第71話 二度目のファーストキス

「待てッ!! ら゛いかぁぁぁ!!!」

「お願い、雲璃!! ……っ、落ち着いて、雲璃!!」


 殺意を瞳に宿した雲璃くもりを背後から抱きしめて引き留める。このまま離したら、きっと雲璃は雷花を殺してしまうだろう。


「あいつだけは……ッ、あいつだけは駄目だ!!」

「雲璃……お願い……ッ」


 心の中で何かが壊れそうになった。悲痛な現実に目を瞑りたくなる。


 諦めかけた瞬間、最後に浮かんだのは雲璃と過ごした楽しかった日々だった。


 わたしは一度体を離すと、雲璃が走るよりも先に駆けだして、彼女の前で両手をいっぱいに広げて通せん坊をした。


「そこをどいて、雨愛あめ

「……どかない」


「どいて! 雨愛!!」

「どかないッ!!」


 語気を強める目の前の少女に負けないように、わたしも瞳に力を入れる。


「あいつの親は無実の人間を――私の両親の命を弄んだ。真実を隠した。絶対に許せない」


「わたしだって同じ気持ちだよ。でも、雷花らいかは別に悪くない。雲璃だって分かってるでしょ?」


雷花あいつは父親の犯行を知ってて私の家族を愚弄した。雨愛のことも共犯呼ばわりした。秘密の共有も共犯だってあいつは言った。なら、あいつも同罪でしょ。あいつに罰を与える」


「罰って、具体的にどうするの?」

「それは……」


 わたしの冷静な問いかけに雲璃は一瞬黙り込む。憎しみに駆られた瞳の焦点は矛先を失い、そっとわたしから視線を切った。


「感情的になってるのは自分でも分かってる。してはいけないことをやろうとしてることも理解してる。それでも、あいつだけは駄目だ」


 前髪を垂らして拳を握りしめる。視線を逸らしていたから、わたしが近づくのに気付かなかったのだろう。わたしはそのまま雲璃に近づいて、


「あいつだけは絶対に許せ――んっ!?」


「ん……、ちゅ……」


 雲璃の透き通った碧眼は大きく開かれてわたしを捉える。わたしの方は静かに瞼を閉じて、夜の寒さで冷たくなった雲璃の口に自身の唇を押し当てた。


「んっ、……んん!?」


 状況がつかめず動揺する雲璃くもりにわたしは構わず唇を委ね続ける。

 十秒?……一分? もしくはそれ以上? どれくらいの時間そうしていたかは分からない。


 冷たかった雲璃の唇にわたしの体温が伝わった頃を見計らって、顔を離した。


「はっ……はぁはぁ」


「ハァハァ……雨愛あめ……」


 幽霊か宇宙人でも目の当たりにしたようなきょとんとした表情で、雲璃はそっと右手で自身の口元の輪郭をなぞる。


「――ッ!」


 パシンッ! 


 と、ありったけの力を込めて彼女の頬を引っ叩いた。じんわりと赤くなっていく頬を雲璃はそっと手で触った。


「バカッ! 雲璃のバカッ!」

「雨愛……」


 さっきまで怒りで我を忘れていた雲璃は狼狽の色を見せはじめ、逆にわたしの方が今度は感情的になっていた。


「雲璃が雷花らいかを殺しても、何の解決にもならないんだよ!?」


「そんなこと分かってる。でも、あいつの父親は汚い権力に物を言わせて不都合な事実を隠し、私のお父さんとお母さんを悪役にした。おまけに娘は反省の色を全く見せない。そんな奴ら生きてる資格なんてない! だから、そこをどいて、雨愛!」


「どかない! 雲璃が犯罪に手を染めるところを看過なんて出来ない」


「私はもう南橋みなばしさんを殺してる。二人殺そうが三人殺そうが同じなんだよっ!」


 パシンッ……!


 再び雲璃の頬を強くはたくと、反動の痛みが骨に響いた。


「それ、本気で言ってるの?」


「………………」


「それで雲璃のご両親は喜ぶの!? わたしが喜ぶって思ってるの!? 雲璃を信じて命を預けた晴夏はるかの気持ちはどうなるの!?」


 雲璃は透き通った碧い瞳をゆらゆらさせながら、わたしの言葉を聞いていた。


「雲璃さっき言ってたじゃん。雲璃のおばあちゃんにとって、雲璃は最期まで良い孫だった……って。その言葉を台無しにする気? おばあちゃんの遺志を踏みにじる気?」


「それは……っ」


「雲璃が晴夏の命を奪ったのは、晴夏のためを思って、晴夏の意思を尊重した結果でしょ。でも、今雲璃がやろうとしてるのはただの人殺し。全然ちがうよ」


「雨愛……」


「もし雲璃のご両親が生きてたら、幸せの形の続きがあったと思う。でも、おばあちゃんと一緒に暮らしてきたから、今の雲璃があるんでしょ。それを無かったことにしちゃダメだよ」


 わたしは両手で彼女の白く整った手をぎゅっと握った。


「この手は素敵な絵を描いて、みんなを幸せにする手。人を殺める為にあるんじゃないよ」


「でも……でもっ、じゃあ、私はどうしたら……っ」


 ゆっくりと呼吸する海の水面のように、雲璃の瞳がふわっと揺れた。


 わたしには両親がいる。晴夏を失った過去を除けば、何一つ欠けることのない人生を歩んできた。


 しかし雲璃は違う。この歳にして、あまりにも失ったものが多すぎた。同情なんて本来できないし、説得力を欠いた薄っぺらい言葉も届かない。


 だから、わたしが目の前の女の子にしてあげられることは一つしかない。


「わたしを見てよ、雲璃。過去に縛られないで、邪魔者にも目を向けないで。わたしだけを見てよ」


 顔を上げた雲璃の瞳をしっかりと見つめて言葉を継ぐ。


「わたしはずっと晴夏がいなくなった世界に執着してた。でも、過去に縋りつくのと、思い出を大切にするのは別。約束したでしょ、雲璃の傍にいるって。雲璃はわたしのこと本当に好きなの?」


「当たり前でしょッ! 私は雨愛のことがずっと好きだった。この気持ちはずっと変わらない――」


「だったら、わたしの約束を反故にさせないでよ! 雲璃の傍に居るって言う約束を守らせてよ! わたしの傍にいて、わたしだけを見てよ!」


 言葉を紡ぎながら、わたしはポケットから小さな箱を取り出すと雲璃に差し出した。優しい色合いの木箱だ。


「なに……これ?」

「開けてみて」


 雲璃は受け取った箱とわたしの顔を交互に見ながら、最後に視線を箱に戻してそっと蓋を開けた。


 箱を開けると、中に埋め込まれたが月の光を儚く反射した。


「これ……指輪?」


 そう。夏休みにショッピングモールで見かけてからずっと惹かれていた指輪。海の輝きを宿した碧い指輪。


「これを、私に?」

「うん。そのために買ったから」

「高かったんじゃない?」

「まぁ……それなりに。佳代かよさんに頼んでバイト代前倒ししてもらった」


 結婚指輪ほど高価なものではなく、どちらかというとカジュアルな指輪だけど、それでもそれなりに値は張った。貯金とバイト代を合わせてもギリギリ届かなかったので、オーナーの佳代さんに融通を利かせてもらった。


 ”あーちゃんはいつもよく働いてくれてる”からと、最初は今月分の給料に色をつけてくれようとした。でも、お金のことでこれ以上だらしなく甘えるのが嫌だった。


 そこで、バイト代の前借りという形で手を打ったのだ。


 まぁ、そこら辺は置いておいて……。


 わたしは箱から指輪を取り出すと、金縛りにあったみたいに茫然とする雲璃の手を取って、左手の薬指にそっとはめた。


「修学旅行の夜に、『私じゃ駄目かな』って雲璃訊いたよね」


 碧の指輪をはめた雲璃の手は、まるで美術品のような完成されたものに感じられた。


「ずっと、はぐらかしてゴメン。これが……わたしの答えだよ」


「雨愛……ッ!」


 瞬間。雲璃は瞳に涙を溜めながら、痛いくらいの力でわたしの体を抱きしめた。わたしは彼女の背中に手を回して抱きしめ返す。


 雲璃の瞳の色と同じ碧い指輪。月の光に照らされた紺碧の指輪は、この世のものとは思えない魅惑的な輝きを放っていた。



***



 落ち着くと近くのベンチに座る。十月末の夜風は肌寒く、二人体を寄せ合う。


「えっと……、私たち、相思相愛ってことでいいのかな?」

「う……うん……。そう、だね」

「なんだか実感がわかないや」

「わたしも……なんだかふわふわしてる感じ」


 雲璃が左手の指輪を眺めながら恍惚の表情を浮かべる。


「でも、恋人関係になったんだね。雨愛からファーストキスもしてもらったし」

「いや、キスなんて今までにもしたでしょ?」

「あれは私の方から無理やりしたやつじゃん」


 自覚はあったのか。


「だから今回は、雨愛からしてくれたファーストキスだよ」

「あんまり良い雰囲気じゃなかったけどね」


 半ば仕方なくというか、雲璃の怒りを鎮めるためにしたようなものだし。


「ふふっ、私たちのキスってそんなのばかりだね。無理やりしたり、不意にしたり」

「そうだね」


 微笑みを零して見つめ合う。雲璃の澄んだ瞳と目が合う。じれったい時間が流れて、お互いの気持ちはもう分かっていた。


 言葉を失い、思考も止まり、磁石に引っ張られるようにお互いの顔が自然と近づいていき、唇を重ねる。


 まだキスに慣れていないので触れ合う瞬間に「ん……っ」と小さな声を漏らしてしまう。それが恥ずかしかったけど、どうやら雲璃の方も緊張しているらしく、唇の強張りにそれが現れていた。


 不器用なキスで、彼女の緊張を解いていく。


 雲璃の存在が体の内側に広がってくる。ファーストキスは甘酸っぱいとか、果物の味がするとか色々聞いていたけど、全部違った。


 雲璃の味がする。ただそれだけ。


「両想いになってからのファーストキスだね、雨愛」

「もぅ、何回ファーストキスあるのよ」

「何回あってもいいじゃない」

「……ふふ、そうだね」


 一度目のファーストキスは涙の味だった。寂しい過去を上書きするように唇を重ねる。


 過去の別れと未来の誓いを伝達する。わたしはここに居るよって、言語化されない想いを伝える。


 夜風の寒さが気にならなくなるまで、わたし達は人気のない『あかり岬』で唇をついばんでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る