第63話 決意
「ありがとうございました~」
最後のお客さんを見送って本日の業務も終了。
「お疲れ様だよぉ、あーちゃん」
オーナーの
「あーちゃんも随分と仕事に慣れたんじゃないかぇ?」
「いえ、そんな……。至らぬ点があったら言ってください。もっとお仕事できるようにがんばります」
「ひぇひぇひぇ。あーちゃんの爪の垢をバカ息子にも飲ませてやりたいよ」
「聞こえてんぞ、バカママ。蛙の子は蛙……忘れんなよ」
ぬっと息子のセバスチャンが厨房から顔を出した。手の平に収まるんじゃないかと思うほど小柄な佳代さんとは対照的に、息子は身長も一九〇センチくらいあるかなりの大男だ。金髪のウルフカットに程よく焼けた小麦色の肌。灰色の髭をはやし、黒ぶちメガネできめている。
日本人離れしている外見のせいで、常連客からはセバスチャンなんてあだ名で慕われているわけだが、生粋の日本人である。笑顔に愛嬌がある親しみやすい男性だ。
「お疲れ、
「ごめんなさい。今日はもう遅いからこれで帰ります」
「サンドウィッチにしといたから帰ってから食べな」
「ありがとうございます。それじゃあ、お先に失礼します」
セバスチャンからお夜食を受け取って更衣室に向かった。
静まり返ったフロアには佳代さんとセバスチャンだけが残された。帳簿をつけている佳代さんが皿洗いをしているセバスチャンに声をかけた。
「……で、どうだい、あーちゃんの様子は?」
「あんなしっかりした高校生いないだろ。真面目で、礼儀正しくて、向上心もある。俺が
「んなしょーもないこと聞いてないよ、バカ息子。あーちゃんの最近の様子はどうかって訊いてんだ、バカ息子!」
「…………どこか変か? あと、一つの台詞にバカ息子って二回入れるのやめてくれ、バカママ」
「ハァ……。本当にバカ息子だよ……」
「バカって連呼されるより、しんみりと一回だけ言われる方が心にくるのな」
「でかいずーたいの割に乙女心が読めないから、いい歳してコレのひとつもできないんさ」
佳代さんはニヤニヤと口角を上げながら小指をピンと立てた。
「俺の色恋沙汰は関係ないだろ! で、話戻すけどよ。雨愛ちゃん、どこか変か?」
「なんか悩んでるね」
「俺には普段と変わんねーように見えるけどな」
「これだから女の機微に疎い奴は」
佳代さんが肩を
「もっと頼ってくれてもいいんだけどねぇ。まぁ、こんな老いぼれとパチモン外国人じゃ、あんな若い子のお悩み相談役としちゃ力不足だけどね、がっはっはっは」
「仮に悩んでるとしても、仕事はきっちりやってくれてるし、ちゃんとしてるってことじゃないのか?」
「逆だよ。困ってることがあったら素直に話してくれる方が、人は嬉しいんさ。覚えとけ、バカ息子」
「だったら俺の労働環境とか給料待遇とか改善してくれよ。雨愛ちゃんも
「くーちゃん……、くーちゃん……。あぁ、そういうことかい……」
「おーい、ママ。俺の仕事環境を見直し――」
「うっさい、とっとと皿洗いな」
「だんだん息子使いが荒くなっていくな」
***
更衣室の扉を閉めると制服を着替えるよりも先にスマホを取り出す。通知画面にはバイト中に届いたLIMEが表示されている。
ついこの間までトーク画面が寂しかったわたしにとって、定期的に友達からLIMEがもらえるのはとても嬉しい。
けれど、
わたしが今、一番ほしい名前はそこには無かった。
「
呟いた名前はシャボン玉の泡のように浮遊して儚く消える。
雲璃と会えないまま数日が経過した。
雲璃に会いたい……その気持ちばかりが時間ともに募っていく。
雲璃は数日間バイトにも顔を出していない。欠席理由は『私用』で、佳代さんも詳細は知らないらしい。
なんか、このまま少しずつ離れていって、わたしが必死に手を伸ばしても応えてくれない場所に行ってしまうのではないかという不安が襲う。
「数日会えないだけでこんなに寂しんだ……」
いつからだろう……。いつからわたしの中で
雲璃のロッカーを開ける。中にはハンガーに掛けられた彼女の制服。
わたしは制服を手に取り、そのまま顔を埋めた。
ふわっと雲璃の匂いがする。雨上がりような爽やかな匂い。もしかしたら石鹸の雨だったのかもしれない。甘く柔らかな香りが鼻腔をくすぐり、同時に切なくさせる。
「……ひゃあ!?」
スマホの軽快な電子音が鳴り、驚いて体がびくっとなった。わたしはコホンと軽く咳払いをするとスマホ画面に目を遣った。
「……え」
>葵ヶ咲雲璃からの通知
そこには待ち焦がれていた人からのLIME。ずっと待っていたはずなのに、すぐに開封すればいいのに、その場で硬直してしまった。
手が震える。最悪の事態も想定しておかなければいけないからだ。
すでに
いろいろ考える。迷っていても仕方ない。震える指で画面をタップしていって雲璃からのメッセージを開いた。
『久しぶり、雨愛』
『心配かけてごめん』
『ひとつだけ言っておくね。私は、雨愛が考えているようなことは絶対にしないから。私を信じて』
『また、すぐに会えるから』
「……………………」
たっぷの時間を使って文面を読んだ後、わたしは体の力が抜けて背中からロッカーに寄りかかった。
「なにやってるんだ、わたしは」
雲璃に信頼してほしかったんじゃないのか。なのに、わたしが雲璃を信じてあげないでどうするんだ。
それに……、
『また、すぐに会えるから』
ただそれだけの結びの言葉が死ぬほど嬉しい。
すぐにでも電話をかけようとしたが寸前の所で指を止めた。雲璃が電話ではなくメッセージを送ってきたということは彼女も今は対話を望んでいないということだ。きっと理由がある。
彼女の意志を汲み取ってメッセージのみを返信をしようとする。
伝えたいことはたくさんある。でも、彼女の状況を知らずにわたしだけの気持ちをぶつけるのも違う。
彼女の顔が見たい。彼女の声が聞きたい。
その全ての感情を押し殺して、わたしは端的に『大丈夫なんだよね?』と送った。すると、すぐに既読がついて『大丈夫だよ』と返信が返ってくる。
雲璃がどこにいるかも分からない。でも、端末を通じてすぐ側にいる気がした。今、同じ時間を共有して、短い言葉のやり取りに全てを乗せている感じがした。
安心する。スマホを両手で胸にぎゅっと押し当てた。
***
「ん?」
寄りかかっていたロッカーから体を起こすと、足元に何かが落ちていることに気付いた。
手帳だ。
更衣室に入った時にはなかったので、どうやらさっき雲璃の制服を拝借している時にLIMEがきて、びっくりした拍子に落ちてしまったのだ。
水色ベースに白玉模様の手帳。状況的に雲璃の手帳で間違いない。制服に入れたまま帰ってしまったのだろう。
拾い上げてじっと見つめる。
「…………いや、さすがに駄目だよね」
いくら友達だからといって、盗み見るのはプライバシーの侵害だ。
でも気になる。もちろん好奇心もある。それに、雲璃の行方のヒントが記されているかもしれない。
理性と誘惑が
「ちょっとだけ……」
いたずら心ではなく、純粋に心配なのだ。最後に謝って手帳を開いた。
開かれたページはちょうど今月と来月のスケジュール表で、バイトのシフトや部活の日程らしきものが記されていた。というより、それしか載っていない。
雲璃の行方を示す手掛かりは記されていなかった。
これ以上物色するのは流石に良心の呵責に耐えられないと思い、手帳を閉じようとした瞬間――わたしの視線はとある日付に固定された。
シンプルに訪れる場所だけがメモされた日付欄。色付きのボールペンで印が付けられていた。
「この日付って……」
まるで足の底から新鮮な血が湧き上がって淀んだ黒い血流を塗り替えていく感覚。
手帳をポケットに戻すと、部屋を飛び出した。
「あぁ、あーちゃんお疲れ様~。気を付けて帰……」
「佳代さんッ!」
佳代さんと、床を掃いていたセバスチャンがわたしの一声に驚いてこちらを向いた。
「お願いがあります」
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