第42話 戻らない過去は月の光に沈む
修学旅行二日目の夜は京都市内の旅館に泊まる。一日中歩き回って疲れたのか、消灯して十分もすれば周りから安らかな寝息が聞こえてきた。
……………………。
寝苦しさを覚えて、何度目か分からない寝返りをうつ。眠れないのは、普段使わない布団で寝ているとか、隣にクラスメートがいるからとか、そういう理由ではないだろう。
どれくらい時間が経っただろうか。浅い眠りから起きてスマホを確認すると午前零時を少し過ぎた頃。
スーと静かにドアが開く音がした。誰かが夜中にトイレに行って戻って来たらしい。彼女はそのまま自分の布団へ……ん?
(いや、違うよ。ここ、わたしの布団……)
誰か分からないけど、きっと寝ぼけてると思った。彼女はわたしの布団の中に潜り込むと、わたしと向かい合うような体勢になった。暗くて顔は見えないけど、静かな吐息が伝わってくる。
雲が流れて、月の光が障子を透けて部屋に届くと、ぼんやりと彼女の顔が見えてきた。
「こんばんは。
「く、
「しーっ……」
雲璃が人差し指をわたしの口元にそっとあてる。
「な、なんでここに雲璃が……?」
「雨愛に会いに来ちゃった」
こしょこしょ声で話す。浴衣越しに伝わる雲璃の体温。そして、ほのかの香るシャンプーの匂い。同じシャンプーとボディソープを使っているはずなのに、雲璃からは良い匂いがする。
「ちょっと部屋抜け出さない?」
「……うん」
部屋を出て休憩処に来た。他に誰もいない夜の旅館。非常口の緑色の明かりが暗闇に浮かぶ。音の消えた空間では、隅にある自販機の駆動音が微かに聞こえるだけ。
「手、大丈夫?」
「うん。もう平気。さっきはありがとう。その……助けてくれて」
曇璃が助けに来てくれなかったらどうなっていたか分からない。
「なんで雲璃はあそこにいたの?」
「雨愛の姿が見えたから、会いたくなって」
「研修中なのに? グループを抜け出してきたの?」
「……うん」
「ふふ。悪い子だ、雲璃は」
「悪い子は嫌い?」
「ううん。その悪い子に助けられちゃった。ありがとう」
音のしない夜の旅館に少女二人分のくすくす声が澄み渡る。
「雲璃、わたしに訊きたいことがあるんでしょ?」
「なんでそう思うの?」
「そういう顔してる」
「無理に話さなくてもいいよ。雨愛が嫌なら」
「ううん、大丈夫。それに、雲璃には聞いて欲しいから。わたしの退屈な昔話を」
窓の外の満月を見ながら深呼吸を一つ挟んで語りだす。わたしの、つまらなくて、もう戻れない昔の話を。
***
「
元々は雷花たち三人だった所に雨愛が加わりたいとお願いしたのだ。
「でも雨愛は
「うん。だからこそなんだけどね……」
成長すると、周りの目が気になったり、背伸びをしたり、今まで当たり前だったものを否定したくなる。雨愛は小さい頃から晴夏と一緒だった。それをからかう心無い子達がいたのだ。
「わたしには晴夏しか友達がいなかった。でも、晴夏と遊んでると、あいつらいつも一緒にいるよーって後ろ指をさされたの。晴夏は別に気にしてなかったけどね」
「わたし達は間違ったことしていない。悪いのは冷やかす周りの子達だって、今なら分かる。でも、当時は分からなった。まるで、晴夏しか友達がいないことが恥ずかしくて、悪い事のように思っちゃったの」
「そんなある日、雷花のグループに目を付けた」
スクールカーストという言葉がある。社会集団を営む以上、必ず序列が生まれる。
雷花は成績も不良で生活態度も悪い。人気を集めるような要因は皆無だ。しかし、序列を勝ち取る要因は何もポジティブなものである必要はない。
性格が賑やかだとか、声が大きいとか、何でもないようなことでクラス内のカースト関係が決まるのは往々にしてある。雷花たちはクラス内で上位の存在だったのだ。
「中一の秋くらいかな。”中学デビュー”とはちょっと違うかもだけど。晴夏以外にも友達を作ろうと思ったの。雷花たちと友達になればそれが叶うと思ってた」
わたしは浴衣の上の羽織をきゅっと掴んだ。
「前に、晴夏が亡くなった時に持っていた本の話をしたでしょ」
「雨愛が南橋さんにプレゼントした本だよね?」
「うん」
雷花のグループに入ってから次第に雨愛は晴夏と距離を置くようになっていった。余所余所しくする雨愛に晴夏は不満を募らせていく。
「晴夏にはクラスにも美術部にもたくさんの友達がいた。でも、わたしには晴夏しかいなかった。心はどんどんやさぐれていって、ある日言っちゃったの。晴夏は他の友達とつるんでればいいじゃんって。わたしじゃなくても別にいいじゃんって」
「そしたら晴夏怒っちゃって、わたしが誕生日にあげた本を捨てたって言ったんだ。絶交だって」
お互いのつまらない見栄が亀裂を生じさせた。雨愛と晴夏は遊ぶことも、会話することも、廊下ですれ違っても目を合わせることもなくなった。
「雷花たちとその後は?」
「全く馴染めなかった。喜多河さんと御津木さんとはそれなりに仲良くなれたんだけど、雷花とは最後まで馬が合わなかったの。二人は雷花の方が大事だから、次第にわたしだけがグループで孤立していったの」
周りの顔を窺って、話を合わせて。居心地の悪い関係だった。四人でいるはずなのに、わたしだけが「いない」感じ。そこに居るのに、いない。舞台背景の木と同じ。そんな役割を演じる日々を続けた。
「だんだん雷花の風当たりも強くなっていった。わたしにだけ汚い言葉を使うようになったし、万引きしてこいって命令されたこともあった。そうしたら正式に仲間として認めてやるって。拒絶するとますます雷花の機嫌は悪くなっていって。ああ、この人とはもう分かり合えないんだなって思った」
「それで縁を切ったの?」
「うん。三年に上がる時にね。むしろ、そんな窮屈な関係によく二年近くも耐えたなって思う」
晴夏と喧嘩して、グループからも脱退して、わたしはひとりぼっちになった。
今年の夏が重なる。雪原さんと喧嘩し晴夏を失った。思えばあの時からだ、ひとりぼっちになるのが恐いと思うようになったのは。
「でも南橋さんとは仲直りできたんだよね?」
「三年の夏くらいまでひとりだった。仲直りのきっかけを作ってくれたのはやっぱり晴夏だった。お互いにたくさん謝って。同じ高校を受験しようって話になって、わたしが晴夏に勉強を教えたりしたの」
そして、晴夏と一緒の高校に入学できた。また晴夏と一緒に過ごせた。それは宝物のような時間だった。
「雨愛が辛そうにしてるのは知ってた。陰からずっと見てたから」
そういえば雲璃はわたし達と同じ小中学校だったと言っていた。もしかしたら会っていたのかもしれないけど、わたしにはその記憶がない。でも、今なら分かる。新しい人間関係を作ろうとして、今までの関係をリセットしたんだ。
自己暗示……まではいかないけど、今までの自分と環境を捨てて、新しく変わろうとした。やり直そうとした。
新しい笹希雨愛になろうとして、失敗して、失った。雲璃だけじゃなく、他のことに目を向けている心の余裕は無かったのだ。
「あんな奴ら縁切って正解だよ」
「本当に時間の無駄だった。それ以上に、大嫌い」
「雷花が?」
「ううん、わたし自身が。晴夏と喧嘩した過去のわたしが嫌い。つまらない感情に流されて時間を捨てたわたしが嫌い。見栄を張らなければ、晴夏の病気にだって気付いていたかもしれない」
血が出そうなくらい下唇を強く噛んで、両手もぎゅっと握る。雲璃は背後からそっと両手をまわして、わたしの体を抱き寄せた。月の光が辺りを青白く満たし、それはまるで透き通った海の中にいる様。
「辛かったね」
「辛いなんて言う資格はわたしには無いよ。晴夏に酷いことしたのは全部、わたしなんだから」
また涙が流れると思った。でも、もう遠すぎる過去に泣くことすら許されない。
「わたし、謝り尽くせたのかな。晴夏が生きてる間に、ちゃんと謝れたのかな。ちゃんと、一番の親友でいられたのかな」
「雨愛は頑張った……。頑張ったんだよ。南橋さんもちゃんとわかってくれてるよ。最期の瞬間まで大事に抱えていたプレゼントの本。あれが南橋さんの”答え”だよ」
腰を抱く曇璃の手にいっそう力がこもる。錆びついた心を優しく撫でるように、雲璃はわたしの背中に顔を埋める。まるで心に直接、「大丈夫。大丈夫だよ」と語りかけられてる気分だ。
「私じゃ……ダメかな」
「その質問は意地悪だよ、雲璃」
「わかってる。でもね、雨愛がどんなに自分のことを嫌いになっても、私は雨愛のこと好きだよ」
今、そんな台詞……。本当に、意地悪だよ……雲璃。
部屋の明かりすら要らない月光の下で、わたし達はしばらく無言のまま抱き合った。満月だけがただ見ていた。
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