第62話 親の資格

 雲璃くもりは父と母の三人暮らしだった。


 幼い雲璃は近所の子達と遊ぶのが苦手で、家で一人で居ることが多かった。


 両親はなかなか友達を作らない娘を心配しながらも、小学校に入学すれば自然と新しい友達ができるだろうと楽観的に思っていた。

 雲璃は両親の愛情を一身に受け、雲璃もまた父親と母親には無垢な表情を向けていた。


 橙色の空気が包むような優しい風景。何かがあるわけでもなく、何かが足りないわけでもない、どこにでもある家庭だった。



 そんな優しい時間は、ある日一瞬にして奪われた。


 ――漫然運転による追突事故。


 雲璃の両親は一夜にして帰らぬ人となった。娘の成長を何よりも願う二人は、愛娘が小学校に入学するところも見届けられずにこの世を去った。


「あの日は雲璃の誕生日じゃった。娘の誕生日と親の命日が重なる……こんな哀しいことって、あるんかねぇ……」


 父親と母親は雲璃のプレゼントを買いに行き、その帰りに事故に遭う。救急車が駆けつけた時には二人とも意識不明の重体。搬送先の病院で死亡が確認されたのは、それから数時間後のことだった。

 母親はリボンでラッピングされた箱を大事そうに抱えながら亡くなっていたという。


「他に負傷者はいなかったの?」


「対向車を一台巻き込んじゃったらしんだけどねぇ。幸いにも相手方さんは軽傷で済んだらしいよぉ。歩行者も無事だったらしいんさ」


「雲璃にとっては哀しい事故だったね」


「運転してた旦那は娘にはもったいないくらい真面目な男じゃった。そんな人がなんて、あたしゃ今でも信じられないよ。雲璃の誕生日で浮かれてたかもねぇ……」


 わたしは雲璃の両親とは面識がない。でも、会ったことがなくても、今の雲璃を見ていればきっと誠実な二人だったんだろうなって分かる。


 しかし、どんなに真っ当に生きていても、どんなに幸せのレールを歩いていても、不慮の事故は起こる時は無慈悲に起こる。そんな人生の当たり前がまざまざと見せつけられた気分だった。


「さっき娘さんって言ってたけど……」


「あぁ、母親はあたしの娘だよ。早く嫁がないと行き遅れちまうよ~って茶化したら、あんな立派な旦那連れてくるんだもんねぇ。ついこの間のことみたいさ……」


 おばあちゃんにとってもそれは骨を砕かれるような報せだっただろう。雲璃にとっての最愛の母親は、おばあちゃんにとって最愛の娘だったのだから。


「雲璃はもちろん事故のこと知ってるんだよね?」


「まだ小さかったからねぇ、当時の記憶はぼんやりしてるんじゃないかねぇ。雲璃が成長してからあたしが教えたんさ。隠すのは却って酷じゃろ?」


 その言葉に胸が痛んだ。晴夏はるかが死んだとき、わたしはそれをおばあちゃんに秘密にした。誰かの為を思って真実を秘匿にすることが回り回ってその人を傷つけてしまうということを、わたしはよく知っている。


 その後、雲璃はこの『あがさ商店』に引き取られて、おばあちゃんに面倒を見てもらうことになった。


 引き取った後のしばらくは気まずい関係だったという。もともと口数の少ない雲璃はおばあちゃんともあまり会話を持たなかった。

 出された食事にもほとんど手を付けず、子どもという年齢を差し引いてもやせ細っていた。おばあちゃんも心配する日々が続いたという。


「雲璃が絵を描き始めたのはその頃からだったかね。あの頃は両親の絵ばかり描いててね……。自分の絵は描かないんかって訊いたら、『私はもうここにいないから』……って」


「私はもうここにいない…………」


 その言葉が酷く寂しく聞こえたのは気のせいではないだろう。きっと、その絵は三人で暮らした楽しい日々を描いたものでもなく、再び幸せな形を掴みたいという願望の表れでもなく、


 ただ、もう戻れない過去と変わることのない未来を突き付けられた現実を小さな体で背負うことを決めた、決意の表れだったのだろう。


「親戚の家に引き取られる話は出なかったの?」


 言い方はよくないかもしれないけど、当時のおばあちゃんだって既にそれなりに歳を重ねていた。お店の経営状況を見ても決して裕福とは言えない。子ども一人育てるのは労力もお金もかかる。親権の変更は大きな問題である。


「最初はそういう話もあったんさ。でもあたしには、あの子には時間が必要だと思った。いきなり凪ヶ丘を離れるのは苦痛だと思ったんさ」


 親戚は県外に住んでいるらしい。ただでさえ心のケアが必要な時期だった。その上に引っ越しで環境が変われば子どもの雲璃には大きな苦痛になる。おばあちゃんはそれを懸念したのだ。


「傷が癒えてきたのは小学校に入学してしばらくした頃だったねぇ。その頃には普通にお話できるくらいになってたんだよ。相変わらず口数は少なかったけどねぇ」


 と、まるでそれが昨日の出来事のようにおばあちゃんは語る。


「何度かそれとなく提案してみたんだよ、『おじさんとおばさんの家で暮らしてみるかい?』って。最初は無反応だったんだけど、ある時から


「雲璃が凪ヶ丘を離れることを拒んだ……?」


 単に見ず知らずの家で厄介になるのが嫌だった可能性もある。凪ヶ丘ここでの暮らしに愛着が生まれたのかもしれない。


「理由なんてどうでもよかったんさ。今まで話しかけても無反応か、生返事しかしなかった子がちゃんと自分の気持ちを言ってくれたんだからねぇ。それに、あたしと暮らすことを選んでくれた。こんな老いぼれで、ちゃんと保護者もしてあげられないようなあたしなんかと……」


 気付けば、おばあちゃんは優しい眼差しのまま陰の入った顔で自分の手元を見つめた。


「あたしゃ……あの娘の親でよかったんかねぇ……。ちゃんと、雲璃の親できてたんかね……」


「おばあちゃんッ!」


 語気が強くなり、わたしはおばあちゃんの手をぎゅっと握った。


「おばあちゃんは立派に雲璃を育てたよ!」


「こんなババアじゃ孫のしたいこともさせてあげられんかったし、行きたい場所にも連れて行けんかった。雲璃を幸せに……っ、できんかった。親の代わりはあたしがじゃなくてもよかったんだよぉ」


「違うよ」


 わたしは諭すようなトーンではっきりと言った。もう一度「違うよ」と重ねると、おばあちゃんは顔を上げてこちらに視線を向けた。


「知ってる? 雲璃は目上の人と話す時は言葉遣いも丁寧ですごく礼儀正しいんだよ?」


「……そう……なのかい?」


「それからね、よくわたしをからかうの。わたしの不満げな顔を見て悪戯っぽく笑うの。あの笑顔……まるでおばあちゃんみたい。意地悪されたのになんか許しちゃうんだよね」


「………………」


 夏休みのデートも、修学旅行も、忘れることはない。無邪気な雲璃の笑顔。晴夏はるかの向日葵みたいな笑顔とは性質の違う感情表現だけど、わたしはとても好きだ。


「そうかい…………。あの子、笑うんだねぇ……」


「雲璃は魅力的な女の子だよ。昔の……ひとりぼっちで寂しかった雲璃を、今の雲璃にしたのはおばあちゃんだよ! おばあちゃんが雲璃を育てたんだよ! 親の代わりなんて他にいる? とんでもない! おばあちゃんじゃなきゃ駄目だったんだよ。おばあちゃんが雲璃の親だったんだよ」


 そこまで言うとおばあちゃんは大粒の涙をぽろぽろと零した。色々なものを背負ってきた小さく丸っこい背中をわたしは優しく撫でた。


 雲璃の第一印象は最悪だった。とてもじゃないけど和解の道なんて見えなかった。でも違った。誰よりも人間らしく、心優しい少女だった。


 だってそうでしょう?


 晴夏の『自分を殺してほしい』なんて荒唐無稽な最期の頼みを、雲璃は聞き届けたのだから。


 そんなこと、世界で一番優しい心を持った人じゃないとできないのだから。

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