第67話 夢イストの夜明けに

 キャンバスにかけられた布を取ると、わたしの眼前には美しい自然が広がった。


 緑豊かな森林と、底まで見えそうな澄んだ湖。時間の経過さえも感じさせる雨上がりの空。まるで自分が絵の中にいるような、現実と絵画の境界線を曖昧にする画力。


 それは、確かに『夢イスト』だった。


 しかし、わたしの知る『夢イスト』とは違った。


 まず、端の木陰に添えられていた向日葵が消えていること。


 『夢イスト』は雲璃くもりが制作した晴夏はるかの遺書である。木陰で力強く咲き誇る向日葵は晴夏の象徴だった。それが目の前の絵からは消えている。


 そして、


 『夢イスト』と大きく違う描写に、わたしの目は奪われた。


 清らかな水で満たされた湖。その周りの原っぱを三人の子どもが遊んでいる。


 純白のワンピースに身を包んだ二頭身の子どもたちは、どこか妖精にも見える。


 すごく不思議だと思った。三人の妖精は、二人が遊んでいるところを、残りの一人が追いかけているようにも見えるし、三人仲良く遊んでいるようにも見える。


 すごく不思議で、すごく楽しそうな妖精たち。今にも絵画の中から笑い声が聞こえてきそうだ。


 すごく楽しそうな絵なのに……。なんで……。どうして……。


 どうして、わたしは…………さっきから、泣いているんだろう。


 瞳から零れる透明な粒。一つひとつの涙の粒は結合して、頬の上で一本の線になって床に滴る。


「私はこの絵を真っ先に雨愛あめに、そして、ばあちゃんにも見て欲しかった」


 隣にいる雲璃がおもむろに口を開いた。


「私は親不孝者だ。雨愛の親友を殺して、ばあちゃんに何一つ恩返しできなかった」


「そんなッ!! 雲璃は――」


 目をこすって否定しようとしたわたしを雲璃は静かに制止した。


「いいの、雨愛。私は殺人犯で、その事実は一生消えない。でもね、私が法を犯したせいで、ばあちゃんのこれまでの育て方が全部間違っていたことになっちゃう。それだけは耐えられなかったの」


 雲璃は両手を強く握りしめたまま続けた。


「私が南橋みなばしさんを殺したことを、ばあちゃんは知らない。打ち明ける機会は永遠に失われてしまった。ばあちゃんにとって、私は最後まで良い孫のままだった。最後の……最後まで……。こんな醜い私なのに……ッ」


「雲璃…………」


「だから伝えたかった。私は道を踏み外しちゃったけど、ばあちゃんがしてくれたことは何一つ間違ってなかったんだよって。それをこの絵で伝えたかった」


 『夢イスト』が晴夏の生きた証なら、この絵画は雲璃の償いと感謝が込められた作品なのである。


「おばあちゃん、ちゃんと雲璃の親をできてたかなって亡くなる寸前まで悩んでた。雲璃はおばあちゃんに育てられて良かったって思ってる?」


「そんなの当たり前だよ」


 偽りも、誇張すら含んでいない真っ直ぐな返事だった。


 孤児になった雲璃におばあちゃんが居場所を与えた。おばあちゃんにとっても雲璃との生活が宝物だった。


 きっとこの世界に正解なんてない。でも、これだけは言える。雲璃の選択は間違いじゃなかった。他が否定してもわたしが肯定する。雲璃とおばあちゃんの選択は間違いじゃなかった。


「雲璃には人の想いを尊重する絵が描ける。それに、わたしが困っているときに助けてくれた。そんな人が悪い子なわけないじゃん。もし悪い奴だーって言う人がいたら、そういう人達の方こそ雲璃の良さを分かってないんだよ」


 そして、自分の最期を見届けてほしいという晴夏の願いを、雲璃は叶えた。一生心に残る傷である。そんな残酷な願いを叶てあげるなんて、心優しい者にしかできない。


「私、ずっと恐かった。私の秘密がいつか明るみに出るんじゃないかって。そしたらもう、雨愛とも会えなくなるんじゃないかって。せっかく会えたのに、また離れ離れになるんじゃないかって。ずっと……恐かったの」


 当然だ。尊い命を奪って平然としていられる人なんていない。雲璃はその華奢な背中に想像に堪えない重みを背負って来たのだ。


 誰も、世界も、彼女自身すら、その罪を赦せないというなら――


「私が雲璃を赦すよ」

「でも、雨愛……」


「私ね、晴夏のお墓に行ってよくお話するの。晴夏いつも言ってるよ。あたしのお願いを叶えてくれてありがとう……って。晴夏とはずっと一緒にいて、大切な存在だから、あの子の気持ち分かるんだ」


 雲璃の両手を取って指を絡める。真正面から彼女の顔を見つめると、透き通った美しい碧眼がわたしの像を捉えた。


「私が雲璃の過去を赦す。周りにバレて非難されて、居場所がなくなっても、わたしが傍にいる。わたしが……傍にいるよ、雲璃。だから大丈夫」



***



 落ち着きを取り戻した雲璃は少しだけ元気が出たように見えた。


「この絵を文化祭で展示するんだ?」

「うん。一足先に雨愛とばあちゃんに見てほしかったから」

「おばあちゃん、きっと見てくれてるよ」

「うん。そうだといいな」


 以前、『絵は作者の想いを乗せた手紙のようなもの』だと雪原さんと会話したことを思い出す。雲璃の想いはきっとおばあちゃんにも届いたはずだ。


 湖の周りで戯れる三人の妖精。それは雲璃が望んだ世界であり、おばあちゃんが見たかった景色なのだから。


「私はね、絵って永遠を閉じ込めるものだと思ってるの」と雲璃が言った。


「永遠を閉じ込める?」


「写真って流れていく日常の風景から一瞬を切り抜くでしょ。そういう意味では、絵も似てるかもしれない。でも、絵は『こうだったらいいな』っていう想いを入れられる。作者が望む世界を自由に描けて、それはずっと形に残る」


 言いえて妙だと思った。作者の願望を溶け込ませた日常の形が絵画。そうやって、作者の想いを乗せて「切り取られたワンシーン」はずっと残り続ける。


 永遠を閉じ込める……確かにそうかもしれない。


 この絵には幸せだった時間と、これから続く幸せな未来が悠久に閉じ込められている。


 最後に晴夏と共にした夕焼けの帰り道を思い出す。晴夏は最後に「またね」と言った。「さようなら」ではなく、「またね」と。


 やっと、


「ありがとう、雲璃。この絵に出会えてよかった。この絵を描いてくれたのが雲璃でよかった」


 本当にそう思う。わたし達が望んだ未来は形を変えて今もここで息づいている。


「この絵のタイトルは?」


「あー……描くのに必死で考えてなかった。雨愛がつけていいよ?」


「そんな大役ムリだよ! タイトルは作品の顔でしょ!?」


「それでも、雨愛に付けてほしい。もうこれは、じゃないんだから」


 月の光に反射された彼女の瞳が青白く光った。雲璃は赤ちゃんを寝かしつける母親のような優しい眼差しをわたしと絵画に向けた。


 わたしがどんな名前を付けても文句は言わない……そんな感情が柔和な笑みから伝わってきた。


 思い巡らす。晴夏と過ごした楽しかった日々を。そして、雲璃と描く幸せな未来を。

 そして、ひとつの案が頭に浮かんだ。複数の候補から選んだのではない。これしか思いつかなったし、これが一番いいと思った。


「決まった?」

「うん」


 わたしは、月の光に照らされた雲璃に改めて向き合うと、タイトルを告げた。



「名前は、夢イストの夜明けに」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る