第68話 名前も知らない想い人
わたしと
夜の海岸線から吹く風は肌寒く、なにか羽織る物を持ってくればよかったと思った。
「なんだか、"あかり流し"を思い出すね」
風になびく髪をおさえつつ、夜の水平線を見つめながら雲璃が言った。
あかり流し――八月の下旬に行われる夏祭り。昔、難破して日本に立ち寄った外国船の船員たちが無事に母国に帰還できるように、祈願したのが由来。灯篭を海に浮かべる様子から、灯篭流しに似ている。
それが時代とともに少しずつ変化して、大切な人の門出や旅立ちをお祈りする行事になり、今では夏休み最後に開かれる地元のお祭りとして定着した。
三ヶ月前。わたしと雲璃は、ちょうど今立っている場所から、
「おばあちゃん、あっちでもまた意地悪そうに笑ってるかな」
「あっちの人達に迷惑かけてなきゃいいけどね」
波の音が優しく鼓膜を撫でる中、雲璃が口を開いた。
「私ね、小さい頃に両親を亡くしてるの」
「うん……。おばあちゃんから聞いた」
「そっか」
「ごめんね、勝手に聞いちゃって。知られたくないことだってあるよね」
「いいの。
さらさらと潮風に揺れる髪をかきわけて、雲璃は言葉を紡いだ。
「運転ミスって事故死したって知った時は何やってんだって思ったけど、私の誕生日プレゼント買いに行ってたなんて聞かされたら責められないよね」
「当時のことは覚えてるの?」
「薄っすらと。事故のあと、たくさんの人が家に来た。それが近所の人だったのか親戚の人だったかはもう分からない。私はただお父さんとお母さんの帰りを待っていただけなのに、知らない人がどんどん家にやって来て。両親はいつまで経っても帰ってこなかった」
目を伏せながら雲璃は淡々を話す。彼女の瞳には、この夜の水面がどんな風に映っているのだろう。
「気が付いたら私は今の家――あがさ商店に引き取られていて、そこで暮すようになった。小さい頃の記憶なんてほとんど無いけど、その時にばあちゃんが言ってくれた言葉だけは覚えてる」
「おばあちゃんはなんて?」
「今日から雲璃はここから学校に通うんだよ。ごはんはあたしが作るからね、食べたいもんがあったら言うんだよ。せきがゴホンゴホンしたり、ほっぺがあっつい時もすぐに言うんだよ……って」
「昔から優しいおばあちゃんだったんだね」
「ばあちゃんは私の前で『自分が雲璃の親だ』とは一度も言わなかったの。でも、親らしいことは全部してくれた」
それから私……
学校では孤立し、放課後になれば両親のいない家に帰る。その繰り返し。
家ではよく絵を描いていた。描くのはいつもお父さんとお母さんの絵。魂が抜け、手だけに意思が宿ったかのように延々と描いていた。
学校の休み時間にも両親の絵を描いていたらクラスメートにからかわれた。
絵を描くのは家だけにして、次第に学校では描かなくなった。
私は休み時間を図書室で過ごすことにした。図書室ならひとりの時間を守れるし、誰からも陰口を叩かれないからだ。
小学校の図書室なんて初めて来たから所蔵されてる本の数に圧倒された。年季を吸った古書の匂いは不思議と嫌いにならなかった。
そこで私はテーブルに座って本を読んでいる一人の少女と出会う。
――それが、
***
「どーしたの?」
「……本」
「ご本読みたいの?」
「うん……」
「ここは、はじめて?」
「うん。はじめて」
「そっか。さいしょにカード作らなきゃいけないんだ。わたしが教えてあげるね」
一人の女の子が、カウンター付近でうろうろする私に声を掛けてくれた。他の子と会話するのがあまり得意そうではなかった彼女に、どこか親近感を覚えた。
でも、彼女は
「あっ! その本わたしも読んだよ! おもしろいよ!」
「私、本ってあんまり読んだことなくて……。さいごまで読めるかな……」
「だいじょうぶ。分かんないところは、わたしが教えてあげる。だから、いっしょにさいごまで読んでみよ。ねっ?」
「……! うんっ!」
普段は大人しいのに、本の話題になると目を輝かせる少女に思わず見惚れた。
私の両親が交通事故を起こして亡くなった噂を、この子は知っているんだろうか。知っていてなお無垢に接してくれるのだろうか。
最初は彼女の純粋さが怖かった。
別日。
「この前の本読んだよ! すごくおもしろかった!」
「でしょー! 白マントの王子様かっこいいよね~」
「私はドラキュラ伯爵もかっこいいと思うな」
「え~敵キャラなのに!?」
「そこがいいんだよ」
「変なの~。でも、おもしろいね! 同じ本なのに、感想がバラバラ!」
「ほんとだね」
「次はなに読むの?」
「これ!」
「それは、わたしも読んだことないなー。読んだら感想聞かせてよ」
「うん、いいよ」
最初は長机を挟んで斜めの席に座って読んでいた。そのうち机を挟んで向かい側の席に座るようになった。そして、隣同士で読書するのが日課になった。
昼休みだけが彼女と会える時間だった。私は昼休みになるまでが待ち遠しくなり、昼休みが終わった後の授業は苦痛だった。ずっと昼休みが続けばいいのにって思った。
別に約束しているわけじゃない。でも、図書室に行けばあの子に会える。いつしかそれが暗黙の了解になっていたし、彼女も私に会えるのを楽しみにしていてくれたらいいなって思った。
ただ、彼女の名前を聞くタイミングを逃してしまい、私の中では「図書室に行けばいつも居て、一緒に本を読んでくれる存在」だった。
もしかしたら、名前なんか訊いたら友達になりたいアピールをしてるみたいで気が引けたのかもしれない。
私は彼女と友達になりたかったけど、向こうはそうじゃないかもしれない。そんな不安が頭を過ぎって、いつも名前を訊くことができなかった。
今日もそうして、一緒に本は読むけど、名前を知れないまま、昼休憩が終わろうとしていた。
「あめーーー!」
廊下の方から大きな声がして、振り向くと向日葵のような笑顔を咲かせた女の子がこちらを覗いていた。「静かに!」と司書の先生から注意されている。
隣に座っていた女の子が向日葵少女のもとへ駆け寄っていくと、立ち上がった時の風で彼女の貸し出しカードがヒラリと床に落ちた。
私のとは違う色の図書カード。私のは青で、彼女のはピンク。うちの学校は本を借りたら、その名前と日付を書いていく。そしてカードがいっぱいになったら次の貸し出しカードがもらえる。
私はまだ一枚目だったけど、彼女がもっているピンク色はかなり先の貸し出しカード。いつも隣にいる名前も知らない女の子は、私が想像する以上にたくさんの本を読んでいた。
借りた本の数にも感動したけど、私の意識はカード上部分に向けられた。
私は床に落ちたカードを拾い上げて、彼女の名前を知る。
相手も私の名前を知らないのに、私だけ知るのも狡い気がした。それなりに一緒の時間を過ごしたつもりだけど、今の今まで名前を訊かれなかったということは、私には興味がないんじゃないかって不安になったりもした。
それでも、私は彼女の名前が知りたかった。あの子といる時間が孤独の寂しさを和らげてくれた。
幼いながらも、時間は過去の問題を解決してくれないことは理解していた。あるのは風化だけで、心の傷は一生残る。
趣味や好きなことに没頭して、嫌な記憶を遠ざけるのは自己欺瞞の延長。
図書室の少女だけが私の傷を癒してくれる。私には、彼女が全てだった。
恋なんて高尚な感情じゃないかもしれないけど、この気持ちを「好き」と呼ぶんだなと知った。彼女がそれを教えてくれた。
「
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます