第76話 もう一度あの季節へ

 雲璃くもりのシフトが終わるまで時間を潰すことになったわたしは、一旦自分の教室に戻ってみることにした。


 お昼時ということもあり並んでいるお客さんの数は午前に比べて少なかった。


 しかし、受付の子に聞いてみれば、大きなトラブルもなくノベルティのステッカーの在庫も残り僅かということ。ステッカーに関しては余裕を持って用意したのでかなりの好評だったことが窺えた。


 協力して作り上げた催しがこんなに盛況になってくれて言葉にならない嬉しさが込み上げてくる。


 軽い足取りのまま廊下を戻り、美術室へ向かう。見慣れた階段を、見慣れない人達とすれ違いながら上っていく。


「お昼挟んじゃったけど、最初に観に行くって雪原さんとも約束したもんね」


 美術室がある四階は一~三フロアよりも空いていた。人のまばらな廊下を進み、そのまま目的地へ。

 今まで授業でしか意識してなかった僻地へきちの教室が、雲璃や雪原さんと出会ってからこんなにも身近に感じる。


 そういえば雲璃と最初にキスしたのもここだった。


 制服が汗ばんでいた夏を思い出しながら、わたしはそっと扉を開いた。



***



 歩を進めると空気が変わるのを肌で感じた。絵の具の染みついた匂いに、廊下よりも暖かな室内。


 そんな外界とは違う雰囲気の部屋の中には美術部員の力作が壁一面に展示されていた。


 風景画や抽象画など、ジャンルは様々。どれもこれも本当に同年代の子が描いた作品なのかと疑ってしまうほど完成度の高いものばかり。


 素人のわたしには、この一枚の絵にどれだけの時間をかけるかなんて想像できないけれど、まるで絵画が「私を描いてくれてありがとう」と作者に言っている様に見えた。それくらい愛情が注がれた作品たちだ。


「あっ雪原さんの作品だ」


 壁沿いに歩きながら鑑賞していると『雪原久美』とネームに書かれた作品を見つけた。


 雪原さんの専攻は人物画である。今回はアニメのキャラクターがモデルのようで、顔の皺や息づかいまで聞こえてきそうなくらいリアルなタッチで描かれている。


「人物画ってこういう作風もありなんだなぁ。なんていうか雪原さんらしいや」


 雲璃と晴夏はるかは美術部でトップの腕前だと、以前に雪原さんは語っていた。でも、雪原さんだって全く負けていない。というより、ここに集結した全ての作品がわたしにとっては傑作であり名作である。


 そんな高いレベルの中でも尊敬と憧憬の念を集める雲璃くもり晴夏はるかはやっぱり凄いんだなって思った。


 その後も鑑賞を続ける。そして、部屋をだいたい半周したくらいのところで一枚の絵画と対面した。初めて見る作品ばかりの中で、だけは例外。初対面ではなく再会の一枚。


 心の中で襟を正してその絵と向き合う。


 『――夢イストの夜明けに―― 葵ヶ咲雲璃あおがさきくもり


 鮮やかな木々が生い茂る森の中。そして、湖のほとりで遊ぶ三人の妖精。


 何も知らない人にとっては、ほのぼのとした優しい光景に映るだろう。


 しかしこれは、真実を打ち明けるために描かれた罪の告白であり、同時に、晴夏の生きた証と未来の願いを永遠に閉じ込めた作品でもある。


 わたしはそれを知っている。


 制作の背景を知っているからという理由もあるけど、それでもやっぱりこの絵はわたしにとって特別だ。


「こんな絵、二度と見れないだろうな……」


 先日一度見たはずなのに、時間を忘れて見入ってしまう。まるで絵が生きていて、ずっと見つめていたら違う表情を返してくれるかもしれない、なんて考えてしまうくらいに。


 わたしの脳裏には今年の夏が蘇り、次の瞬間には今まで過ごした季節が走馬灯のように体の脇を駆け抜けていった。


 喜怒哀楽のどの感情でも表せない複雑怪奇な気持ちが体中を支配する。


 改めて思う。この絵に出会えてよかったと。この絵を描いてくれたのが雲璃でよかったと。


 瞼の裏を辿り脳の一番奥にまで焼きつけて、わたしは静かに美術室を後にした。



***



「え~~~っ! パンケーキ食べられないの~~~!?」


 二年生のフロアに帰ってくると廊下から大きなな声が聞こえた。あっちは雲璃の教室がある方だ。


「ワガママ言わないの。ほら、お姉ちゃんたちも困ってるわよ?」

「だってママぁ! パンケぇキぃぃぃ!」


 声のする方に歩いていくと、駄々をこねる女児と、困り顔でなだめる母親らしき女性がいた。予想通りその親子が立っているのは雲璃や雪原さんの教室前で、入口で受付担当の女子生徒が対応に追われている。トラブルだろうか。


 わたしが近づくよりも先に雲璃が姿を現して、その親子に深々と頭を下げた。


「申し訳ございません。予想を上回る売れ行きのため在庫を一時的に切らしてしまいまして……。せっかくお並びいただいたのに申し訳ございません」


「いいんです。遅く来ちゃった私たちが悪いんですから。他のお店に行ってみます。春流はるもそれでいいよね?」


「やだぁ! パンケーキがいい! パンケーキ、パンケーキぃ!」


「あのぉ、他でパンケーキやってる模擬店ってありますか?」


「そうですね……、クレープならやってる所あるんですけど」


「春流ちゃん、クレープどう?」


「やだぁっ!! ぱ~ん~けぇき~~~っ!!!」


 雲璃も他のクラスメートも対応に苦戦し、母親も懸命になだめようとするが、小さな女の子の大きな不満は一向に収まらない。


 どうやらパンケーキが好評過ぎて一時的に完売状態となっているらしい。楽しみにして来た春流ちゃんと呼ばれる女の子がそれを知って機嫌を損ねたという経緯だ。


 お世辞を挟まずともあのパンケーキはとてもおいしかった。実際に食べたわたしが保証する。早い段階で売り切れになっても不思議ではない。

 でも、それは出店側の都合であり、春流ちゃんは納得してくれないだろう。


 地団駄じだんだを踏んでついに泣き出してしまった春流ちゃんを見て、雲璃は彼女と同じ目線の高さになるように屈んだ。


「春流ちゃん。今ね、お姉ちゃんたちが魔法をかけてるんだよ」


「ぐすん……まほう?」


「そうだよ。パンケーキがとってもおいしくなる魔法。春流ちゃんはおいしいパンケーキ食べたいかな?」


「パンケーキ食べる!!」


「おいしくなるにはね、もうちょっとだけ時間がかかるの。春流ちゃんがお利口さんで待っててくれると、すっごくおいしいパンケーキが食べられるんだけど。どうかな、お利口さんにできるかな?」


「できるもん! ハルお利口だもん! パンケーキ食べるん!」


「うん! えらいね、春流ちゃん」


 雲璃は屈託のない笑顔で春流ちゃんの頭を優しく撫でた。あんな雲璃の表情はじめて見たな……。


 雲璃は立ち上がると春流ちゃんのお母さんに改めてお詫びをした。


「ただいま早急に材料を手配しておりますので、ご迷惑をおかけしますが、もう少々お待ちいただけますか?」


 母親は快く了解してくれて、「待てる?」と訊かれた春流ちゃんも元気よく「待てる!」と返した。そんな和やかな雰囲気が戻ったところで、わたしは声をかけた。


「あのっ! 突然すみません。春流ちゃんはゲーム好きかな?」

「ゲーム!? なんのゲーム!?」


 食いつきは良さそうだ。


「クイズゲームだよ」


「クイズ! ママといっつもテレビのクイズ見てるよ! ママが分からない問題でも、ハル頭いいからとけちゃうんだ!」


「すごい! 春流ちゃんクイズ得意なんだね~。お姉ちゃんのクラスでクイズゲームができるんだけど、やってみない?」


「えっ! やる! クイズやるぅ!」


 わたしは隣にいるお母さんに向き合った。


「よろしければ、パンケーキの準備ができるまでの間、わたし達の教室で遊んで行かれませんか?」


「それは嬉しいんですけど……この子にはちょっと難しくないでしょうか?」


「春流ちゃん。お母さんと一緒に挑戦してみよっか。遊んでくれたらシールもらえるよ」


「シール! ママといっしょにクイズやる! ぜんぶ正解するっ!」


「ですって」


 わたしが微笑みながら伺うとお母さんも柔らかな表情を浮かべた。


「はやく行こ! お姉ちゃん、ママ!」

「ああもう、待ちなさい春流。それじゃあ、すみません、よろしくお願いします」

「こちらこそご不便をおかけします」


 わたしは春流ちゃんの小さな手に引かれていく。離れる瞬間、雲璃とウインクで合図した。



***



 教室の入り口には雲璃と受付の女子生徒だけが残された。


「ありがとうね~~~葵ヶ咲あおがさきさん! あたし一人じゃどうしようもなくて……。助かったぁ~~~びぇーーーん」


「泣かないでよ。私だって具体的に何もできてないんだから」


「そんなことないよ! 葵ヶ咲さんかっこよかったよ! あたしも、それにクラスの他の子も葵ヶ咲さんのこと誤解してたと思う。頼りになるし、接客マナーもしっかりしてるし、それに……」


 女子生徒は後ろで手を組みながらニカッと笑って言った。


「さっきすっごく優しい顔してた」

「あ、あれは、事の成り行きっていうか……」

「うふ、ツンデレさんだね」

「そんなんじゃないから!」


 顔を染めながら、ばつが悪そうに雲璃は誤魔化した。


「それで、材料の調達の方はどうなの?」と雲璃が訊くと女子生徒は眉をひそめた。


「さっきね、お買い物グループの子からLIMEきたんだけど、近所のスーパーはどこも品薄らしいの。もともと私達も多めに買い込んでたし、他の模擬店も利用してたからね」


「コンビニとかは……って、どこも似たようなものか」

「それにコンビニとかだとパンケーキに使う材料売ってないんだよね」

「……ふむ」

「どうしよう、葵ヶ咲さん……?」


 人差し指を顎につけて思考を巡らす雲璃。そして、不安な表情を浮かべるクラスメートを安心させるように口角を上げて言った。


「大丈夫。私にがあるから」

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