第65話 前夜祭の別れ―前編―

 ――雲璃くもりのお婆ちゃんが死去した。


 訃報が届いた三日後、葬儀は親族と近隣の住人に囲まれて粛々と取り行われた。


 葬儀場に到着すると、喪服姿の人混みの中に雲璃を発見した。おそらく親族の人だろう、礼服の中年男性と一緒に弔問者に挨拶している。


 わたしはゆっくり近づく。


 佐倉先生から訃報を聞いてから、雲璃にどんな言葉をかけてあげたらいいか、ずっと考えていた。

 一昨日も、昨日も、一日中考えた。しかし、結局かける言葉が見つからないままここまで来てしまった。


 列に並ぶ。弔問者が次々に雲璃と親族の人に挨拶をして名簿に名前を書いていく。

 訪れた人の数がおばあちゃんの人徳というものを物語っていた。


 学校指定の紺色の制服を着た雲璃。目は伏せ気味で前髪も若干垂れているので、正確な表情を窺うことはできない。


 弔問にきた人達にお辞儀をする雲璃。会話は特になく、機械的にこなしていく。

 そして、ようやくわたしの番が回って来た。


 目の前に立つと、なぜかわたしの方が緊張した。


 行方をくらましてから恐らくほとんど食事を摂っていなかったのだろう。頬は少し痩せこけ、ハイライトが消えた瞳からは、いつもの透き通るような碧眼を思い出させてはくれない。


(雲璃。わたしだよ、笹希雨愛ささきあめだよ。分かる?)


 心の中で念じた。その想いが少しだけ届いたのかもしれない。雲璃が顔を上げてわたしの輪郭に焦点を合わせた時、死んだ瞳にほのかな光が宿るのを見た。


 雲璃は微かに「ぁっ……」と言葉を発した。もしかしたら、わたしの名前を呼ぼうとしてくれたのかもしれない。


 無理はさせたくなかった。だから、様々な感情を封印して端的に一言だけ伝えた。


「この度はお悔やみ申し上げます」


 わたしがそう言うと、雲璃は前で手を組んで綺麗な所作でお辞儀をした。


「………………」

「………………」


 深いお辞儀から互いに顔を上げると、彼女の視線はわたしの胸元より上は見ていなくて、虚空を見つめていた。


 話したいことはたくさんあった。けれど、どれひとつとして言葉の形にならない。何もかける言葉が見つからないまま、その場を後にした。



 久しぶりに雲璃に会えた。でも、こんな再会を望んでいたわけじゃない。


 昏い気持ちを引きずったまま歩いていると、見知った顔に出会った。


 SDキャラ並みにちんまりした体で、顔には年季の入った皺。マフィアが咥えているような太い葉巻を手にした老婆。

 バイト先のオーナー、古紫こむらさき佳代かよさんである。


「おや、あーちゃん。来てたのかい」


「はい。おばあちゃんには子どもの頃からお世話になってましたので。そう言えば佳代さんとおばあちゃんは古くからの付き合いだって言ってましたよね」


「まぁ悪友というか、腐れ縁というか……」

「仲良かったんですね」

「あぁ!? 仲良くなんてないよぉ! どっちが先にくたばるか賭けてたくらいだからねぇ! がっはっはっは!」


 佳代さんはいつもの癖で葉巻に火を付けようとしたが、ここが葬式場ということを思い出して、そっとポケットにしまった。


「あのババアとは同じ学校だったんさ。若かったんだねぇ、いっちょ前に夢なんか語れる歳でさぁ、いつかそれぞれの店を持ちたいなんて、よく言ってたもんだよ」


 佳代さんはよく晴れた秋空を仰ぎながら続ける。


「卒業して、あたしは呉服店で働いてたんさ。でも、合わなかったんだろうねぇ、すぅぐ辞めちゃった。それからは飲食の店を渡り歩きながら下積みして、三十後半に自分の喫茶店をオープンしたんさ」


「それが今の『喫茶コトカ』ですか?」


「原型……かねぇ。自分の店持つなんて初めてだったから、試行錯誤で、借金も多かった。まぁ、今の経営も赤字スレスレの低空飛行だから、あんまり変わんないけどねぇ、がっはっはっは」


 きっと、念願の喫茶店をオープンさせる前も、そして開店した後も多くの苦労があったに違いない。でも、昔を懐かしく語る佳代さんの表情はどこか楽しそうだった。


「おばあちゃんは卒業した後は何を?」


「あれはお菓子メーカーで勤めておった。ほら、チョコレートとかアイスとか作っとる」

「ええ!? 大企業じゃないですか!?」


 わたしでも知ってる大手のお菓子メーカーだ。


「そうなんよ。あたしも自分の店のことで頭が一杯だったからね、あんまりババアとは連絡取ってなかったんだけど。久しぶりに会ったら『仕事辞めた』なんて言いよる」


「どうしてですか? もしかしてクビ?」


「がっはっは! あれはあたしと同じで頭だけは良いからねぇ。そんなヘマしないよぉ。希望退職ってやつさ」


「どうして辞めちゃったんですか?」


「夢を忘れてなかったんだろうね」


 ――いつか、自分たちの店を持つ。それがおばあちゃんと佳代さんの夢だった。


「あんな良い会社蹴ってどこに行くかと思いきや、駄菓子屋なんか始めよる。まだ働き盛りの歳なのに、あんな年寄りの道楽なんかに着地しよって」


「駄菓子屋を経営するのがおばあちゃんの夢だったんですか?」


「子どもが好きだったんよ、あのババア。教職課程も視野に入れてたくらいだからねぇ。あたしが無理やりこっちの道に引っ張り込んだんさ」


「じゃあ、商業の道に進んでなかったら、おばあちゃんは教壇に立っていた可能性もあるんですね」


「自分の生き方すら分からん奴に、教え子に生き方を教えられる先公なんかいないと思うけどねぇ、がっはっはっは」


「でも、良かったですね」

「何がかえ? あーちゃん」


「二人とも、夢が叶って」

「……………………」


「それに、駄菓子屋で働くおばあちゃん、いつも楽しそうでした。一緒にお菓子食べて、玩具の遊び方を教えてくれたり。おばあちゃんにとって駄菓子屋は天職だっと思います。佳代さんは無理やり引っ張り込んだなんて言いましたけど、おばあちゃんに幸せな居場所をプレゼントするきっかけになったと思うんです。きっと、おばあちゃんも佳代さんに感謝してますよ」


「………………ふん。空の上から感謝されても有り難くもなんともないね。冥途の土産のひとつでも残していきなって話だよ」


 照れくさいような、物憂げなような、形容しがたい色を滲ませて佳代さんは言った。


「佳代さんは、おばあちゃんと同じ店で働いてみたかったですか?」

「なんだい、あーちゃん。急に」


「完全に想像ですけど、おばあちゃんも佳代さんも自分の店を持ちたかった。そして、その夢は叶った。でも、その夢の先にもう一つ夢があったら……。もしかしたら、おばあちゃんは佳代さんと一緒に働きたかったんじゃないかなって」


「…………がっはっは! あのババアが無駄に優秀なのは認めるけどね、あーちゃん。店の規模も、経営スタイルも理念も違うんだ。あの老いぼれじゃ、あたしに釣り合わないよ、がっはっは! いいとこあたしの奴隷だね、奴隷!」


 佳代さんはいつも豪快に笑う。でも、今日はなんだか干上がった井戸から無理やり水を汲もうとするような笑い方に聞こえた。


 おばあちゃんの葬式。否が応でも、晴夏はるかの時と重ねてしまう。わたしと晴夏は親友だった。しかし、その時間も人生という長いマラソンから見ればたった十年足らず。


 おばあちゃんと佳代さんはそれよりも長い付き合いだ。わたしが晴夏に抱いたのと同じ種類の痛みで、わたしが晴夏に抱いたのとは比較にならない苦痛さが佳代さんを蝕んでいるだろう。


「あがさ商店はどうなるんでしょうか?」


「店を畳むことになるねぇ」

「雲璃が継ぐ可能性はないんですか?」


「もともとババアの仕事と趣味の延長ではじめた店だからね。あの店は自分の代で終わらせるっていつも言ってたんさ。孫には自由に生きてほしいって」


「なんか寂しいですね」


 あがさ商店は思い出の場所だ。わたしにとっても晴夏にとっても、もちろん、雲璃にとっても。もうあの日常には戻れないと思うと哀愁の念が募る。


 人も町も変わっていく。どこかで気持ちの折り合いを付けなければいけない。その場数を踏んだ先が”大人になる”ということなのかもしれない。


「ありがとうございます、色々聞かせてもらって」

「がっはっはっは!こんな昔話するようになっちゃ、あたしもそろそろポキっと逝くかもねぇ。がっはっはっは!」


 宇宙さえ知らない高く澄み渡る空に、佳代さんの笑い声が響いた。

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