい

 去年も同じクラスだった女の子だ。


 年ごとにクラス替えのある学校で二年も同じクラスになれたのは、神社やお寺を見つけるごとに賽銭さいせんを入れ、「同じクラスになれますように」とお願いしまくったからだと信じている。


 神様本当にありがとう、おかげで今年も楽しく過ごせそうです。


 お礼として、いまでもたまに寄ってお賽銭さいせんを投げ込んでいたりする。

 このままお祈りを続ければ、彼女と恋人になりたいといった、淡い願いまで聞き入れてくれるに違いない。


 愛する彼女と朝から出会い、幸せな気分になるのもつかの間。銀行に設置されたデジタル時計が目に入り、踏み出す足に力を入れる。

 「急ごう!」という彼女の言葉に押されるようにして、まだ人の少ない街を全力で駆け抜けた。


 高速で通り過ぎるふたりの姿が、ビルの窓ガラスに映る。

 ショーウィンドウに並ぶ、華やかなドレスをまとったマネキン。願うことなら彼女に白いドレスを着せて、その隣にタキシードを着て立ちたいものだ。マネキンに自分の姿を重ねる。今年こそもっと、彼女とお近づきになれればいいのだけれど。


 妄想世界に旅立ちそうになる俺の目の前を、軽い足取りで実羚が走り抜ける。

 このままではマジで置いていかれる、と慌てて気合いを入れ直した。



「はぁー、間に合ったねー!」


 無事チャイムが鳴る前に校門をくぐることができ、ぜぇはぁと肩で息をする。

 銀行前で時計を見たときはギリギリかと思ったが、意外にも余裕を持って学校へとたどり着くことができた。


 それもこれも、彼女のペースに合わせて無理やり走り抜いたからだろう。

 かろうじて置いていかれはしなかったが、常に半歩分実羚の体が前に出ていた。ひとりで走っていたなら、こんなに早くは着かない筈だ。。


「もっとゆっくりでもよかったかな?」


 ニット帽からはみ出た赤銅色の髪を揺らして、前を歩いていた実羚が俺を振り返る。つり目がちな瞳がにんまりと細められていて、不覚にも心臓が跳ねた。


 八重歯がキバのように見え、黒い服を好んで身につけることから、他の生徒には小悪魔と呼ばれていたが……誰がなんと言おうと天使だ。絶対にそれだけは譲れない。


「も、ちっと……余裕、あったじゃ……」


 会話を交わそうとして、うまく言葉にならずに失敗する。

 駄目だ、全然息が整わない。

 もともと体力に自信はない。持久走くらいならこなせるが、こんな全力疾走でマラソンだなんて自殺行為だ。


 彼女にかっこいいところを見せたいという気持ちはあるが、ここまで苦しいのなら置いていかれてもよかったかなという軟弱な心が首をもたげる。

 そんな俺の内心を悟ったのか、カラカラと小気味よく笑いながら実羚が言った。


「あはは、情けなーい! でもなんだかんだ言いながら付き合ってくれる所、好きだよ」


 ドクンと。全力疾走後の鼓動とはまったく違った衝撃が俺の心臓を襲う。

 全身の血液がレーシングカーのように全身を駆け巡った気がした。


 実羚は「好き」という単語をなんの照れもなく使う。

 彼女いわく「好意は伝えてこそ好意になる」のだそうだ。

 食べ物から人、動物、小物にいたるまで、少しでも気に入ったら「好き」と口に出して言っていた。


 彼女に好きと言われると、途端に自分の価値が高まったような錯覚に陥った。

 俺が「好き」の枠を超えて「愛している」の感情を持ったとしても不思議なことではないだろう。

 人に……ましてや女の子に「好き」だなんて言ってもらえる機会のほうが少ないのだ。

 俺みたいなモテない童貞男は簡単にその言葉に引っかかる。そりゃもう、ちょろいもんだ。


 じわじわと熱を帯びるほほを隠すようにそっぽを向く。

 駄目だ。深い意味はないと分かっていながらもうれしい。心臓は落ち着くことなくサンバのカーニバルを舞い始める。


「そ、そういえば笹生は? 今日は一緒じゃねーの?」


 わざと話題を変える。このままじゃ隠しきれずに恋心がバレてしまいそうだった。


「今日は日直があるから先に行くって。……あ、居た! りっかぁーー!」


 大声で名前を呼び、ベランダで花に水をやる笹生律花さそう りっかに手を振る。

 これだけ自己主張すれば気づかないはずもない。

 名前を呼ばれた笹生はじょうろを片手に持ちかえると、控えめにこちらへと手を振り返した。


「くあぁぁ~っ、女神様の笑顔来たよ! ほんっと大好き! 愛してる!!」


 拳をぐぐっと握りしめてフルフルと体を震わせる。

「好き」を言葉にする実羚だが、今年同じクラスになった笹生律花にだけは違った。

 一段階上の「大好き」と「愛してる」だ。


 初めはその仲むつまじさにほんわかした気持ちになっていたが、最近は少し危惧を抱いている。

 「絶対嫁にもらう」だの「彼女と夫婦になれたら毎日楽しいだろうなぁ」だのと言い始めたからだ。


 とある条件こそつくが、同性婚がこの国では認められている。

 実際にうちの担任なんかが同性婚だったりするのだが……実羚よ。隣に俺という愛にあふれた男がいるというのに、うそだよな?


「律花、いま行くからね~!」と再び駆け出した彼女の背中を見送る。

 遅刻は免れたんだ。もう追いかける気は起きなかった。

 正直、朝っぱらからヘトヘトだ。

 

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