第66話 前夜祭の別れ―後編―
最期におばあちゃんの顔を拝んだのは献花の時である。
深い皺が刻まれた表情はとても安らかで、自分が歩んできた人生が何一つ間違っていなかったことを無言に主張しているように感じられた。
時間はあっという間に進み、告別式を終えた。
葬儀の間、わたしはずっと俯く雲璃の姿を遠目から見ていた。
わたしは最後まで彼女にかける言葉が見つからず、今のわたしにできることもなくて、そのまま葬儀場を後にすることにした。
退室する瞬間、雲璃がわたしの方をちらっと見た気がした。わたしはそれに気づかない風を装って会場を出た。
***
「久しぶりに会ったら、なんだいこのザマは? つまんぇ石っころになりやがって。がっはっはっは」
鮮やかな夕日に染まる中、
「最後の最後まであんたの商売スタイルは理解できなかったねぇ。あんなボロ駄菓子屋なんかやってて何が楽しかったんだぃ? まぁ、ボロ喫茶店経営してるあたしが言うのもなんだけどねぇ」
そう言いながらも、子どもたちと無邪気に戯れるかつての好敵手の姿を瞼の裏に描くのであった。
佳代さんは葉巻を一本取り出すと静かに火をつけて一服した。いつもより長く吸って、いつもより長く吐いた。墓石に置かれた線香の匂いに煙草の匂いが混ざる。
「ふぅーーー……。どう考えても、先にお迎えが来るのはあたしの方だろうよぉ。なんで健康的な生活してるやつが先におっちんじまうかねぇ」
肺の空気を全て出すように長く吐いた。
「くーちゃんはどうすんだい、ババア。くーちゃんは立派な子さぁ。勉強も、部活も、アルバイトも一生懸命やってる。本当にあんたの孫かい?」
自分の背よりも高い墓石を見上げながら佳代さんは語る。
「でもね。立派といっても、まだ高校生だよぉ。高校生なんて、あたしら老いぼれからすれば、まだまだ子どもさぁ。この先どうすんだい。あんた親なんだろう?」
いつものしゃがれた声が、今日は一段と沈んでいた。
「あんたの医療費の少しでも足しになればって、頑張って働いてたんだよ。その結果がこれかい……。くーちゃんは良い子に育ったよ。あんたは最後まで大馬鹿だったね。本当に……大馬鹿……だったよ」
佳代さんは吸っていた葉巻と、胸の内側ポケットから出したダースを墓石に置くと静かに霊園から去っていった。
***
お葬式から帰ったわたしはそのまま自室に直行した。何もする気力が湧かず、制服のままベッドに横になった。
言葉が見つからない。何も考えたくない。
しかし、わたしの気持ちとは逆に、雲璃の寂しそうな顔が頭の中で明滅する。
「雲璃…………」
ぼそっと呟くと、まるで反応したように、スマホが震えた。ポケットから取り出して確認する。
『雲璃:今から会えない?』
枯渇した体の底で血が沸騰する感覚を覚えた。鞭ではたかれたようにベッドから飛び起きる。制服の乱れも気にしないまま、家を飛び出した。
十月末の夜は少し肌寒く、走るとさらに冷たい空気が頬を撫でた。
ただ、ただ、走る。徐々に体の体温が上がっていくのが分かった。
雲璃にどんな顔で会えばいいか分からない。どんな言葉を掛けたらいいかも分からない。
でも、雲璃に会える。雲璃に会いたい。
その一心がわたしを突き動かした。
***
指定された場所に向かうと、教えてもらった通り窓の鍵が開いていた。窓枠に手をかけて校内に侵入し、そのまま足音を立てないように着地した。
昼間は生徒の明るい声で賑わう学校も、今は真っ暗な廊下がただ続くだけ。消火器の赤いランプと非常口の緑の灯りが余計に不気味さを際立てる。
見回りの先生が巡回してるかもしれないので、忍者になった気分で夜の学校を徘徊する。息を殺し、足音を立てずに、約束の場所に向かう。
階段を上がる時は緊張した。足音を響かせないように四階分も登る必要があったからだ。四階の踊り場に到着したら、廊下の角を曲がる。そこが目的地。
そして、
「着いた…………」
第一美術室と書かれた頭上のプレートに目を遣る。
校舎は静まり返り、彼女は先に到着しているはずなのに、目の前の教室からは物音一つしない。自分の透明な息遣いが何倍にも拡張されて聞こえる。
わたしはスゥー……と息を吐くと、静寂を壊すように扉を開けた。
***
絵の具の匂いが染みついた室内。いつもは厚手のカーテンで閉め切られている教室も、今日は全開になっていて、秋の満月の光が美術室を明るく照らしていた。
入った瞬間に一人の影が目に入った。
肩にかかるくらいのミディアムショートヘアに、海の中を彷彿とさせる碧眼。月光の下で窓の外を眺めていた少女は、ゆっくりとわたしの方へと向き直った。
「久しぶりだね、
透明な声が優しく鼓膜を撫でる。
「さっき会ったけどね」
お葬式のときは形式的な挨拶を交わすだけだったから、こうして雲璃と言葉を交わすのは随分と久しぶりな気がする。
「ごめんね。こんな夜遅くに呼び出しちゃって」
「午後九時なんて夜でも何でもないよ」
「雨愛は夜更かしさんだからね」
雲璃は微かに笑う。その微笑みがわたしを安心させてくれる。だからわたしは勇気を出して訊いてみることにした。
「雲璃……今まで何してたの?」
「………………」
「
雷花たちは、雲璃が晴夏を殺害したことに気が付いている。わたし達は弱みを握られた。雲璃が姿を消したこの数日間、雷花たちが無関係とは言わないけど、他にも理由があったはずだ。
言い迷ったわけではないけど、たっぷりの沈黙のあとに彼女は重々しく口を開いた。
「絵を描いてた」
「絵?」
「文化祭に出展するやつ」
「でも部活には出てなかったよね?」
「一人で描いてた。完成したらばあちゃんに見せる約束だったんだ」
「おばあちゃん、文化祭楽しみにしてたもんね」
「でも、……間に合わなかった」
そう言うと雲璃は悔しさを滲ませて下唇を噛んだ。
「ばあちゃんがもう長くないことは、病院の定期検診で知ってたの。私は直接伝えてないけど、本人は気付いてたみたい……。ばあちゃんが生きてる間に、私はどうしても今描いてる絵を仕上げたかった」
「……うん」
「あの日、雷花たちと会って、私は焦るようになった」
雲璃が姿を消す直前のことだ。
「あいつらは私の秘密に気付いていた。バラされるかもしれないって思った。そしたら、もう絵を描けない。ばあちゃんとの約束が果たせないって思った」
……そういうことだったんだ。
文化祭のクラス準備も、部活動も、アルバイトも、全てを投げて一心不乱に描いていたのだ。約束を果たそうとしたのだ。
わたしからのLIMEにも返信できない程に自分を追い込んで。
しかし、その努力は報われなかった……。
「あーあ。あと二日、いや、あと一日でもいいから早く完成できてたらなぁ。私ってホントにダメだな……」
「そんなこと――」
雲璃は脱力した様子で斜め上を見上げる。燃え尽きた灰が彼女の姿を形作っているだけに感じられた。
雲璃は再びわたしに視線を戻すと、いつもと変わらぬ澄んだ声で言った。
「私の描いた絵、雨愛に見てほしい」
「わたしでいいの?」
「もちろん。これは、雨愛とばあちゃんのために描いた作品だから。完成したら雨愛に最初に見てもらうつもりだった。だから、見てほしい」
雲璃は窓際に立てかけられた一枚のキャンバスの横に移動した。そして、白く整った指先でキャンバスを覆っていた布を取り払った。
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