第54話 夢イストのメッセージ
「どうぞ」
「お、お邪魔します」
六畳半の和室。可愛いというよりも実家のような安心感がある部屋。畳の匂いに雲璃の香りが混ざる。
イメージ通りというか、雑貨はあまり多くない。部屋の中央にローテーブル、壁にハンガーで吊るされた制服、隅には畳まれた布団など、最低限の生活用品で整えられている。
わたしも人のことは言えないけど、女子高生の部屋にしては質素な印象を受ける。
キョロキョロするわたしに「恥ずかしいからあんまり見ないで」と雲璃は言った。そう言われてもプライベートな空間を目の当たりにしてついジロジロ見てしまう。
すると、チェストの上に置かれた賞状に目がいった。何枚かあって綺麗に額に収められている。
「これって絵のコンクールの賞状?」
「うん。恥ずかしいからあまり飾りたくないんだけど、ばあちゃんが『がんばった証なんだから飾っておきなさい』って。前は居間に並べてたんだけどね」
「こんなに賞を取るなんて、やっぱり雲璃は絵上手なんだね」
賞状にはジュニア部門特賞や凪ヶ丘コンクール金賞など、数々の勲章が讃えられている。小さい頃から才能を開花させたのが分かる。
「私より上手い人なんて無数にいるよ。賞をもらったのだって偶然だし。ただ、うん、上手かどうか分からないけど、絵を描いてるときは気が楽かな」
最後の方は呟くように言った。その言葉の深さにその時のわたしが気付くことはなかった。空気を切り替えるように雲璃は運んできたお盆に目を遣った。
「せっかくだしシュークリーム食べちゃわない?」
「あ、うん。いただきます」
さっきおばあちゃんが用意してくれたシュークリーム。おしゃべりしてて手を付けてなかったので、そのまま雲璃の部屋まで持ってきたのだ。
「テレビとかゲーム機とかはないんだ?」
「ゲームは全然しない。テレビは居間で見てる。雨愛はゲームとかするの?」
「テレビは自分の部屋にもあるけど、わたしもゲームは全然だなぁ」
「ごめんね何もなくて。私の部屋退屈でしょ?」
「ううん。わたしだってぬいぐるみとか可愛い小物とかほとんど持ってないし。流行のモノとかよく分かんないし」
部屋はその人の性格を映すのかな。さっぱりしたこの部屋は雲璃の性格を象徴するようで、ファンシーグッズが皆無な自室は、やはりそういうのに無頓着なわたしの性格をよく表している。
「ふふっ。
「え!? やだ、恥ずかしい……」
「じっとしてて、取ってあげる」
そう言うと雲璃は隣に座り直して、顔を近づけてきた。
「ちょ、ちょっと……雲璃!?」
「動かないで」
座ったまま頭を退かせるわたしに、雲璃は顔を寄せる。ふわっと彼女の匂いが鼻腔をくすぐった。そして、まつ毛の数さえ数えられるくらいに接近して、
「……ぁむ」
「ひゃ! ちょ、ちょっと! 雲璃!」
雲璃はわたしの口についたクリームをペロッと舐めとった。薄い桜色の艶めかしい唇にバニラクリームがついている。彼女はそのまま口についたクリームを見せつけるようにペロッと舐めた。
「……あまいね」
「~~~~~っ!」
「まだクリームついてるね。じっとしてて、取ってあげる」
「も、もう、だめ! 自分でとるから。それに……」
「それに?」
「ダメだよこんなこと」
「こんなことってなに、雨愛?」
「こんな……キスみたいな」
わたし達は友達だ。恋人じゃない。こんな不埒な真似はしてはいけない。
それも女の子同士で……。
「キスじゃないよ。ただ、口のまわりについたクリームを取ってるだけ。それとも雨愛は、ただそれだけの行為に邪な感情を持っちゃうイケない子なんだ?」
「ち、ちが……。わたしはただ、付き合ってもいないのにこんな恋人っぽいことはダメだって言ってるの」
「恋人じゃなくてもみんなやってるよ」
「みんなやってるよ……っていう常套文句は、信じないから!」
「いいから、じっとしてて」
「あぅ…………」
言葉の圧と瞳の奥を覗くような眼差しに負けて、仕方なく口を差し出して目を閉じた。
目を閉じていても、息遣いで雲璃の顔が近づいてくるのが分かった。お互いの吐息が交錯し、彼女の口はそのままわたしを捉えた。
「ぁむ……ん……」
「んっ…………」
雲璃の唇がわたしの口元に触れた。そのまま唇の周りの輪郭をなぞるように舌を這わしていく。
「……………ッ! ~~~~~んん」
「ぁむ…………ちゅ……」
クリームが溶けて、身体が蕩けそうになる。
「――ッ! えいっ!」
「なっ、ちょっと……」
わたしは雲璃の両肩に手を当てて体を引き離すと、そのまま勢いに任せて彼女を押し倒し、雲璃の上に跨るような姿勢をとった。
「んっ…………ぁむ……」
「んん……ッ! 雨愛……ッ! ん……」
「ん…………、ぷはっ……! ハァハァ……ハァハァ……」
「はぁはぁ……。雨愛……なにを……」
「く、雲璃の口にもクリームついてたから、ととと、とってあげたの……」
「っ……!!」
「いつものお返しなんだから」
「キスはしないんじゃなかったの?」
「キ、キスじゃないんでしょ……!? ただ、クリームを舐めとってるだけだからっ!」
呆然と目を丸くしていた雲璃だったけど、わたしの爆発しそうに真っ赤な表情を見て、ニヤニヤと口角を上げた。
「雨愛。まだ私の唇にクリームついてるよ? とってくれる?」
「う……うん……」
雲璃の胸に手を当てて顔を近づける。心臓の鼓動が手に伝わってくる。雲璃もドキドキしてるんだ。
「ちゅ……、あむ」
「ん……んん」
フェザータッチのようなソフトな感触。これはキスじゃないと自分に言い聞かせ、小鳥のようについばむ。口の周りを舐めてるだけで妙な気分になる。彼女の唇と鼻から漏れる熱い息がわたしの理性を壊していく。
舌の上で踊る洋菓子の甘さに、鼻腔をくすぐる彼女の甘い匂い。ふたつの甘さに脳細胞が麻痺していく。
もうクリームがついてないってお互いに分かってるのに舐め合うことを止めない。わたしが雲璃の唇付近を舐めて、お返しに、雲璃がわたしの口元を吸う。
その度に背中から体全体に甘い電気が駆け抜けた。
一通りクリームを取ると、至近距離で互いの目が合った。
「ふふっ、汚れちゃったね」
「綺麗にするために舐めたんでしょ!?」
「ううん。雨愛に汚されちゃった」
そう言って彼女は人差し指を自分の口に当てて蠱惑的な笑みを浮かべた。
押し倒された雲璃と覆いかぶさるようなわたし。その体勢のまま、しばらく見つめ合っていた。
***
無事に(?)シュークリームも食べ終えてリラックスしていると、壁に立てかけられた板のような存在が目に入った。白い布が被せてあるが、それが絵のキャンバスだとすぐに分かった。
「ねえ、それ見てもいい?」
「いいけど、雨愛はもう見たことあるよ」
「?」
小首を傾げるわたしを横目に、雲璃はすくっと立ち上がって、被せてある布を取ってくれた。
「あっ……」
それは晴れ渡る空の下に広がる森と湖。木陰に咲く一輪の向日葵。
「夢イスト……」
夏の展覧会でみた『夢イスト』であり、雲璃はその作者である。
「私ね、まだ雨愛に言ってなかったことがあるの」
雲璃はキャンバスの縁を手でなぞりながら言った。
「夢イストはね、
「
「自分が生きた証と思い出を残したいって。自分をモチーフにした絵を描いて欲しいってお願いされてね」
雲璃は晴夏から彼女の病気のことを知らされていた。その時点で晴夏は、自分の余命がもう長くないことを予感していたのだろう。
木陰で力強く咲く向日葵は、病気に抗う晴夏そのもの。『夢イスト』は彼女が残したもう一つの遺書だったというわけだ。
「自分にそんな大役が務まるか自信なかったけど、南橋さんに縋られてね」
「それだけ晴夏も雲璃の絵の腕を評価してたんだよ」
晴夏と雲璃は美術部で一位、二位を争う関係だった。秘密が知られたからという理由もあったと思うけど、それ以上に、雲璃の腕を見込んでのお願いだったんだろう。
「完成した時に真っ先に南橋さんに見せたわ」
「晴夏はなんて?」
「無言だった。気に入らなかったかなって不安になったけど、そうじゃなくて……」
雲璃は一拍置いた。
「……泣いてた」
佇んだまま、表情を変えないまま、一筋の雫が頬に線を引いたという。
「ありがとう……ありがとう……って、何度も何度もお礼を言ってくれて。顔をくしゃくしゃにしながら泣いていたわ。私はその顔が忘れられない」
晴夏のために、晴夏の人生をたった一枚の絵に込めて、ありったけの感謝を伝えられ、そして最後には命を奪わなければいけなかった雲璃の気持ち――そんな雲璃の心情は考えたくない。
わたしは晴夏の泣き顔を見たことがない。記憶に残るは、あの向日葵の笑顔ばかりだ。そんな晴夏が大粒の涙を流して泣いた作品。雲璃はしっかりと晴夏の遺言を受け取り、形にしたのだ。
わたしは展覧会で初めて見たけど、晴夏からすれば、あれは二度目だったわけだ。『夢イスト』を眺める晴夏の横顔は一生忘れられない。
「ところで、夢イストってどういう意味なの?」
ずっと抱いていた疑問を口にした。雲璃はわたしの目を見つめると、再び『夢イスト』に視線を戻して優しく口を開いた。
「夢イストは、ムイストって読むの。フィンランド語のmuistoを文字ったものよ。muistoの意味は……”思い出”」
「思い出……」
「南橋さんの生きた思い出。そして、これを見た人がいつでも彼女のことを思い出せるように。彼女にとっても、残された人たちにとっても、大切な思い出になりますように……そんな願いでつけた名前よ」
その優しくも温かい理由に胸が満たされる。全てを知って改めて『夢イスト』を見るとたくさんの想いとメッセージが込められた作品だと分かる。
「フィンランド語が語源だったから、風景が北欧っぽいデザインなのね」
改めて思う。この作品を描いてくれたのが雲璃でよかったと。
夢イストのメッセージはきっと晴夏にも届いたはず。晴夏が託し、雲璃が叶えたメッセージは、ちゃんと残された者にも届いた。
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