第58話 意地悪な神様

 ――神様はいつも見ててくれるよ。


 小さい頃の晴夏はるかはよくそう言っていた。


 わたしは楽観的な人間ではない。良いことが立て続けに起こると、この幸せは長くは続かないのではないか……、今の幸せの代償がこの後すぐに求められるのではないか……、そんな風に考えてしまう。昔からの悪い癖だ。


 けれども、この話を晴夏にしたら反応はとてもあっさりしたものだった。

 あれは小学校に入学する少し前のこと。


「それくらいがちょうどいいよー。むしろ、いつも前向きな人の方がちょっと危ないと思うなぁ」


「どうして?」と質問するわたしに晴夏は言った。


「人生何が起こるか分からないんだよ、あめちゃん。明日悲しいことが起こるかもしれない。幸せはされてないんだよ。心の準備をしてないととっても悲しくなるでしょ? だったら『人生は悲しいことが付き物だー!』って思っておけば、いざというときにダメージが少ないでしよ?」


「はるかちゃんはいつもそんな物騒なことを考えてるの?」


「そんな怖い話じゃないよー。たとえば、冷蔵庫に楽しみにとっておいたプリンがあるでしょ。今夜食べてもいいけど、楽しみにとっておいて明日食べたら、もっとおいしくなるよね。でも……」


「でも……?」


「お父さん怪獣に大事なプリンを食べられるかもしれない!!!」


 ふふっと笑うわたしを見て晴夏も夏の日差しのように笑った。


「だから、うちにはお父さんっていうきょーあくな怪獣がいて、その怪獣にあたしの幸せが崩されるかもしれない……って心の準備をしておけば、いざプリンが冷蔵庫から無くなってても悲しくならないでしょ? 悲しいけどね」


「はるかちゃんらしいね」


「たとえばって言ったけど、実は何度もあったことなんだ。だから、どちらかというとかな」


「お父さんは何て?」


「ごめんごめん、ほとんど食べちゃった。カラメルソースなら残ってるけど、……食べるかい? だって!」


「あっははははははは」


「プリンは黄色のところがおいしいのにっ! カラメルは苦いから嫌い」


「人生はプリンみたいに甘い部分だけじゃないね」と言ったわたしに、晴夏も笑いながら頷いた。


 すごく晴夏らしい価値観だと思った。それに、わたしの不安を払拭してくれたことがうれしかった。わたしの悩みなんか晴夏にかかれば一瞬で解決できてしまう。もとより悩みは悩みですらない。そう思わせてくれる彼女自身と彼女の生き方に憧れていた。


 同じようなエピソードは他にもある。これもまた幼少の頃の話で、その日は晴夏と駄菓子屋に行ってガムを買った。


 一個二十円でソーダ味とコーラ味があるガム。ガムはアタリかハズレが書かれた銀紙で包まれていて、アタリが出るとタダでもう一個もらえる。


 二回連続でアタリを引いたわたしは、うれしいはずなのに、どこか寂しかった。


 運を使い果たし、もうこの先二度とアタリは出ないんじゃないか……って急に不安になったのだ。

 けれど、俯いているわたしに晴夏はやっぱり同じことを言うのだ。


「次はハズレて当たり前だよ、あめちゃん。そう思ってればホントにハズレてもえーん、えーんってならないでしょ? でも、もしもアタリが出たら、とってもやったーーーってなるね」と。


 寂しそうな表情にほんのり光が戻ったのを見て安心したのか、晴夏は続けた。


「それにね、あめちゃん。あめちゃんみたいな子を、神様はいつも見てるんだよ」


「神様が?」


「うん! そうやってドキドキしている子にはね、次もアタリを出しちゃおうかな~って神様は思ってるんだよ」


「ほんと?」


「ほんと! わたしが神様だったらあめちゃんにいっぱいアタリ引かせてあげる、そしてガムをいっっっっぱい食べさせてあげる。でも、ありがとうも言わないで、次もその次もアタリを引いてやるぞっていう欲張りな人、はるはあんまり好きじゃない。そういう人にはアタリ引かせてあげないもん」


 向日葵みたいな笑顔が忘れられない。何でもない過去の日常なんて時間が経てば消えていくのに、なぜか晴夏との思い出はそういう「なんでもないワンシーン」に限って頭の中に残っている。


 人は大人になれば性格も価値観も変わる。でも晴夏は子どもの頃から変わらなかったように思う。人の悩みって案外悩みじゃない――それを平然と信じ込ませる不思議な子だった。


 ――神様はいつも見ててくれている。


 親友の受け売りで今でも心に残ってる言葉。実際、その言葉に助けられた場面は枚挙に問わない。


 でもね……晴夏。


 神様って意外と意地悪かもしれないね。



***



 温かい過去の思い出から意識が浮上すると、目の前には過酷な現実が待っていた。


 暗がりの公園に四人の女子生徒の影。わたしは膝から崩れ落ち、雲璃くもりは遠目からでも分かるくらいに血の気が引いた顔色で立ち尽くしている。


 雷花らいか喜多河きたがわさんは、人間の臓器を引っ張り出して調理し愉悦に浸る魔女のような不気味な薄笑いをしている。


 スマホの画像を見せながら話を整理したのは雷花だった。


「遺体の身元は南橋晴夏みなばしはるか。あたしらと同じ中学出身で、笹希ささきの元親友。現場には遺体と、笹希……あんたの名前が書かれた本。そして、死亡推定時刻と思われる時間帯に現場から去っていく葵ヶ咲あおがさきの姿。これはどういうことかな…………うふふ」


 邪悪で魔性な笑みを浮かべる雷花に雲璃が反論する。


「ニュースで報道された通りよ。南橋さんは崖から足を滑らせて転落した。事故死よ。彼女と雨愛あめが仲良かったのも事実。だから名前の書かれた本を携帯していたってなにも不思議じゃないわ。私だって、その日はたまたま『あかり岬』に寄っただけだし」


 もともとクールな性格で感情を表に出さない雲璃だけど、その声に若干の震えと焦燥が入り混じっているのがわたしには分かった。いつもの冷静な雲璃じゃない。


「ふーん。ねぇ……。そうだよねぇ、世の中理屈が全てじゃないもんねぇ。、……のことだっていっぱいあるよねぇ……うふふ」


 唇に指を添えながら雷花は言葉を継ぐ。


「あたしも最初は事故死だと思ったのよ。でも頭部の半壊具合を見てあかしいなーって思ったのよ。自殺か事故死か知らないけど、足滑らせて転落しただけで、あんなに陥没するのかなー……ってね。たとえば……誰かに思い切り殴られなきゃあんな傷はつかないと思うな~んふふっ。幸い、凶器になりそうな硬い岩がゴロゴロ転がっているみたいだしね」


 まるでその時の状況を見ていたかのような雷花の物言いにひんやりした嫌な汗が流れる。

 雷花は勉強の成績は良くないが、それは頭の出来が悪いとはイコールではない。観察眼や洞察眼に優れていて、


「なにが言いたいの」と雲璃が刺し殺すような目つきで二人を睨むと喜多河さんがお道化どけて答える。


「べっつに~~~。ただ、そういうこともあるよねーって話だよ。たまたま、南橋さんは『あかり岬』にいて不運にも転落してしまった。打ち所が悪くてそのまま帰らぬ人になっちゃった。同じ時間帯に葵ヶ咲さんも居合わせたけど、悲劇には気付かず去ってしまった。ぐうぜん、ぐうぜん! そうだよね? やーちゃん」


「回りくどい言い方して! 私が南橋さんを殺したっていうのっ!?」

「ええ~~~!? そんなこと一言も言ってないよぉ! あたしはただぁ、不運が重なる日もあるよね~って言ってるだけじゃん? そ・れ・にぃ……葵ヶ咲さんがそんな悪いことするわけないもんねぇ~~~?」


「…………ッ」


 証拠は無いのだから、雷花と喜多河さんの発言は憶測に過ぎないと反論することもできる。

 しかし、彼女達は確信しているのだ。あの日の真相を。


 雲璃は下唇をぎゅっと結んで右手で自分の体を抱きしめるように小刻みに震えていた。その震えが夜の寒さからくるものではないことをこの場にいる誰もが理解していた。


 わたし達は絶対零度の剣で串刺しにされたように生気を失ってしまった。


「あっ、勘違いしないでね? 笹希さん、葵ヶ咲さん。私達、この話をしたからってどうするつもりもないんだからさー……


 喜多河さんが晴れやかに笑った。


「たださぁ、修学旅行のとき、二人のせいでやーちゃんかなりご立腹だったんだよねー。あたし達、純粋に旅行楽しみたかっただけなのにさ。機嫌取り戻すの大変だったんだからー。まぁ、……」


「だから、もういい加減にしてほしいんだよね」と喜多河さんは冷たい小声を漏らして続けた。


「これ以上やーちゃんを不機嫌にさせたり、万が一やーちゃんになにかあったら、あたし……許さないから」


 終始笑顔だった喜多河さんも最後の言葉だけは凍えるように冷たかった。


「帰るよ、キー子」


 雷花が喜多河さんを連れて去っていった。二人分の人影が減った公園にはすっかりと夜の帳が下りていた。


「雲璃…………」

「……………………」


 敵対の意志も、生気すら失い虚空を見つめる雲璃に、わたしはかける言葉が見つからなかった。

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