第80話 汚された祭典
変わり果てた美術室を前にして言葉を失う。
瞬きすることも忘れ、呆然と立ち尽くす
汚され、壊された作品たち。
見た限り被害を受けていない作品はひとつもなかった。
単なる悪戯にしては度が過ぎている。相当強い恨みのメッセージが読み取れた。
「どうして……こんなこと……ッ」
『夢イストの夜明けに』の残骸を見る。黒焦げになったキャンバスからは、まだほのかに煙の臭いがする。
焼き跡の端にかろうじて残された緑のタッチが、もともとは風景画だったことを物語る。
他の絵画はマジックペンで塗りつぶされたり物理的に破かれたりしてるのに、雲璃の作品だけが焼却されていた。
あんまりじゃないか……。
この絵を完成させるために雲璃がどれだけの犠牲を払ったと思ってるんだ。残された時間を必死に駆け抜け、お婆ちゃんに見てもらうために描いたんだ。
しかし、それは叶うことはなく、おばあちゃんはこの世を去ってしまった。
『夢イストの夜明けに』は
それを、犯人は無残にも否定したのだ。
雲璃だけじゃない。一枚一枚の作品にはそれぞれ作者が込めたドラマがある。それを犯人は弄んだのだ。
「…………ッ!!」
下唇をぎゅっと噛む。爪が食い込むほどに両手を握りしめる。わたしが男だったら力任せに壁を殴ったり、椅子を蹴飛ばしたりしていただろう。
隣の雲璃に目を遣ると彼女はまだ感情が追いついていない様子だった。一番の被害者よりもわたしの方が理性を失っている。言語化できない怒りが鬱積していく。
「
幼い声の先に目を向けると佐倉先生が目を潤わせていた。
「ひどいよね……こんなの……。せんせー、みんなが頑張ってるのちゃんと見てたから……」
「佐倉先生……」
佐倉先生は雲璃のクラス担任であり、美術部の顧問である。部員の活動を応援していただけに心の傷は深そうだ。
「文化祭が始まる前の点検の時には何ともなかったのに……」
「二時間前にわたしも美術室を訪れましたけど、その時も無事でした」
狼狽する佐倉先生にわたしはそう答える。
「じゃあ、この二時間の間に誰かが……!?」
佐倉先生はそう零すと涙で濡れた目を拭いた。幼児体型に童顔の佐倉先生だが、キリっとした教育者の表情を浮かべた。
「うちの高校は風紀も悪くないし、こんなイケないことする生徒はいないはずなんだけど……。それに、今までの文化祭でもこんな事件おこったことないし……」
「内部の生徒じゃなきゃ、外部の人間でしょうね。今日は、一般来場でたくさんの人が来てますし」
ようやく雲璃が口を開いて話に入ってくる。生まれ持った透き通る碧眼に凛とした色と、確かな憤りの色を浮かべている。
「外部の人間……。お客さんの中に犯人がいるってこと?」
「はい」
佐倉先生の質問に雲璃は迷いなく答えた。
不思議と、雲璃のハッキリとした物言いに、わたしも違和感は持たなかった。
けれど、悲劇は終わらない。
「あ、あのね、二人とも。こんな時にこんなもの見せるなんてちょっと違うかもしれないけど……」
佐倉先生は躊躇いを見せながらも一枚の紙を差し出した。
文化祭では多くの告知チラシがあちこちで配られている。その内のひとつだと思った。
でもそれは、全くの趣向の異なるものだった。
芸能人のスクープなどを掲載している週刊雑誌のような白黒のレイアウト。チラシというよりは新聞のような書体。
『号外』と大きく書かれた見出し文を目で追った。
【本校生徒、
***
「なに……これ……」
目を疑う。
記事の内容をかいつまむと以下の通り。
・七月十九日、
・警察は自殺と断定して捜査は打ち切りとなったが、実は殺人事件であったこと。
・容疑者は、同校の生徒――葵ヶ咲雲璃。共犯者――笹希雨愛。
現場や時刻まで、詳細が綴られている。警察や報道も公表していない部分まで。
文字を目で追うスピードが増し、同時に喉の水分が失われていく。両足がただの肉塊になったようにまるで力が入らない。
そして、
読み終えた後に、横に大きく掲載された写真に目を遣る。
それは
吐き気を催す。
白黒の写真でも、それが作り物でもゲーム画像でもないことは明白。
本当に、ひとりの人間が血だらけで息絶えている姿。
絶句する。こんなものが、今この学校で出回っているのか……!?
「佐倉先生。これをどこで?」
「せんせーも他の先生から回ってきたのを受け取っただけだから……」
「出所は分からないんですか?」と雲璃が質問すると、佐倉先生は「ごめんね。今調べてるの」と静かに首を横に振った。
文化祭中は仮装や着ぐるみ姿の生徒も多い。配布していた人物の特定は難しい。
うちの生徒かもしれないし、一般人かもしれない。本来ならそうだ。
でも。
わたしと雲璃は確信していた。さっきまで憶測の域を出なかった考えが、記事の内容と写真によって、それは確信に変わったのだ。
そして合点もいった。さっき周りの人たちがわたし達を訝し気な目で見ていたのはこのチラシのせいだろう。ご丁寧にわたしと雲璃の名前の横には顔写真まで添付されているではないか。
「今せんせー達が新聞の回収に動いてるわ。葵ヶ咲ちゃん達を放送で呼び出そうって話もあったんだけど、お客さんを心配させちゃうかもしれない。だから、二人を探してたの。見つけたのがせんせーでよっかたわ」
少しだけ落ち着きを取り戻した佐倉先生が現状を説明してくれた。
「それにしても不愉快なイタズラだよね? 楽しいお祭りが台無しだもん」
「佐倉先生……」
「事実じゃないんだよね……? 誰かのイタズラで、ここに書かれてることは本当のことじゃないもんね? そうだよね? 葵ヶ咲ちゃん、笹希ちゃん」
心配そうに訊ねる佐倉先生にわたし達は口を開くことができなかった。
確かにこれは悪意ある者の仕業だ。
でも、雲璃が結果として
「せんせーは葵ヶ咲ちゃんの担任です。そして、去年は笹希ちゃんの社会科担当だったね。二人共いい子で、優しい生徒だって、せんせーちゃんと知ってるよ。だから、これは悪い冗談なんだよね? そうだよね?」
一度は冷静さを取り戻した佐倉先生の目尻に再び涙がたまり、言葉が震える。
「二人の口から否定してくれれば、せんせーも安心するから。学校や教育委員会のおっかない人たちが何か言ってきても、せんせーが守るから。だからっ、違うって言って! 葵ヶ咲ちゃん! 笹希ちゃん!」
これはもう学校の内部で処理できる
今なら理解る。
犯人にとってはこれが狙いだったんだ。不特定多数の人が出入りし、噂の中心地が祭り色に染まる、この日を選んだのだ。効果的にわたし達を陥れるタイミングを窺っていたのだ。
「葵ヶ咲ちゃん……、笹希ちゃん……」
どんどん声が弱々しくなる佐倉先生。
現在、美術室は立入禁止になっているが、噂のわたし達がさっき入室するのが見えて、部屋の外にはギャラリーが詰め寄っていた。
雲璃の方を見ると、彼女は窓の外を見ていた。考えに耽っているかと思ったが、その鋭い視線は何かを捉えている目だった。
通常は美術室のカーテンは閉め切っているが、ぼや騒動で煙臭かったので換気していた。風で揺れるカーテンの向こう側を、隣に立つ少女は見つめていた。
立地的に四階の美術室からは渡り廊下でつながった反対側の棟の屋上が見える。文化祭といえど、安全管理の面から屋上での模擬店活動・イベントは禁止されている。
だから、人がいないはずの最上階で動く影が鮮明に映ったのだ。
「――ッ」
「雲璃!」「葵ヶ咲ちゃん!」
勢いよく扉を開け、野次馬の間を縫って、雲璃は飛び出した。
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